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#02 発端は1年前

簡単に幼少期の話しますね。

小学校

小学校1年のときに、脳梗塞が発症して階段から落ちて以来、
父親の顔を見ていない。
だから、思い出もなければ顔を思い出すことさえできない。

母親は朝から晩まで兄と二人のため働いていたので、
家にいることは少なく、早い時期からお腹が減ったら冷蔵庫を開け、
残り物を使って自分で焼き飯とか当たり前のように作ってた。

私は感謝どころか、反抗ばかりしてましたね。
だって「なんで他の家は?友達は?」と我慢ばかりで、
理解できないことに小さいながらに苛立ちを感じてたんです。


中学校

そのまま中学に上がり、勉強しないことで反抗を繰り返してた。

続けてたのは、サッカーと絵を描くこと。

とにかく、勉強が嫌いで
「海外なんて行かなければ英語なんていらんやろ!」と誓い、
たった24個しかないアルファベットでさえ覚えようとしなかった。

本当に勉強が嫌で卒業したら仕事したいと思ってた。

そして、滑り止め受験のはずが本当に滑ってしまったんです(笑)

そんな私が唯一入れたのは京都伏見工業高校のインテリア科。


高校

電車を乗り継いで約1時間。
学校に行く前にジャンプを読むには丁度いい感じの通学時間であった。

この高校を選んだ理由は、2年生から専門教科の枠が増え、
英語と数学がなくなるからです。
(そろばん3級もってるけど公式覚えるのがめんどい)

手先が器用で物作りは大好きだった。
絵を描くこと、製図版で家具の設計をすること、家具を作ることなど
楽しくてしかたない。

2年生の美術で描いた風景画がワシントンDCのコンクールに選出。
これにはビックリしましたねー。

実をいうと、先生から「だすぞ!」とも言われず、
賞状だけ渡されたんですよ(笑)
それでも「認められた」という称号を得た喜びは代えがたい。

2年生になり部活が早く終わる水曜日と土曜日、
試合のない日曜日に飲食店でアルバイトをはじめ、
働いた対価の給料を得た。

とにかく嬉しかった。
自分で稼いだのだから誰にも文句を言われることない、
自由に使える自分のお金。

バイクの免許をとったり、遊びに行ったり…
お腹が減っても我慢することなど減った。

工業高校って卒業とともに、就職するのが王道なんです!
決して保証されているわけではないけど、
高校で技術の下積みしたことは大きいですね。


卒業後

家からバイクで30分くらいのとある会社に就職。

もちろん。入社したては右も左もわからないので、
先輩のいうことに「ハイ!」の一言で対応してました。
だって、仕事覚えたいですもん。

誰もが、反抗的な人に丁寧に教えたいとは思わないですよね?
ましてや、入社したての新人に!

だけどね、半年も経てば何となく周りが見えてきて、
それがいかに理不尽なのか体で体感できるようになるんです。

あるとき、制作に時間がかかる高価な天板を抱えて階段を登っていたとき、
後からお尻を蹴り上げらた。

なぜ?

その天板の価値わかってるでしょ?
ここは中学か?
意味がわからん⚓
これを我慢した先が、先輩方なのか?

これを機に、私は
この会社では私は成長しない
と心底感じることとなり日に日にやる気を失うこととなった。

この時の私は心から自身の成長を望んでたんですよー!
(ホントの話です)

退職するか迷う期間もありましたがもう止まりません。

思い立ったら行動!
そして退職・・・


退職後

自分の心と向き合ったとき、
頭の中を
心を
本当にしたいことを

浮かべました。

そして、描きたいと感じた。

浮かんだのは動物。
動物の中でもライオン。
今を生きているライオンを描きたいと感じた。

京都には京都市立動物園があります。

でも動物園にいる動物は私の求めている動物ではない。
だって、健康を守るために定期的に餌を与えられているわけですから、
ペットと同様に見えたんです。

私の求めているのは「今を生きているライオン
今日を生きられるかどうか必死になっている、
自然の中を生きるライオン

本物が見たい。
あの遠い先を見ている瞳の奥深さを知りたい。

これが、18歳で未熟な私の心を未知なる世界へ動かした動機です。

当時では、非常識極まりない行動ではあるが、
自身の心に素直に行動はじめた瞬間です。

つづく・・・


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