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伊豆天城山でハイキング-43

「右手が疲れてきた」

そう言って、たぁはラケットを左手に持ち替えた。

確かに30分以上、ろくすぽ休むことなく卓球ラリーを続けている。

彼は右利きでありながら両利きと言えるほど左手も器用に動かせる。以前、右手を痛めてしまい左手で箸を使った時も自慢気な顔をしながら食べ物をつまみ、さほど苦労をしている様子はなかった。それだけに左手でも問題なくラリーを返してくる。

「すごいね」

堅物な私は何事も新しいことを受け入れるのに時間がかかる。左手で文字を書くならまだしも箸で豆つまみなんて無理だ。

「できるよ」

そう促されてやってみると、右手ほどしっくりこなくとも、うんっ、できる。
これも日々稽古を行っている合気道を通して、インナーマッスルが鍛えられた恩恵と言えるだろう。そういえばテニスやペタンクをやっても以前よりも思った場所にボールがいくようになっている。


最初は緊張しながら左手でボールを返していたけど、微妙な調整を重ねながら上達を楽しむことに没頭してしまい、気づけば15時になっていた。

1時間近く楽しんだけど、発達途中の左手を思えばまだまだ続けられる。だけど、この時間だからこそ受けられる恩恵もある。

独占風呂だ。

大きなお風呂を一人でまったりと入るほどの至福の時間はない。

「お風呂に行こう」

心は一つで同時にラケットを置いた。


卓球部屋を後にして浴衣を選んでいると受付の人がやってきた。

「お土産プランをお選びいただいたのにお渡しするのを忘れていました」

そういってワサビを使用したお菓子を2つくれた。気になっていたものだったからなんだか得した気分。

そうかぁ、私はお土産コースを選んでいたのかぁ。

知らなかった。か、すっかり忘れていた。

お風呂上がりの服は互いに浴衣ではなく甚平を選んだ。そのほうが食事の時にゆったりできると判断したからだ。


部屋は三階の端。清潔な和室にキングサイズのどでかいベッドがでーんと置いてある。

やった、やっと二人一緒に同じベッドで寝られる。

私の抱き枕&最大の癒し(グッズ)であるたぁと一緒に寝られるのと一人で寝るのでは心地よさが全く違う。初日に泊ったペンションでは二つのシングルベッドをくっつけて寝たけど境目が気になり、自分のベッドへと移動せざる負えなくなった。今日はそんな心配をしなくていいなんて、それだけで嬉しさ3倍増しっ!

カーテンを開けると海景色。目の前だから波の音が聞こえる。たぁが広縁に腰かけてギターを弾いたとしても自然音がかき消し、他の利用客の邪魔にはならないだろう。
電線が景色の妨げになっているのは残念だけどよくある景色といえばそれまでだ。


素敵な部屋にウキウキしつつも二人してそそくさと甚平に着替えて、お風呂を頂こうと上の階へと向かう。
この宿には男女風呂の他に家族風呂がある。家族風呂は貸し切りにできるので、たぁと二人で楽しめると思い、中に入ってみると、窓はなく外の景色が見られないので、今回は別々の場所でお湯を楽しむことにしよう。

「何時に出る?」

「わからない」

鍵は一つしかない。たぁの質問はとても大事だ。だけどやっと昼間からお風呂を楽しめる喜びに満たされている私は時間制限を設けることができなかった。

「それなら適当に出てくる」

通常、私のほうが長風呂なので鍵を彼に預ける。
お互いの「エンジョイ風呂」を願いながらバイバイして暖簾をくぐると、思ったよりも狭い脱衣所に荷物を入れるボックスが並んでいる。

「お一人様一列でお願いします」

???????

柔軟性に欠ける頭はこのメッセージを簡単には理解できない。

横の一列だと上下の人が使いにくいから多分、縦一列なんだろう。
列ごとに4つのボックスがある。

一人で4つも必要かな?

入り口にスリッパ置き場はなかったので手に持っている。

「スリッパは一番下に置いてください」

そう書いてあるから、多分、箱に入れるんじゃなくてその下に置くんだと思い、使おうとしている列の下の床に置いた。

どこのボックスにも鍵はついていないから貴重品などここに置いておくことは危険だし、部屋番号が書かれた鍵だって置いておくことにためらいを感じる。受付に預けることができるけどわざわざ1階まで降りていくのも億劫だ。とりあえず今は女性風呂には私だけ。多分、男性風呂も同じ状況だから、たぁもそれほど心配せずに箱の中に置くだろう。

さぁて、お風呂をいただきましょう。


大きな窓に海が広がる内風呂のお湯はちょっぴり熱め。露天風呂は小さめで2人か3人で楽しめるサイズだけど、知らない者同士では遠慮したい大きさ。幸い今は一人だからなんの問題もない。お湯は内風呂と異なり低めの温度設定で海風も吹いていてずっと浸かっていられる。

海が見えて、波音が耳に届く。

なんて最高なシチュエーション。

誰ともしゃべらず、誰も傍にいない。

ささ家族とのお風呂はそれはそれで楽しかったけど、お風呂は癒しの場。もともとゆっくりのんびり話すことなく浸かりたいから、本来のあるべき姿に至福を覚える。柵の下を覗くと海沿いに停車する車と岩に当たって砕ける波しぶきを見ることができる。


音と映像。


動と静。


忙しかった頭は停止して、飽きることなくこの状況を受け入れる。


もしたぁが私を気遣って早く上がっていたら申し訳ないなぁ。

今となっては何もできないけど。



主な登場人物:
私-のん、夫-たぁ、
姉-ささ、姉の夫-れん
姪っ子-らら、甥っ子-ぼう


これまでのお話


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