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命日に精神科ではたらく

そろそろAの命日がやってくる。

Aは自殺したわたしの家族だ。

この前、七回忌があった。
法事に出ていた家族は高齢者ばかりで、
いわゆる若者はわたしだけであった。

ふと自分の将来が不安になった。

この高齢者たちを今後自分1人でどうにかしていかなければならないのかと。
高齢者たち亡き後は、家族なき子になるのかと。

ふと、Aの遺影に目をやった。
お前はいいよな、生きる苦しみがもうないのだから。
とは、思わなかった。今後生きる苦しみ全てを持って、
自殺は行われたように思われたからだ。

だから、自殺をすることがむごいというわけでもない。
だから、今後生きるということがむごいというわけでもない。

ただ、エネルギーが、パワーがそうなのだと。

Aがもしも生きていたら、自分は安心して生きていられただろうか。
Aの遺影をみつめて、安堵感を取り戻した。

昨年のAの命日は精神科で働いていた。
今年も命日は仕事だ。

昨年は死亡推定時刻に、「今ごろ、か」と
しんとした気持ちになった。
そして、今自分が精神科にいることの不思議さに浸っていた。

精神科で働くと決まった時、
責められているような気持ちになった。

今でも葛藤がほぼを占める。
しかし、精神科で出会った人を通して、
精神科に来たことは
とても人生に効いたと思っている。

そのことはまた綴りたいと思う。

Aが死んでよかった。
でも、わたしはああならなくてよかったなんて
思いたくない。

我々はどっちかが死ななければ、どっちかは生きられなかったように思う。

じゃあ、生きた側はどうすれば良いのか。
好き勝手自由に生きればいいと思う。

しかし、自分が思う好き勝手自由は
本当の好き勝手自由ではないだろう。

精神科に来たこと。そこで与えられたこと。
自殺の黒い海をみたこと。たましいに開かれていること。

今はわからないでいっぱいだ。

今年の命日も仕事だ。今年は何を思うだろう。

自殺はたましいの話なのだ。
私が何を思い、何をすればよいのか与えられてほしいと思う。

早く早くと言う気持ちもわかってくれた上で、
待つ力、読む力、開かれ続ける力を守り、
時機に合わせて与えてくれればと思う。

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