見出し画像

わたしは自己を信じる心を育んでいる仏教者である

自己に対する疑い


天台大師智顗(ちぎ)の大著『摩訶止観』、およびそれを継承し解説した妙楽大師湛然(たんねん)の『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』には「疑蓋(ぎがい)・治疑蓋(じぎがい)」、つまり「観心修行を妨げる疑い」と、その解決方法が説かれている。
まず、仏弟子が陥る三つの「疑い」として、『摩訶止観』には次のように説かれる。

疑蓋とは、これ見諦は理を障(ささ)うるの疑にあらず。すなわちこれ定を障うる疑なり。疑に三種あり。一に自らを疑い、二に師を疑い、三に法を疑う。一に自らを疑うとは、いわく「我が身は底下にして必ず道器にあらず」と。この故に身を疑う。二に師を疑うとは、「この人、身口は我が懐(こころ)に称(かな)わず、何ぞ能く深禅(しんぜん)・好慧(こうえ)あらん。師としてこれに事(つか)えば、また我を誤らざらんや」と。三に法を疑うとは、「所受の法、何ぞ必ず理(ことわり)に中(あた)らん」と。三疑猶予して常に懐抱(かいほう)にあれば、禅定発せず。たとい発するとも永く失わん。

『摩訶止観』正説分 - 十広第六 - 方便章

これは止観の瞑想法をさまたげる煩悩としての「疑い」を説示したものである。仏道修行者が自己・師匠・法(=ダンマ)を疑い、観心修行が妨げられてしまうことを「疑蓋」として示したのである。この『摩訶止観』の文を解説している『止観輔行伝弘決』の箇所には次のようにある。

疑は過(あやま)ちありといえども、しかもすべからく思択(したく)すべし。自らの身心(しんじん)においては決してまさに疑うべからず。師・法の二疑は、すべからく暁(あき)らむべし。そのとき、もしいまだ三昧(ざんまい)に入らざるよりこのかた、この二法においてもし疑わずんば、あるいはまさにまた邪師・邪法に雑(まじ)わるべし。故によく疑い、よくこれを思択すべし。「疑を解の津となす」とは、この謂(いわ)れなり。師・法すでに正ならば、法によって修行せよ。そのとき、三疑は永くすべからく棄捨すべし。

『止観輔行伝弘決』正説分 - 十広第六 - 方便章

自己に対する盲信


ただ最近では、仏教一般に『涅槃経』の「自灯明・法灯明」という言葉を用いて、
「自らを頼りとし、法を頼りとせよ」
という説法がなされるようになってきた。これは、一般的には仏教が個人主義を正当化するかのように説かれており、そういった意味合いだと仏教の実践からはかけ離れてしまう。
下記のブログ記事によると「自灯明・法灯明というのは瞑想(四念処)の実践を言い換えたものだ」と結論づけられている。

自己に対する信に、師匠が必要な理由

ここで一つの疑問が起きるかも知れない。
「自己を頼りとする」ことと「自己を疑わない」ことは一緒ではないか、と。

そうではないところに仏教の宗教たるゆえんがある。仏教の究極の覚りは、
「自身は本覚の三身如来である」
と知り、
「法界を欲しいままに受け用いる身」
と成ることにある。

だが凡夫の仏性は煩悩三毒におおわれてしまい、内証真身の成道を遂げられないでいるのである。師匠なくして無師独悟できる智慧は、凡夫にはないのである。

仏教において師匠を疑うことは必要ではあるが、師匠を求めずに学び続けることは愚かである。個人主義に生きることは現代神話の錯誤であって、仏教的な信仰を持つ者の為すべきことではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?