感動の射程
フィクションとして読んで下さい。
人は自分の感性の範囲でしか感動できない。
本をたくさん読むのは、心から感動して心を洗われる一冊に出会うためだ。
マッチングアプリで何度もスワイプするのは、どこかで1人の恋人と出会うことが目的なのと同じように。
たくさんの本を読むのは、雑学じみた知識を溜め込み、ひけらかすためではない。
そんな事をしてくれる人はたくさんいるし、そこに自分が加わる必要はないだろう。
では感動する本とは何か。
人によってジャンルも読者も異なるが、一つの共通点があるとしたら、こうだ。
書き手や登場人物が、自分と似ているけれど、(まだ手が届かない)なりたい自分を体現してくれていること。
近代フランス文学が、不倫をしなければ感情移入して楽しめないと揶揄されがちな理由はここにある。
人は自分とあまりにもかけ離れた生い立ちや、知識には感情移入もできない。
感動もできない。
10代の男子中学生が、近代フランスの宮廷夫人の不倫文学に涙することは少ない。
高卒の土木作業員が、半沢直樹の不条理さに憤り「倍返しだ」にカタルシスを得る事も少ない。(だからこそあの作品の視聴者はサラリーマンが大半を占める)
(わけがわからないけれど、感動で涙が流れるという心の揺り動かし方ができるものとして、歌や絵画などの存在は挙げられるが、ここでは文字で書かれた作品に限定して論を進める)
とすると、世の中には古代から現代まで、世界各国の感動できる作品が数多あるが、自分が心から感動できる作品は、自分に似ているものだけだ、ということになる。
通時的にも共時的にも多くの作品に囲まれている中で、僕らはそれまでの家族の常識や、教育水準や、職業を通してしか感動できない。
ピエール・ブレデューは『ディスタンクシオン』にてこの現象を説明した。彼のグリップ力の強さゆえに、社会学では現代でもその議論は参照される。
閑話休題。
ならば、出来るだけ多くの作品を味わって感動するためには、人生での経験数を増やす事が至上命題となる。
翻せば、自分が誰かを感動させる文章を書きたいと思った時も。
スープストックは、1人の女性の生い立ちから部屋の小物までペルソナを考え尽くして、「そんな女性がいきたくなるお店」として店舗を開店して大ヒットした。
そんなペルソナのような、人生の価値観の根を深く広げるほどに、感動できる作品は増える、と仮説を立てよう。
例えば、僕は田舎の生まれだが、娯楽は週末のたびに連れて行ってもらえるショッピングセンターしかなかった。あと、ときどきゲームセンター。
表参道のカフェに併設されたギャラリーで世界で有名な写真家の個展が開かれることも、目の前でシェイクしてくれるカクテルも、椅子が20万円もする庭園の綺麗なホテルのアフターヌーンティーも知らなかった。
旅行先として、
候補に上がるのは、少し遠くのショッピングモールや、父親の実家の近畿地方だけ。
間違えても、ウユニ塩湖や北極のオーロラ観測なんて候補になかった。
ビオトープのように狭く閉じられた生態系を生きていた。
大学に入って、愕然としたのは、
育ちの良い同級生たちとの「文化資本」の差だったのだろう。
それを埋めたくて、美術館に毎月3つずつ通った。学割を使うと安かったし、大学と契約している美術館は学生証を見せると無料で入れたから。
次に、コンサル事務の有給インターンで稼ぎつつ、銀座のバーや六本木の小洒落たランチに連れて行ってもらった。
溜まったお金で、渋谷スクラブルスクエアや銀座の旗艦店で服を買った。
男子校を卒業するまで異性とろくに会話したことのなかったが次第に、女の子との盛り上がる話題や話し方も次第に身につけた。
ティンダーをスワイプして繰り返したABテストの結果、女子に受けるアルバイトはカフェの店員だと分かったので、アルバイトを変えた。
1年半後にできた恋人と、金沢の兼六園やバリ島に旅行に行った。
「私じゃなくて、誰かとできる経験をスタンプラリーみたいにこなすように生きてるね」
それがフラれる時に告げられた言葉だった。
新宿のタリーズ。雨が降っていた。
きっと僕は渇望感で生きている。
幼少期に田舎で暮らしたトラウマから、なかなか満たされなくて、食べても食べても満たされない怪物のように醜く生きている。
今日も都心のクラブにバーテンダーをしにアルバイトに行く。満たされないまま。
最後まで読んでくれてありがとう。
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