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学びを興味で絞り込む限界と可能性

興味で狭めないことと、興味を絞り込んで学ぶこと。

高校まで、「できるだけ広く学びなさい」と言われた。したい勉強だけすると、視野が狭まるから。

例えば不登校小学生YouTuberのゆぼたんが「やりたいことだけやる!学校に行かない」と語り、話題になったことがあった。

問題は、「決断は、その時の知性の範囲内でしかできない」という事だろう。

例えば、塾講師としてアルバイトをしている時に、小学生になりたい職業を聞くと、YouTuberや美容師さんなどの名前が上がる。

東大生の間で一時期人気だった国連職員や、医師などの名前は滅多に上がらない。

これは彼らが国連職員は年収2,000万円で年の半分ほどがお休みであることや、医師になると時給5,000〜10,000円で働けることなどの知識がないからだ。
大人になってもその知識がないために、子供にそのような選択肢を提示できず、同じ水準の階層を再生産しがちである。

内田樹は、学びは、そもそも「これが学びたい」と明確に言えるものではない。

資格試験などのスキルけいのまなびとちがって、本質的な学問は、それを身につけた後に初めて「自分はこんな事ができるようになった」と把握できるからだ。

例えば、ハラリが『サピエンス前史』で指摘するが、言葉ができてから人類は急速に発展した。

言葉は意味を文節化し、概念という抽象的な思考を可能にするからだ。
言葉がない動物もつがいを作り、愛を育み、子どもを育てる。目に見える具体的なものだからだ。

しかし、国家という抽象的な概念を理解できるようになるのは、言葉の発明以降だ。
ここではじめて、家族以上の集団で協力する事ができる。戦争に勝ちまくり、大きな集団になった。

我々、サピエンスが繁栄した理由だ。

だとすれば、日本語が分からない状態の赤ちゃんが、「これから小学校に入学して、ひらがなと漢字を理解して、ゆくゆくは抽象的な哲学の概念も操作できるようになりたい。AIやChatGPTでは改名できない、人の心の領域について、哲学の観点から大学では研究したいんだ」など言えるわけがない。

それは、言葉や概念を学んだ後に、あとから気づく事ができる学びだからだ。これが「学問」である。

ここに、「この資格を取ったら年収200万アップ」みたいな、勉強する前に、その学びの成果が可視化できる「スキル」的な学びとの差がある。

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ならば、大学に入るまでは、「そもそも、これを学ぶと、自分の知的資源がどれだけ自由な奥行きを持つのか」が分からない学問が多い。

だからこそ、義務教育として好き嫌いに関わらず、とりあえず学ばされる。意味はあとから理解する。

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しかし、大学に入ると転倒が起きる。
自分でやりたいことを取捨選択した上で、深めていく人が、井戸を掘り当てる。

大学の学問は、専門化が進んでいるからだ。
2000年代前半のSFCが、幅広い学びと謳って専門を持たない学生を輩出した結果、就職率が低下したのは記憶に新しい。

しかし、高校までの優等生こそ、大学に入った途端に「ほら、好きなことを好きなだけ学んでいいんだよ!」と言われても途方に暮れるのだ。


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