心如工画師

種子を覚知し、三惑を断ぜん。学問のテーマは仏教文学(説話)。生成AIで絵本を描いていま…

心如工画師

種子を覚知し、三惑を断ぜん。学問のテーマは仏教文学(説話)。生成AIで絵本を描いています。主な経歴は国会議員事務所の情報システム担当や、金属生産研究向けスーパーコンピューターのお守りなど。本顯寺(千葉県君津市、日蓮正宗)信徒。

最近の記事

noteの方針(自己紹介に代えて)

noteを始めて、もう一年以上経ちますが、プロフィール設定できることを先日まで知らずにいました。自己紹介に代えて、noteの方針を書いておこうと思います。 本の虫だった子供時代・童話や絵本、推理小説が大好きでした ・国語が超得意でした ・図画工作・美術の成績はニガテでした 仏教徒としての志・仏教説話の絵本を描きたい!絵本を描いて仏教を復興したい! 2018年にアニメ『魔法少女 まどか☆マギカ』を最初に視聴したとき、「鹿目まどか」の願い: 「すべての魔女を生まれる前に消

    • Stable DiffusionとM3 MacBook Air

      (※まだ初心者なので知らないことも多々あり、コメントをいただければ対応する方針…) M3 MacBook Airのローカルな環境で画像を生成するAIをいくつか試している。 環境 : 8コアCPU、10コアGPU、16コアNeural Engine搭載、16GBメモリ 環境構築の前提として「Google検索してもエラーに対処できない場合」もあるので、「Homebrew」という単語を聞いて「???」となってしまうレベルだと、Macのローカル環境での画像生成はあまりオススメでき

      • わたしは自己を信じる心を育んでいる仏教者である

        自己に対する疑い 天台大師智顗(ちぎ)の大著『摩訶止観』、およびそれを継承し解説した妙楽大師湛然(たんねん)の『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』には「疑蓋(ぎがい)・治疑蓋(じぎがい)」、つまり「観心修行を妨げる疑い」と、その解決方法が説かれている。 まず、仏弟子が陥る三つの「疑い」として、『摩訶止観』には次のように説かれる。 これは止観の瞑想法をさまたげる煩悩としての「疑い」を説示したものである。仏道修行者が自己・師匠・法(=ダンマ)を疑い、観心修行が妨げられ

        • 「見る自分」「見られる自分」の分化…一つの体験として

          わたしは、平日・休日関係なく、いつも早朝3時には目が醒めるのだが、昨日の朝はどうにも眠くて朝勤行までそれを持ち越してしまった。最近は一定の「雨垂れ」テンポでの読経を自分に課しているが、読経に集注する反面で多大な負荷が「脳」にかかる。 一回目の朝勤行は居眠りしながらになってしまったので、第二座の途中で打ち切ることにした。 あまりにくやしかったので3時間ほどきちんと睡眠をとり、二回目の朝勤行に挑んだのだが、そのときも集中力を欠いていたらしく、全部で五座あるうちの第三座をすっぽ

        noteの方針(自己紹介に代えて)

          四弘誓願(『摩訶止観』より)

          衆生は虚空のごとしといえども、空のごときの衆生を度せんことを誓う。 煩悩は所有なしとしるといえども、所有なき煩悩を断ぜんことを誓う。 衆生の数ははなはだ多しとしるといえども、はなはだ多き衆生を度せん。 煩悩は辺底なしとしるといえども、辺底なき煩悩を断ぜん。 衆生の如は仏の如のごとしとしるといえども、仏の如のごとき衆生を度せん。 煩悩は実相のごとしとしるといえども、実相のごとき煩悩を断ぜん。 法門は永寂なること空のごとしとしるといえども、永寂を修行せんと誓願す。 菩提は所有な

          四弘誓願(『摩訶止観』より)

          「オレはフトという名前の者を探している」

          今朝は印象的な夢を見ました。 それはベトナムでの出来事です。私は、ある寺院の僧侶でした。 ある日、弟子たちとともに瞑想をしていると、そこに拳銃を片手に持った男が現れました。 男は私に歩み寄るとニヤニヤ笑いながら「フト(=仏図。ブッダのこと)と言う名前の者を探している」と言いました。 私は「それは言えない」とだけ、答えました。 男は一瞬だけ憤怒の表情を見せましたが、すぐにニヤけた顔に戻って「ならばわからせてやろう」と言いました。 隣の部屋からちょうど私の一番弟子が入

          「オレはフトという名前の者を探している」

          対話を成立させる作法(『ミリンダ王の問い』より)

          王は問う、 「尊者ナーガセーナよ、わたしとともに対論しましょう」と。 ナーガセーナは答える。 「王よ、もしあなたが<智者の作法>を以て対論なさるのならば、わたしはあなたと対論させていただきたく存じます。しかし<国王というものは>多くの場合、<王者の作法>を以て対論するのです。わたしはあなたと対論しないでしょう」と。 (投稿者注記:漢訳『那先比丘経』 「もし王にして<智者の問い>をなさば、よく王に相い答えん。されど<王者の問い>・<愚者の問い>をなさば、よく相い答えず」)

          対話を成立させる作法(『ミリンダ王の問い』より)