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語り得ることを語ろうとすること─『新建築』2018年11月号月評

「月評」は『新建築』の掲載プロジェクト・論文(時には編集のあり方)をさまざまな評者がさまざまな視点から批評する名物企画です.「月評出張版」では,本誌記事をnoteをご覧の皆様にお届けします!
(本記事の写真は特記なき場合は「新建築社写真部」によるものです)



評者:中山英之

渋谷について

渋谷でここ数年急速に動員を増しているハロウィンの様子について,インターネット上にポストされたある写真家/編集者の短文の中で,進行中の駅前再開発が批判的に採り上げられています.

意訳すると,どんな大都市にも宿る闇や混沌は,その内に渦巻くさまざまな力学が自ずと「オレらの街」,つまりその都市への帰属意識をも育む.そうした意識が醸成する街の不文律のようなものは,それを理解しない者の勝手なふるまいを決して野放しにはしないだろう.かつて渋谷もそういう街だった.しかし,都市を「集金装置」としてしか扱うことのできないデベロッパー的力学は,そうした「混沌を貴ぶ慎ましさや闇を理解する感性」を,街区もろともクリアランスしてしまいつつあるのではないか.それはもはや「ハリボテの街」である.
「どこからか電車に乗ってやってきて,ひと晩だけ暴れて逃げ去る子たち」の存在は,そうした新しい力学の台頭によるかつての力学の解体が易々と嗅ぎつけられた,その証に違いない.
そんな論旨です.

単純な必要悪論であるように読めてしまわなくもないこともあり,書き手が鋭い考現学的都市観察眼を持った影響力のある人物であったことも手伝って,ネット上の一部ではしばし,このポストへの賛否が取り交わされることになりました.

ここにあえて原文を紹介しないのは,解釈を異にしたまま論が戦わされる不毛を案じてのこと.
よってここにあるのはあくまでも著者の意訳であることはお断りしなければなりません.興味ある方は検索してみてください.




分裂症的な響き(建築家と都市生活者)

この月評の場で半年ほど前,映画『ジェイン・ジェイコブズ──ニューヨーク都市計画革命』について触れた時,私たち建築家の仕事は基本的に,彼女の宿敵として描かれたロバート・モーゼスの側にあるものだと書きました.

クリアランスされる側にもする側にもそれぞれに力学が働いている.けれども建築家としてひとたびその運動体にコミットメントするのなら,どんなエクスキューズを重ねようとも,すべての作用は後者の力学の側からしか入力し得ない.
その矜持を胸に,私たちはこの映画を観なければならないのではないか.そんなことを書いたように記憶しています.

けれどもかく言う建築家だって一歩外へ出れば,都市生活者としての一市民でもある.だから個人の名の下に都市を語る建築家の言葉にはどうしたって,分裂症的な響きが不可避的に蠢くことになるに違いありません.
裏を返すなら,そうした響きを帯びない言葉の下に語られる「歴史」や「伝統」や「地域性」や「繋がり」に,一貫して違和感を叫び続けた月評であったようにも思います.




モーゼス側の力学がジェイコブズ側の力学に作用する可能性

11月号冒頭の建築論壇は,この1年間溜め込むだけ溜め込まれたそうした違和感を,最後に少しだけ慰めてくれる響きを帯びたものでした.岸井隆幸さんと続く内藤廣さんの文章は,その仕事がある側面においては「ハリボテ」と表現され得ることに対する,十分すぎる覚悟をにじませたものでした.
文中には,デザイン・アーキテクト(DA)という文字通りのハリボテ仕事を,泥を被って事業者と建築家に依頼する,その瀬戸際のやりとりが隠すことなく綴られています.

先行する渋谷ヒカリエ(『新建築』2012年7月号掲載)と11月号の渋谷ストリーム,それに続く高層ビル群の出現が,地下化された東急および東京メトロとJRを,地下で分断していた渋谷川(暗渠)を付け替えることで,東口地下で両者を結ぶ計画がドミノ式に引き起こしたものであること.そこから渋谷川上に建てられていたデパートを解体する必要が避けがたく生じ,同時に谷地底に集中する雨水の貯留槽が整備されること.さらにこの操作が地形の影響で弧を描いていたプラットフォームと車両との隙間を解消する作用も兼ねていること.

渋谷ストリーム|
東急設計コンサルタント 
小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt(デザイン・アーキテクト)


旧東急東横線渋谷駅とその線路跡地に建つ商業,ホール,ホテル,オフィスからなる大規模複合施設.再開発にあたり,官民連携により約600mにおよぶ渋谷川および遊歩道の整備も行われた.渋谷川の再生,渋谷駅周辺街区を繋ぐ歩行者ネットワークや駅街区にも繋がる地下車路ネットワークの形成などの公共貢献によって,容積率1,350%まで緩和された.

用地交換を含むこの複雑なテクトニクスが,東京全体を見渡す視野と,前回オリンピックまで遡る時間軸の中に位置付けられながら解説される文章は,「ハリボテ」と称された地上に展開する盤面の変化が,その実深層にある整体的な体質改造の現れであることを,静かに伝えるものです.

結果として現れた渋谷ストリームとその周辺整備事業は他ならぬDAによって,旧東横線プラットホームレベルに宮益坂口先の横丁を彷彿とさせるスケール感のプランニングが与えられると共に,そこにかまぼこ型キャノピーと線路跡が再現される.さらに渋谷川を発掘的になぞる新しい動線との間を,谷地をトラバースするように伸びる渋谷独特の街路を裏焼きするかのようなエスカレータや階段が結び付けていく.

そこにあるのは,モーゼスの側がその力学においてなし得ることが,どこかでジェイコブズの側の力学に作用する磁力となる,その可能性に全霊が注がれた姿に違いないと僕は思います.
そういえばつい先日も,この後に続く桜丘口の再開発のために大好きだった小料理屋が店を閉じました.小嶋一浩さんと語り明かした記憶が蘇ります.




語り得ることを語ろうとすること

ところでハロウィンの翌朝,清掃活動を行っているあるラッパーを核としたグループは,遡るとダンス規制に端を発する風営法の改正を旗印に組織されたのだそうです.
彼らに向けられたそう多くはないインタビュー記事を探すと,ハロウィンもW杯サッカーもなんでもない普通の週末も,変わらず続けられている彼らの活動の根底には,かつて渋谷を遊び場にしていた自らが,では当時どれほどの思慮深さや想像力を持ち得ていたか,その記憶を鏡に,今を満喫する世代のそれを冷静に測るまなざしがあることに気付かされます.
ダンスやクラブ文化を単純に闇や混沌と同一視する意図はまったくないことは強調しておかなければなりませんが,一方向からの断定による切り捨てとは無縁のところから,彼らは明け方の光の中で今日も,渋谷の街を見つめているのだと思います.

同じく以前この場所に期待感を書いたコンペ「AIの家」の結果が発表されました.

このコンペは応募案のみならず,出題こそが記憶されると書いた,その意味で重松象平さんの出題と講評は,もしかしたら応募作以上の問題提起に触れるものだったように思います.

AIは解を出してくる.けれども私たち人間は,入力値が私たち自身に由来するものであるにもかかわらず,その理由を解明する術を持たない.極論するならこのコンペの問いは,そこに集約されるのではないかと思います.

私たちが自らの経験の下に築き,築かれたものが連なって都市が生まれ,その都市がまた私たちの経験をつくる.それならば,ひとつひとつの建築をつくることは,私たち自身をそれと知らぬうちにつくる営為に違いありません.

けれども複雑きわまりない都市を眺めてみても,それがなぜそうなったのか,はっきりとした理由を言い当てることはもはやできない.そうであるなら,あのラッパーたちが眼前の狂騒をひとつの局面として眺めるもっと大きな構図を持ち得たように,ひとつひとつ経験を重ねることでしか,語り得ないものを引き寄せる術はない.

だからこそ私たち建築家もまた,ひとつひとつの建築について持てる限りの想像力を働かせて,語り得ることを語ろうとすることを諦めてはいけないのだと思います.そうした言論が毎月一度戦わされる場所としてふさわしくあり続けることを願いつつ,1年間預かっていたバトンを次の評者にお渡ししたいと思います.





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