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凱旋【短編小説】【2000字のドラマ】

 小学三年生の六月半ばの話である。私は年度から級友となった高城と書いてたかぎと読む男の家に遊びに来ていた。高城の家は、私の家から数分歩いたところにあって、帰り道を一緒にした後、また遊ぶという毎日を繰り返していた。
 高城の家には、一人弟がいて、年は私と四つ離れているもんだから、今年で五つになる。弟は兄貴っ子で、兄貴の方も弟馬鹿であり、この兄弟仲が大変に良好なために、私はよく弟とも遊ぶようになっていた。
 高城とはキャッチボールをして遊ぶことが多かった。私は二年生の八月の誕生日に、母親に黒の右投げ用グラブを買ってもらって、オイルを塗ったり手になじませたり、抱えて眠ったりしていた。しかしながらキャッチボール相手が見つからずに、執着がなくなったころに高城を見つけて、またグラブを嵌める日々がやってきたのであった。
 高城は最初、グラブを私の方に向けるという動きすらままならない男であったが、一か月も経たないうちに私よりも捕る方は上手くなって、私は何か特殊なことでもやっているのか、と尋ねた際に発見されたのが弟であって、何でもこの弟を毎日アスファルトの駐車場の隅に連れ出して、付き合わせていたらしい。投げる方は一人でも壁に当てればできるが、捕るのはやはり二人いないと上達しないので、今になっても投げるのは私、捕るのは高城が上手いのである。
 私は一人っ子で、両親が共働きの家庭で育った。生憎不自由のない生活を謳歌していたが、高城に負けていたという悔しさと、年相応の寂しさもあって、誕生日の丁度一月前の七月に、母に「弟が欲しい」と強く頼み込んだ。これまで私は、誕生日に願ったものが与えられなかったことがなかったために、弟が欲しいといえば、弟がもらえると思っていた上、子供がコウノトリによって運ばれてくると信じていたので、この願いもきっと叶うだろうと確信していた。母は、微妙な顔、それは母親が父方の祖父の電話を受けているときの顔で、私はこれを別の者が乗り移っているのではないかと思っていたが、まさしく私の前に現れたのは仮面交じりの母であった。母は私の願いを了承した。
 翌日、学校から帰って始めたのは、私に与えられた部屋を半分にすることである。一か月後に迫った弟の誕生に間に合わせるように、私は兄の威厳を以てして弟を養うくらいの気概であった。毎日のおやつの内、腐らなそうなものは半分取っておいた。
この時の私は、苦渋の決断をした。飼ってあったオオクワガタを手放したのである。このオオクワガタがゲージから飛び出して赤子に刺突すればと考えると、私は涙が止まらなかった。声を隠して泣いていたが、母親は私の異変に気付いて、何があったか懇切丁寧に聞いてきた。私は照れ隠しと兄としての自覚もあって、そのオオクワガタが死んでしまったと嘘をついた。実際は学校の樹に張り付けて帰ったのであるが。
部屋の片づけが終わった頃に、私は名前について悩んでいた。やはり男っぽい名前がいいと思っていたし、それらしい名前をいくつか思案していた。私はテレビでみたプロレスラーの名前を採用しようとしたが、バラエティーに出た時の優しい顔を見て即刻取り下げた。
 結局悩んだ挙句に、学校図書の伝記でたまたま読んだ偉人の中で、長生きしていた徳川家康の名前を採用した。
 八月になって私はいよいよ誕生日を迎えた。その日は学校があったので、帰りの会が終ったとたんに一目散に駆け出して、いつもはしない信号無視なんかもやって汗だくで家に着いた。
 玄関で迎えたのは、赤毛の柴犬であった。私は犬が家にいて大変驚いたが、この異変が私の誕生日に由来することは九歳にもなれば分かっていた。私は母からこの赤毛の柴犬を弟と紹介された。これに私は激高して、家を飛び出したのが夕方。帰ってきたのは、二十時を過ぎてからで、私は門限を人生で初めて破った。それは反抗であって、用意されたであろう誕生日ケーキも食わずに部屋に戻って寝たふりを決め込んでいた。夜更けにリビングの灯りがついているのを見て、こっそり窺うと涙を流す母を父が宥めていた。私は次の日の朝に柴犬を家康と名付けたのである。
 家康は最初こそ小さくて、食べられそうなサイズであったが、体が何倍にも大きくなって、私の子守をしているようであった。家康は私が眠るまで絶対に眠らないと決め込んでいたのか、私が寝たふりをしないと寝ないので、毎日九時を過ぎると一旦布団に入るというのが私のルーティンになっていた。
 家康は私と母の言葉をよく理解しているようで、芸の一つや二つはすぐにこなして見せた。私は高城に自慢したら、高城も犬が欲しいと喚いて母親に頼み込んだらしいが、断念されたと後になって教えてくれた。高城にはもう弟がいるではないかと私は思っていた。
 父は休みの日になると、私と母に追い付こうとして、一日のうちの数時間を家康に話しかけていて、普段寡黙な父がこんなに話すのかと私はえらく驚いたことを覚えている。めんどくさがって、父と散歩に行った帰りに足にしょんべんをかけて帰ってきたとき、父は初めての嬉ションだ、なんて馬鹿なことを言っていた。
 家康は私たち家族の中心であった。

 さて、私がなぜ家康の話をしたかと言うと、この度、家康は私よりも先に眠ってしまったのである。そんな時分に私は兄として家康を弔ってやる必要があった。これは長男の役目で、家康は私の自慢の弟なのだから。
 家康は、その名に恥じぬ勇姿を私たちに見せてくれた。大往生である。
 家康よ、大儀であった。

#2000字のドラマ

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