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「見る自分」「見られる自分」の分化…一つの体験として

わたしは、平日・休日関係なく、いつも早朝3時には目が醒めるのだが、昨日の朝はどうにも眠くて朝勤行までそれを持ち越してしまった。最近は一定の「雨垂れ」テンポでの読経を自分に課しているが、読経に集注する反面で多大な負荷が「脳」にかかる。

一回目の朝勤行は居眠りしながらになってしまったので、第二座の途中で打ち切ることにした。

あまりにくやしかったので3時間ほどきちんと睡眠をとり、二回目の朝勤行に挑んだのだが、そのときも集中力を欠いていたらしく、全部で五座あるうちの第三座をすっぽかしてしまったらしい。

日蓮正宗の勤行は、朝は五座、夕は三座の化儀なのだが、各座ともに「方便品第二、寿量品第十六の読経」→「引き題目、題目三唱」→「各座の観念文の黙読」→「題目三唱」という構成になっている。

昨日の朝勤行は「第三座の読経、引き題目、題目三唱」のあとで「あれ?今は三座だっけ、四座だっけ?」と混乱したのだ。その結果、「第三座の途中」から「第四座の観念文」に移ってしまった(らしい)のである。記憶があいまいでよく覚えていない。

第五座の読経のあとでお題目を20分ほど唱えている最中に、

「もし、お前が第三座の観念文を行じていないのなら、今日の画像生成はうまくいかないであろう」

という“大音声”が十界曼荼羅御本尊の方向から、頭の中に響き渡ったのだ。正直、「しまった!」と思った。「やり直そうか?」とも思ったが、私は

「第三座は行じているハズです、大丈夫です!」

と御本尊に対して(心の中で)お答え申し上げた。

けっきょく、昨日は8時間をかけても、思うようなイラストが生成されなかった。

宗教的な対境に向かって、意識を集注していくサマタ瞑想は
「見る自分」、つまり【対境の側に近い自分】

「見られる自分」つまり、【対境と一体になりきれていない自分】
が一時的に分化していく体験を伴うように感じる。

「大音声」を発した(ように感じられた)【対境の側の自分】
「しまった!」と感じた、【対境と一体になりきれていない自分】は、
ともに【自分】の心の側面であることに変わりはないのだ。

日蓮正宗では
「仏界即九界、九界即仏界」
「御本尊と一体になるまでお題目を唱えよ」という教条があるが、上記のことをあてはめると
仏界の側の自分】と、【九界の側の自分】は、勤行・唱題の実践の中で一時的に分化し、最終的に「即」する、つまり「一体となる」のであろう。

サマタ瞑想というものについて詳しくは知らないが、お題目を唱える修行も、サマタ瞑想のうちに入るのだろう。貴重な体験だった。

もちろん、妙楽大師が言われるように
『たとい発心真実ならざる者も正境を縁ずれば功徳猶多し。若し正境にあらざれば、たとい偽妄無けれども亦種と成らず』(摩訶止観弘決)
ではあるので、対境の「正」・「邪」にもよるのだろうけれども。


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