「歌う人」と「歌われる曲」の間にある「必然性」が好き。
こんにちは。桜小路いをりです。
今回の記事は、私がふと「あっ、これだ!」と思った気づきをそのままタイトルにしました。
私はもともと音楽が好きなのですが、「この曲がすごく好き」の先には、必ず「どんな人が歌っているんだろう」という気持ちがやって来ます。
それは、別に細かなプロフィールでなくても構わなくて。
例えば、「どうしてこのお名前なんだろう」とか、「どんなきっかけで活動を始めたんだろう」とか。
ほとんどプロフィールを出していない方でも、「この曲の前はどんな曲を作ったり、歌ったりしていたんだろう」とか。
私の推しのYOASOBIだったら、その名前の由来は、「Ayase、幾田りらとしてそれぞれの音楽活動をしている姿を『昼』の姿に喩えたら、二人で『小説を音楽にする』ときは『夜』の姿」というものです。
(これだけで、「YOASOBI」の曲やパフォーマンスに散りばめられた、素敵な遊び心の所以が分かる気がします。)
実は、私が「その人がその曲を歌う意味」と、「その曲がその人に歌われる意味」を考えるのが好きなんだ、と気づいた理由も、YOASOBIでした。
きっかけは、先月の「桜色のオンガク月報」にも書いた「HEART BEAT」。
先日の記事で、私は、こんなふうに書いています。
「HEART BEAT」という曲の中に感じるのは、曲名の通り、「生きている限り鳴り続ける心臓の音」の強さと熱さです。
悩んでいたって、迷っていたって、立ち止まっていたって、心臓はいつも鳴り続けている。生きている限り、それを諦めない限り、ずっと。
その熱さがかけがえのないものだと分かるのは、きっと、限界のぎりぎりに立ったことがある人なんじゃないかなと、私は感じます。
だから、この曲を聴いて私が最初に想ったのは、「YOASOBIが、このお二人で本当によかった」でした。
そして、そう思えば思うほど、この曲を紡いで、創って、歌うのは「YOASOBI」じゃなければいけなかったんだな、と感じて。
「運命論」めいた話だけれど、この曲は、Ayaseさん、ikuraさんのそれぞれが自分の道をひた走って、その道が偶然交わったところで生まれた「YOASOBI」にしか生み出せなかった。
そんな「必然性」を強く感じます。
また、つい昨日「THE FIRST TAKE」で公開された、SixTONESの「こっから」でも、似た想いを懐きました。
「こっから」は、SixTONESが歌うことの「必然性」だけではなくて、彼らが歌うからこその「説得力」も強い1曲だと思います。
たぶん、「こっから」という楽曲が生まれる前からずっと、「まだまだこっから」と思いながら努力してきたであろうSixTONESだから。
がなるように、がむしゃらに叫ぶ熱い言葉の数々が、強く心に刺さるんじゃないかな。
どんな背景で、どんなことを想って、この曲を作ったのか。あるいは、この曲が、数ある曲の中から選ばれたのか。
アーティストさんが、自分自身のどんな部分とその曲をリンクさせて歌っているのか。
その「必然性」は、アーティストさんのインタビューで知ることもあるし、自分で勝手に解釈することもあります。
ただその曲を再生している時間だけでなく、そんなことを考えている時間も含めて全部が、私にとっての「音楽を聴くこと」。
その曲に、耳も心も傾けているその時間が、私はたまらなく大好きです。
これからも、たとえ忙しくなっても、そんな時間を大切にしていけたらいいな。