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じさつとたましい40

「すえむつさん、松前さんの体を拭くのに手を貸してくれますか」

精神科で働き初めて1ヶ月が経った頃、
あの419号室の寝たきりの患者さんのところに
行くことになった。

病衣配りで部屋には何度か入ったが、
あの人が何者かはいまだに知らなかった。

「松前さんおはようございます。
今日担当の岩井です。よろしくお願いします。
今からお体拭いてもよろしいですか」

岩井さんが、松前さんの視界に入り話しかけた。

「…。」

松前さんは口元をガチガチとさせるだけで、返答はない。

しかし、岩井さんと松前さんはなんとなく
視線を通して繋がっているような気がした。

「今日は看護助手のすえむつさんと
一緒にお体拭いていきますね」

「す、すえむつです。よろしくお願いします」

岩井さんに手招きされ、おどおどと
松前さんの視界の中に入った。鋭い目つきに
怯んでしまう。

岩井さんが「背中拭きますね」「熱くないですか」
と話しかけながらテキパキと、だけど
じんわりと体を拭いていった。

私は松前さんが横向きになるのを手伝ったり、
胸やお腹を拭くのを手伝ったりした。

松前さんはやはり口元をガチガチさせ、
時折あくびをするだけだった。

「明日は髪の毛も洗いましょうね。ありがとうございました」

岩井さんがにこやかに声をかけ、体拭きは終了した。

「すえむつさんお疲れ様でした。どうもありがとうございました。
体位交換、あ、体の向きを変えることを体位交換
と言うのですけど、体位交換や清拭、更衣
初めてながらお上手でした。何か質問とかありますか?」

「あ、ありがとうございました。
あと、えっと、その体の向き変えるのとか
まあやれば慣れますかね?」

慣れない重労働で、額にはうっすら、脇には
ダバダバに汗をかいていた。

「慣れます、慣れます。大丈夫ですよ」

岩井さんは穏やかに答えた。

「岩井さんとその松前さん。話さないけど
目線で繋がってる気がしました。その、
あれはどうやるんですか」

「おぉ、そうですか。すえむつさんは、
ケア向きの人かもしれませんねえ」

岩井さんが何やら考えはじめると、
アフロの男性看護師田中さんが小走りで寄ってきた。

「おーい、すえむつさん。ラジオ買ってきてくれない?売店で」

「はいはい、ではすえむつさんお願いしていいですか?」

答えらしい答えは何も得られなかった。

私は患者さんのお金を握りしめ、買い物に出た。

岩井さんと松前さんの目の合い方は、
なんとなく形を変えればAの遺体をみつめる
私の視線にもなり得るんじゃないか。
そんな脈絡のないことを考えていた。

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