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言葉を見つめる世界線のなかで【ドラマ『silent』鑑賞記】

信頼できる友人に限って、しきりに「詩乃は絶対に好きだから、『silent』を観てくれ」と言ってくれていた。

その理由を聞いたことはほとんどなくて、というか、みんながみんな「観ればわかる」と言うだけ言ってその本心を教えてはくれなくて、ただ「いい作品だから」とだけ伝えられていた。

事前情報として、ひたすらによく泣けるドラマだと聞いていた。最終回に向けて泣けるとかではなく、第一話から泣ける作品だと。だから、観るのがいやだった。

わたしは映画にせよ舞台にせよ小説にせよ、没入が半端じゃないタイプの人間だ。心のキャパシティがすべてその作品のことでいっぱいになってしまうのがわかるから、「よく泣ける」「よく笑える」そういう評判がきこえた作品は、自分の心に受け止めるだけの余裕があるときでないと、とてもじゃないが観きれないのだ。

『silent』の放映は2022年の10月がはじまりだから、その余裕をつくれるまでに1年と3ヶ月もかかってしまったことになるが。

 

結論から話すと、友人たちがおすすめしようとしてくれる理由がよくわかった作品だった。たぶんそれは、脚本であり、絵であり、そういう点にあらわれているのだろうが、わたしが言葉を取り扱う人だからなのだろうとも思う。

まだ観ていない、という人がこの記事に万が一たどり着いてしまったとき用のあらすじ(Tverより拝借)はこちら。(※ 以降、ネタバレはしないが、作中の台詞の引用がいくつか続くので、読み進める際にはお気をつけを)

主人公の青羽紬(川口春奈)は、8年前に一生をかけて愛したいと思えた恋人との別れを経験し、新たな人生を歩もうと前を向いて生きている一人の女性。

そんな紬と大切な人との出会いは高校2年の秋、たまたま朝礼で耳にしたある男子生徒の声に惹かれたことがきっかけだった。壇上で作文を読む、佐倉想(目黒蓮)に心を奪われた紬は、次第に彼が気になる存在になっていることに気づく。

3年生で同じクラスとなり、共通の友人を通してだんだんと距離が縮まっていった二人は付き合うことに。音楽好きというお互いの趣味で通じ合い、仲を深めていった二人だったが、卒業後のある日、これからも一緒にいたいと思う紬に対し、想は突然、理由も言わずに別れを告げて姿を消してしまう。

それから8年という月日が流れ、新たな人生を歩み始めていた紬だったが、ある日、偶然、雑踏の中に想の姿を見かけたことをきっかけに、再び彼の存在を意識するようになっていく。

もう一度、想に会ってちゃんと話をしたいと彼の姿を探し始めた紬だったが、実は彼が徐々に耳が聞こえにくくなる「若年発症型両側性感音難聴」を患い、聴力をほとんど失っていたという思いがけない現実を知ることになり…。

学生時代にお互いを思いあった仲であるはずなのに、聴力を失ったことで引き裂かれた関係。それをどう、紡ぎあっていくのかを描いているのが本作品だ。

音の聞こえない世界のなかで生きる人、それを見つめる人、さまざまな視点の感情にスポットライトが当たるからか、立体的に、人の心情を見つめることができるのが、多くの視聴者に愛された理由なのだろうなとも思う。

全11話にて構成されており、どの話にもグッと刺さるポイントはあるのだろう。なのだけれど、わたしは特に2つの点で心に残ったことがあるので、その話を記しておこうと思う。

 

まず、「他者とのコミュニケーション」について。この作品では、ろう者として登場する人々が何人かいて、わたしは聴者とろう者とでどんなふうに考えを伝えあい、言葉を表現していくのか、を観たいと思っていた。

実際に作中でも、それらを対照的に描くシーンがあり、わかり合えないともどかしく思う心、諦めたり悲しむような心持ちが生まれていることを知った。

ところが作品の後半で、少しずつ歩み合い、立場に関係なく気持ちを理解できること、そして、それは難しくて愛おしいことを伝える瞬間があった。作中の台詞を2つほど引用して紹介したい。

「手話はコミュニケーションの手段でしかなかった。言葉の意味を理解することと、相手の想いが分かるってことは違った。(10話より)」

「人それぞれ違う考え方があって、違う生き方してきたんだから、わかり合えないことは絶対ある。他人のこと可哀想に思ったり、間違ってるって否定したくもなる。

それでも一緒にいたいと思う人と一緒にいるために、言葉があるんだと思う。たぶん全部は無理だけど、できるだけわかり合えるように、たくさん話そうよ。言葉にできないときは黙って泣いてもいいよ。(最終話より)」

あたりまえの話なのだが、これは聴者やろう者に関係なく、等しく忘れちゃいけないことのように思う。コミュニケーションがどれだけ取れる相手とでも、自分の話していることがうまく届いていない気がして焦れったくなることがある。

逆に、交わした言葉数は決して多くないのに、相手の思いがよく理解できたり、自分の意思が相手に届いたと感じられる瞬間も、生きているとある。そういうときに、わたしは「大切なのは言葉じゃないなあ」と心底思う。

どちらかというと、言葉云々ではなく、相手の存在を大切に思うからこそ生まれる「理解したい」と感じるその心のほうに価値がある。

そんな、素朴だけれどふと忘れてしまいそうなことを、改めて心に刻まれた気がした。

 

それと、「言葉を可視化する」ことについて。作中では、多くの手話を通じて対話するシーンが描かれている。それを、目黒蓮くん演じる想は「言葉が見えるようになってよかった」と表現して微笑む瞬間がある。

主人公の紬と想は、学生時代の回想でお互いの声が好きだったり、音楽を聴きあう仲だったりと、「音」を起点としたコミュニケーションを取っている。そこから、手話を使ったり、CDの歌詞カードを読んだり、「視」を起点としたコミュニケーションをとるように変化した。

もちろんそれは、想が聴覚を失ったからという理由に他ならないのだけれど、言葉は耳で聴くのと、目で見るのとで伝わり方がまったく変わるから。それは良いとか悪いとかではないけれど、少なくとも『silent』の作中では、言葉を見つめることができた世界が、彩り豊かになっていたように見えた。

たとえば、話し言葉は、コミュニケーションのスムーズさを担保してくれる。ひとつのことを伝えるのに、話すことよりも手っ取り早い手段はない。言葉に記すと、その分時間がかかる。焦れったい、もどかしい、そう思う。

でも、だから言葉を必死に選ぶ。どう伝えたらいいのか、ゆっくり考える時間があって、きちんと他者や心と向き合えるから。相手のことを思いやりたいから、傷つけないように、正しく思いを届けられるように、しっかり選ぶ。

今のこの時代にそぐわない考え方かもしれないけれど、わたしはそういう考えられたコミュニケーションが好きだ。自分もそうありたいと思った。

作中ではささやかにしか描かれていないけれど、想は社会人になって「校閲」を仕事にしている。(ここからは憶測だけれど、)そういう進路を選んだのは、自身として言葉を「どう見るのか」「どう届くのか」「どう使うのか」について、考えるシーンがあったからなのかもしれない。


わたしは、言葉を仕事にしている。言葉はすごいなあと思う。自分の胸や脳内で渦巻くありとあらゆる感情を、こうして他者と共有できる手段だからだ。すごく好きだし、すごくおもしろい。

だから、むずかしい。使い方を間違えると、自分にとっての大切な人を不必要に傷つけてしまうし、いらぬ仲違いを生み出してしまったりするから。本当に言いたいのはそんなことじゃないのに、本音を届けられなかったりもする。言葉によって生み出す後悔は、案外、喜びより多いかもしれない。

もしかすると、わたしもコミュニケーションの多くを言葉に頼りすぎているのかもしれない。どっちにしたって人の感情を理解するための手段でしかないはずなのに、万能だとでも思いすぎていたのだろう。

人に言葉を届ける仕事をしているのだからこそ、言葉が決して万物を表現できるわけではないことを覚えておきたいし、今よりももう少しだけ丁寧に取り扱えるようになりたいとも思う。

そして、なんのために言葉を書くのかのこたえはいつも、それを読んでくれる人がいるからだ。今、読んでくれている人のもとに、どうしても届けたい。そのために書いている。

それならなおさら、相手に手渡すためにはどう表現したらいいのか。もっと精一杯考えられる人間でありたい。わたしの言葉ももっと優しく届けていきたいし、同様に、わたしと対話を重ねてくれる人たちの言葉ももっと深く理解したいから。


いい作品だった。というか、好きな作品だった。あとたぶん、今出会えて本当によかった。これほどまでに儚いひだまりのような作品、なかなか出会えるもんじゃないのでね。

おすすめしてくれた友人たちには、ちゃんと「ありがとう」って伝えにいこうと思う。

本記事は、先日「しずかなインターネット」に公開したエッセイを再編集して公開したものです。よろしければ、こちらもあわせてどうぞ。

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