「風邪をひいた時に見る夢」という言葉

 いつごろからだろうか。現実離れした、ナンセンスな映像作品などに対して「風邪をひいた時に見る夢(のようだ)」と評しているコメントを目にするようになった。風邪の部分は高熱やインフルエンザに置き換えられていることもしばしば。

 恐らく、最初に誰かが、どこかで、なにかの作品に残したコメントなのだろう。或いはテレビで芸能人が発したひとことなのかもしれない。いずれにしても、ここ数年で目にするようになったこの言い回しは、誰かの言葉に端を発し、主にネットを媒介として人々に広まったと思われる。
 広まった理由は言うまでもなく、共感する人が多かったからだろう。確かに風邪をひいて寝込んでいる時というのは、不思議と奇妙な夢を見ているものかもしれない。かもしれない、というのは、私は普段から頻繁に夢を見るので、どの体調の時にどのような夢を見たかなどいちいち覚えていないのである。
 この言い回しを見たときに、なるほど言い得て妙だ、と感じなければ、自分も今度どこかでその言葉を使おうとは思わないだろう。シュールな動画作品に対し、例えば「二次会でへべれけになったジョアン・ミロが描いた絵のようだ」というコメントをしたらどうだろう。ミロという画家を知っている人間がふふっと笑う程度で、知らない人間にはなんのことやら、また知っている人間にとっても、世の中ミロを知らない人間の方が多いことはなんとなく察しがつくため、他でこのコメントを自分も使おうとは思わないだろう。つまりそんなコメントを残しても特に見向きもされないか、せいぜい、ミロを知っていることにちっぽけな優越感を持っている人間の「知ってるアピール」の場にされるのが関の山である。(SNSでこうしたちっぽけな優越感を満たしている人間をしばしば見かけるのは私がひねくれすぎているからでしょうか。)
 汎用性が高く、誰しもイメージがしやすいこの言い回し。なかには風邪の時にそんな夢など見たことがない者も使っているかもしれない。作品へのコメントやリプライという二次的な場すら自己顕示欲のステージと化すネット世界である。面白い、最高、イカれてる、といった月並みなコメントをするより、この小気味良くユーモラスでかつ親近感の湧く言い回しをした方が、他の視聴者(時に作成者)の目に留まり、なにかしらの反応が得られるものである。いやむしろ、なにか作品に感想を言いたいという想いよりも、反応ありきでコメントを残したいという人間もいるだろう。実際Twitterで、注目されている映像作品に対しこの言い回しをしている人を見かけた際に、アカウントを見てみたことが何度かある。すると、通常のツイートはほぼ無く、注目されているツイートに対してコメントをする目的のツイートが圧倒的に多い、というアカウントが散見された。(つくづく自分の湿っぽさに嫌気が差す。暇だと人間碌なことをしない。)

 そう、広まっているもう一つの側面はそこにあると考えられないだろうか。本当に純粋な心で、他意はなく、「まるで風邪をひいた時に見る夢のようだ!」と感じてこの言い回しを使っている人間は、いないとは言わないが非常に少ないのではないだろうか。
 注目されている作品へのコメント欄・リプライで注目を浴びたいという浅ましさ、注目などに興味はないがただ単に目にした人に面白いと思ってもらいたいというエンターテイナー気質、もはや何も考えず注目を浴びている作品にコメントを残したくて濫用しているSNSジャンキー。いずれにしても、本心からその言い回しの通りだと感じてコメントをしているわけではないであろうことは言い切ってよいだろう。
 言ってしまえば、本心からこの言い回しをしたのは、最初にこの言い回しをした者だけなのかもしれない。オリジナルは最初のみ。あとはコピー品。

 ネットの世界では次々に新しい言葉が生まれ消えていく。しかし、そういった言葉たちは得てして「流行り始めた時期」というのがあるように思う。最近ネットを媒介として流行りスラングとして定着しているものには「◯◯しか勝たん」「チー牛」といったものがあるが、これらは明らかにここ数年で若者たちから生み出されたものである。しかし、「風邪の時に見る夢」は、一度流行になって定着した、という流れではなく、目にした人がその言い回しを気に入り、じわじわとコメント欄を中心に広がっていったもののように思える。
 つまり、この言い回しは他の流行語や新語とは性質が違い「投稿者が意図的に、人の目につくことを前提で、使いたくて使っている」のである。前述したような流行語たちは、新しい概念を指して命名したものや、もともと別の言葉や言葉遣いで済んでいたものをデコレーションしたものだが、この言い回しはそうではない。月並みな言葉が並ぶ中で目に留まり、自分も使いたいと思わせる連鎖が産んだ、言わば「小さな承認欲求の形」なのである。

 流行るものには廃るときが来る。ネットの流行語とてそれは同様である。特に若者言葉に関しては賞味期限が短く、1年もすれば若者のSNSは新しい言葉が並ぶ、もはや様式美であろう。
 その点この言い回しは流行った時というのがないので、比較的寿命は長いのではないだろうか。ひょっとすると、完全ネット由来の言葉としては珍しく、十年か二十年経っても現役かもしれない。

 あくまでも二次的な、コメントやリプライで生きるこの言葉。宣伝する対象があって初めて意味を成すコピーライティングとどこか似た性質を持っているように感じられるのである。

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