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 他者や世界は自らの鏡であって、私次第で変化する。それらに対して喜怒哀楽といった感情が高まったとき、一定値を超えて反射的に涙や喧嘩、笑いとなる。慣れると満足してそれ以上を求める。感情を押し留めるべきだとつまらぬことを言っている訳ではなく、一人一人が何事も腹八分というように自ら調整して無理せず素の自然体で生きられるほうがいい。怒りも悔いも感動も力であり、力を一瞬で受け止めると反動は大きいので時間差を設けたり、合気のように流さねばならない。卓球でも何回プレイが続くかを競うチーム戦があったと思うが、長く続く人付き合いなんかはまさにそれだ。

 どこまでも満足を求めるとそれ以外に価値が見出せなくなる。これを欲というが、欲は自らが作りだすものであり、欲は程々である限り活力となる。欲に準じ過ぎると病となる。幸福とは上であったり下であったり、他者や外界によってもたらされるのでしょうか。灯台下暗しというように自らの内にあるのでしょうか。


美男美女といった外見的美しさを目の当たりにすると見惚れる。時間とともに他の人と比べることが無くなり気にならなくなる。よく会う男・女友達には過ごす時間とともに、内面的美しさが自らの内に見出される。

喫茶店で淹れたての珈琲を飲むときも、舌が火傷するほど温度が高いので反射的に「あつっ」と飲むことを止める。

閾値を超えて濃い味ばかり食べていると、お米そのものの美味しさやその薄く儚い香りを感じることができなくなる。

初めて訪れる観光地でも時間がたつほど興奮の熱は冷める。観光地を転々と行き着せば観光地に価値を見出せなくなる。

学生時代、初アルバイトで月5万円稼ぐと幸せを感じる。社会人一年目で年収300万円稼ぐとアルバイトのときと比べて幸せを感じる。時間が経つと満足せず500万円稼ぐようになる。

無理を続けると閾値を超えて病となり、身体に厳重注意される。

価値に疎い者は価値に翻弄される。

対人に未熟な者は他者につけ込まれる。霊に未熟な者は霊からも人からもつけ込まれる。霊感ある慣れた者でも疲弊し過ぎると、ほどほどの霊は力試しか知らんが境内に入ってくる。

心の空虚さを埋めようとあれこれすると、その時は満たされる。器に水を注いでも、器の穴がきれいに補修されなければ、永遠にただ水を注ぎ続ける。蛇口は一旦止めて先に補修しましょう。

希望の手前に立ちふさがる困難に立ち向かう者は、乗り越えたときに価値観が変動する。回避すると運次第ではまた同じ困難が形を変えて出くわす。

具体的なはっきりとしたことに慣れると、それ以上を求めて自ら抽象の井戸から汲み上げて考えることが減る。植物をみれば解るとおり、野性の自然体は水を与えずとも根を伸ばし、葉を広げて勝手に育つ。


 人によって満足や幸せ、知覚の閾値が異なる。感情の起伏が激しいと精神が疲弊する。感じ動く感動、情が動く情動、情を操る情操と3つある。感動するだけでもえらいが、疲弊しない程度に自らの情は操りたいものだ。

 ギター奏者ならわかるとおもうが、オクターブチューニングをするときにHz数が微妙に異なっていると音は微妙に振動する。それを超えると不協和音となりその次は独立した音となる。感じ動くとは心的Hz数が近いことに他ならない。Hz数が完全に一致していても音の太さや音色といった個性は異なる。

言葉は具体化されたものでしかなく、具体を具体的に捉えようとすると必ず誤る。これは老子が唱えた道と同じく、その道のりでなにか見落としている。言葉とは本末の末であり、元は音の連なり、その先はその者の心。何事もメガネを外してほどほどにみるぐらいがちょうどいい。

※えらいとは俗に云われる偉い意味ではなくご苦労なことを指しており、偉い立場といった御上ほどえらくご苦労されている。偉ぶる者をえらいとは云わない。民俗学でも示されるとおり、言葉にせよ文化にせよ都会といった震源より、田舎の離れの方が過去の欠片が現存している。

3/6 26:00 加筆

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