源頼朝目線のレイラインを徹底検証!倒幕を目論む京の朝廷をブロックする結界。
私が覚醒し、操られるまま、北へ南へ西へ東へ、十字を切って神社参拝した各ポイントが、複数の聖地を結ぶ一直線上に位置していることに気付き、Googleアースを使って徹底検証してみました。
以下3本の線が、「頼朝の墓」で集結しています。
「伊勢神宮・内宮」-「江ノ島」-「頼朝の墓」
「出雲大社」-「富士山山頂」-「鶴岡八幡宮の本宮」-「頼朝の墓」
「大山山頂」-「西富伊勢山天照皇神宮」-「頼朝の墓」
【説明】
まず、十字巡礼の南のポイントである「江ノ島神社」は、鎌倉「鶴岡八幡宮」の南西側にあり、鎌倉幕府の裏鬼門除けとして、その役割を担っています。
鎌倉幕府の都市設計は、「四神相応」に倣って作られています。
「四神相応」とは、
北に山、
南に水場
西に、西へ続く道、
東に川がある地形で、
こういった地形に恵まれた土地は、東西南北に、それぞれ4つの神が宿り、結界が張られ、街が栄えるという、中国古来から伝わる風水学です。
実際の鎌倉は、南北軸が、北から東へ27度振れていますが、鎌倉幕府の都市設計は、鶴岡八幡宮を中心に参道を南北軸として、
東に滑川(なめりがわ)、
西へ続く東海道、
南に由比ガ浜海岸、
北に大臣山(だいじんやま)、という地形を選んだそうです。
また、「鎌倉幕府」の北東の表鬼門には、「荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)」が置かれ、反対側の南西、裏鬼門には「江ノ島神社」が置かれて、鎌倉幕府の鬼門除けと、したんだそうです。
つまり、「江ノ島神社」の位置は、「鎌倉」を守る「結界」の配置になっているんですね。
ここまでは、歴史上でも周知されていることです。
ここから先は、私の憶測になりますが、
「鶴岡八幡宮」と「江ノ島」を結ぶ南西の線を、更に南西方面に伸ばしてみると、そこには「伊勢神宮」があり、なんと「伊勢神宮の内宮」にぶつかるんです。
正確には、鎌倉の点は「鶴岡八幡宮」の本宮ではなく、本宮から500m程離れた「源頼朝公のお墓」を端点として、「伊勢神宮の内宮」と、線を結ぶと、その線上に「江ノ島」が浮かんでいるカタチです。
次に、歴史的な観点で考察してみます。
各社が設立された年を確認してみると、
今から2,000前に「伊勢神宮」、とんで840年前、1,182年に「江ノ島神社」ですから、後発の『1,192作ろう鎌倉幕府』は、もともと既存にあった「伊勢神宮」と「江ノ島」を裏鬼門として、尚且つ「四神相応」に倣った地形を選んで、ここに鎌倉幕府を置いんたではないか?という解釈ができるんです。
今度は、「頼朝公の墓」から、十字巡礼の北のポイント「西富伊勢山天照皇神宮」を通る線を伸ばしてみると、伊勢原の大山山頂にぶつかります。
更に、「頼朝公の墓」から「富士山山頂」を通って線を伸ばすと、「出雲大社」にぶつかるんです。
この「頼朝公の墓ー富士山山頂ー出雲大社」の線は、「鶴岡八幡宮」の本宮を通ってます。
整理すると、
「大山山頂」-「西富伊勢山天照皇神宮」-「頼朝公の墓」
「伊勢神宮内宮」-「江ノ島」-「頼朝公の墓」
「出雲大社」-「富士山山頂」-「鶴岡八幡宮の本宮」-「頼朝公の墓」
点と点を結ぶ3本の直線が、「頼朝公の墓」で集結するんです。
3点が一直線上に並ぶのも凄いですが、その3本の線が1点で交わるというのは、確率からして偶然とは片付けられない結果でしょう。
この三本の線を、私なりに考察すると、
「頼朝公の墓」から西の方角を監視しているようにも見て取れ、
これはまるで、倒幕を目論む京の朝廷と、西から鎌倉に攻めて来る敵をブロックする囲い込み線で、頼朝目線の「結界」と視えてくるのは、私だけでしょうか?
と言うのも、こう考えるのは、ちゃんと理由があり、こちらの考察については、動画で詳しく説明しております。
ご興味がありましたら、ぜひご覧ください。
書籍のご紹介
こちらの本は、私の覚醒体験と覚醒した意味と理由について、書いております。高次元で、いったい何が行われているのか、また、高次元に繋がった後、いったい何処に辿り着くのかを、詳しく説明しております。ご興味のある方は、お手に取って頂けると嬉しいです。
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