「0円教育物語」note版⑤

21経済的事情が左右する学習空間
 きょうえい塾は無料である。「無料」とは奇妙である。奇妙ではあるが、無料である。どうか、お許しをいただきたい。
 「無料」ではあるが、必ずしも、経済的に困難な子だけを対象にしているわけではない。学習面の困りごとを抱えている子は、皆が対象である。特に「経済的事情」のみを考慮しての「0円」ではない。おそらく、学習面の困りごとには様々なものがあるだろうという、思いである。
 ただ、ここでは「経済的事情が学習空間を左右する」ということを考えてみたい。
 何となくではあるが、現代社会を見渡してみると、どうやら「学習塾」の存在が子どもたちの学力をつける場として、賑わっているようである。僕は、賑わっているのかどうかは分からないが、賑わっているように感じられる。もしかすると、「小学何年生になったら塾に行ったほうがいい」とか、「中学生は行くべきだ」とか、「高校受験をしようと思ったら、塾なしには不可能だ」といったような認識が、「当たり前に」広がっているのではないか、と想像される。「勉強に遅れる理由」が、「塾に行っていないから」と極めて自然に発されるものになっていても、驚くようなことではない。おそらく多くの子どもが、学習塾に通って、「勉強をする空間」を手にしているだろうとも、思われる。
 「その効果」は別にしても、少なくとも、「勉強をする空間」が増えれば増えるほど、やらないよりはできるようになる可能性は上がると考えて、問題はないだろう。これは「鉛筆を持たないよりは、持たされたほうが、勉強ができるようになる可能性が高くなる」といった程度のことである。自ら意志を持って鉛筆を持つことは難しくとも、「持たされて持つ」ことはそこまで難しくないだろう、ということである。もしかしたら「その効果」を期待して、親御さんは「塾」に行かせるのかもしれない。または、「塾に行かせている」ということに、自らの心の安定を手にしているのかもしれない。
 ただ、塾に行くには、行かせるには、当然のことながら、お金がかかる。お金をかけることができなければ、塾に行かせることはできない。つまり、可能性として、「お金の有無が学力に差を生む」と言えないこともなさそうである。僕は、細かいことは分からないし、「実態」を調べるためには、それなりの調査をしてみないといけないために、なんとも分かりかねるが、「学習塾」があって、そこに行くには「お金」がかかるのであれば、そんなことも考えられうる。
 ここでまず前提としておきたいことは、当然のことながら、だからといって、いわゆる「塾」が「間違った存在」であるわけではない、ということである。「塾」が提供している価値に対して、お金を払っている人がいるから成り立つビジネスに、何ら問題はなく、「だからこそ」の良さも、間違いなくあるだろう。なんせ僕自身も、中学生、高校生になって、学習塾に通わせてもらっていたので、僕はどちらかというと、「塾」のことが、大好きである。そして「それ」によって動き出す経済があるのなら、それはそれで、停滞するよりは、良さそうである。お金は動いたほうが面白い。
 だが、「この環境」が一般的になればなるほど、「勉強ができるようになるためには、塾に行かせないといけない」という認識が一般的になっていくと思われる。そして、すでにある程度、一般的になっているのではないだろうか。勉強に力を入れるための装置であったはずの「塾」に、「みんな行く」ことが当たり前になると、「塾に行かないこと」がひとつの「例外」になる。勉強を補強するためのものが、勉強を左右するものになりえる、と言える。例にすると、「サプリメントの摂取が食事を上回る」といった様である。「食事」はせずとも、とりあえず「サプリメント」をとっておけ、といった感がある。
 「その認識」が「当たり前」になると、やはり経済的事情がダイレクトに学力に影響しても、不思議ではない。おそらく「その認識」はいつかの時点で、「勉強ができるようになるためには、塾に行かないといけない」というものに変わりえる。そして、その「変わった認識」を持った時点で、より本格的に、経済的事情が学力を左右するようになるだろう、と想像できる。果たして、本当に経済格差が学力格差を生んでいるのかは、さておいても、である。
 もし、これから僕の目の前に、元気よく「勉強をしたいです!」という少年少女が現れたときに、僕はその子から「何ともいえない気持ちよさ」を感じつつ、「勉強するならお金が必要だよ」と返事をすることは、できそうにない。「勉強」とはそういうものではないように、僕には思える。「お金」と「勉強」がどれほどの関係があるのかは分からないが、「お金と勉強」が「そのような認識で」つながるものであっていいのだろうか、と考えてしまう。

22経済的事象を条件としない理由(note限定)
 そんな「経済的事情」に左右されるかもしれない学習空間ばかりでは、面白くないように思えてきたこともあり、きょうえい塾は「無料塾」としている。「そういうものだ」という認識に対しては「そうではない」ものを出現させる必要がある、と僕は考えている。「そうではない」と思う人が、「そうではないもの」を実際に表現してみる。きょうえい塾とは、「そのための場」でもある。
 それを踏まえて、きょうえい塾は「経済的事情」を問わないこととしている。というのも、「経済的事情」を問うと、何だかかえって滞りが生まれるのではないかと、考えられるからである。そして、「経済的に苦しく、塾に行けない」ということを「かわいそうなこと」というこちらの勝手な認識を持つこともまた、違和感を感じるからである。理想としては、「経済的事情を抱える子ども」も来ることができ、「違った悩みを抱える子」も参加可能という形式である。「経済的に恵まれない=困っている」とするのは、どこか、違和感がある。これは僕の、感覚であるが、お金があることが幸せで、お金がないことが不幸せと、勝手に定義してしまっているようであり、少なくとも、僕は、お金があるから幸せで、お金がないから不幸せだとは思えない。
 経済的事情を問わないことで、経済的事情を解決する。経済的事情を問わないことで、「0円」で入れるようにする。経済的事情を問わないことで、円滑に流れをつくる。それは「経済的事情」と「学習環境」の問題点を解決するきっかけにはなり得るのではないかと、考えている。
 「それを問いていると、滞る」ということについて、もう少し述べたい。「滞る」というのは、流れが悪くなる、ということである。理由はわからないが、「お金」は何だか、真っ裸にされたくないものというか、人に晒されたくないもののようである。そのように感じているのは、もしかしたら僕だけかもしれないが、例えばその人の年収がいくらか、とか、貯金がいくらか、とか、何にお金を使っているか、とかは、あまり人に言うものではないように思われる。言っても悪いものではないが、無意識の文化のなかに、「そういうことは人に言わない」感覚が、人間には備わっているように感じられる。言ってダメなものでも、聞いてダメなものではなくても、言うことでもなければ聞くことでもないだろう。「お金」に関して赤裸々に人に話すという行為自体、人間の感性、もしかしたら日本人の感性からは、多少なりとも逸脱したもの、と言えるかもしれない。
 そこで「経済的事情」を問うと、「話す」というハードルが加わって、それが「日本人の感性」からは多少なりともずれているのであれば、それは「それならばやめとく」ということにもなりかねない。「それで年収はいくらなんですか」と問うこと自体、僕自身も決していい気持ちのするものでもなく、また聞いたところで、僕が多いか少ないかを判断することもできかねる。それならば、問わないほうがいいだろう、というスタンスである。そして、そのほうが、「困りごとを解決する」ということがサラサラと進んでいきそうに思われる。なかには「経済的事情」を問いて無料塾を運営されている団体もあるようであるが、「きょうえい塾」は少し違うスタイルをとっている、ということもまたある種の「スパイス」になるのではないか、と僕は考えている。言いづらいことは言わないほうが、身体にもよさそうである。
 また、経済的事情は、それが人間関係の「上下」を決めかねない。これまた誰に教えられたわけでもなく、誰から言われたわけでもなく、もしかしたら先天的に、「お金を持っている人が何だか偉くて、お金を持っていない人は肩身が狭い感じ」を感じるように人間はできているのかもしれないが、無意識のうちに、そういったものがあるように思われる。もちろんこれも、僕だけのものかもしれない。
 お金がないだとか、お金を払ってもらっている立場であったり、お金を払えない状態であったりすると、どこか「自ら」肩身が狭くなり、「申し訳なさ」が生まれえる。もしかしたら、「お金を出す側」にも、無意識のうちに「出してあげている意識」が芽生えるかもしれない。このとき、お金がある側は横柄に、お金がない側は遠慮がちにといった、ある種の「上下関係」が生まれてしまっても、不自然ではない。もちろん、お互いに、「無意識」のうちに。そしてその空気感は、あまり気持ちの良いもののようには思えない。決して、「気持ちの良いそよ風」を伴う空間ではないと、想像される。
 ただ「勉強をする」というのは、もう少し、気持ちの良い空間である。「自分を自分のために高めていこうとする行為」である以上、窮屈に、肩身の狭い思いをして行うものではないと、僕は考える。「その場」が人間の「上下関係」を生みかねない空間であっては、満足に楽しく勉強をすることは、おそらくではあるが、難しい。「その場」こそ、経済格差と学力格差の関係値を「より強める場」になってしまいそうな感もある。
 そして、当事者としてではなく、第三者の立場から俯瞰して考えてみると、「経済的事情」が「人間の上下」を決めるものではない。ただそれが「当事者」になった瞬間に、「決めるもの」になりかねないので、問わない。少なくとも僕は、困っている子どもたちの力になれる部分を探しているのであって、そこに上下関係を作りたいわけでもなく、そして大して頭がいいわけでもないにも関わらず、「勉強を見させてもらっている」立場である。言ってしまば、「経済的事情を問えない」のである。
 「お金」を一旦度外視して、「勉強を教えてあげられそうな人」がいて、「勉強を教えてもらいたい人」がいるというだけである。僕は、「経済的事情を問わない」というよりは、「問えない」ようである。それよりも、ただ「お金を一旦度外視」したいだけなようである。そして、なぜお金を度外視して勉強ができる環境を超えて、「勉強にはお金がかかる」という認識が生まれ得る環境が優勢になっているのか、少々、疑問である。「お金を稼ぐこと」ばかりが頭をぐるぐるしすぎているあまり、「お金を省いた」世界があまりにも足りなくなっているような気がしてならない。「生きること」とは「お金を得ること」なのだろうか。「お金を得ること」が「人間の目的」なのだろうか。そういうことを言い始めるとキリがないが、そんなことを考えてしまう。

23経済的事情を突破する (note限定)
 僕は経済的事情を突破したい。「そんなところ」で滞らせている場合ではないと思っている。そして、「勉強をするのにお金がかかる」ことはあっても、「お金がないと勉強できない」というのは、いかがなものだろうか、と思えてならない。たしかに、「偏差値を獲得するためのツール」としての勉強は、お金によって、「取って代わるもの」になり得ると思われるが、本来の「人がもつ知識の継承」は「そういうもの」ではなかったのではないだろうか。「生きる知恵」のひとつも、「お金」によって取引されるべきものなのだろうか。勉強が「ただ学び、ただ成長する」ものとして、受け継がれていくことはできないのだろうか。残念ながら、「勉強」によって獲得できる知識なんぞ、僕はそこまで「手に届きづらくすべきもの」のようには思えない。何度も言っているが、僕はいまだに、sinθの値を求める練習をたくさんしてよかったと思えた経験は、一度もない。それでも「入試の道具」となり得る「数学」としては、「三角関数」という単位としては、「sinθを求めよ」という問題としては、「お金をかけなければ手に入らない」ものなのだろうか。「勉強」には、「数学」には、「三角関数」には、「sinθ」には大変申し訳ないが、「それ自体がそれほど大切なもの」ではないように、僕は思う。それならば、みんなで和気あいあいと、「人間同士のつながり」自体で学び合うことはできないだろうか。ここに、「勉強をするにはお金がかかる」という問題点が現れる。これは「勉強」に限ったことではないが、「お金」を介してしか人との交流が持てなくなるのは、人間界にとっては、相当な危機なのではないか、とさえ思えてしまう。やや飛躍した展開ではあるが、少なくとも、勉強をしたい子どもたちを前にして、勉強に困りごとを抱えている子どもたちを前にして、「お金を稼ぐもの」として勉強を利用することしかできない「人間の幅の狭さ」には、少々、頭が痛い。
 これも繰り返しにはなるが、僕は「お金をかけて勉強すること」に対して、何ら問題を感じてはいない。何か間違っているとも思っていない。
 僕が疑問に感じるのは「認識」である。人間の「認識」である。そして「そこへの無意識」を「有意識」にするための「無料塾」である。いつの間にか、簡単な思考によって、「勉強はお金がかかるもの」に変えてしまっているのではないか、いつの間にか「勉強はお金で買うもの」にしてしまっているのではないか。いつの間にか「勉強ができるとは、偏差値を獲得すること」になってしまっているのではないか。そんな疑問である。人間にとっての「勉強」の捉え方は人それぞれ、自由であり、好きにすればいいという大前提のもとではあるが、あまりにも短絡的に「勉強=お金」としすぎているのではないか。そして「無料塾」という存在自体の意義や意味をも、「簡単には理解しづらく」なっているのではないか。「何、これはボランティア?」という認識しか持てなくなっているのではないか。「人と人とが学び合う場」を「お金なしに」理解することが難しくなっているとしたら、これは、たいそう、深刻な「学習空間」である。「大人」がそのような認識でいて、「皆が平等に学べる社会」を作ろうとしているのだろうか。僕には「なんの、ご冗談を」としか思えない。「学ぶ」ということに立ち返らない限り、所詮、「お金を介して」しか、人間がつながることができなくなっている社会において、口先だけの「平等」など実現するはずはないように、思えてならない。「皆がビョウドウにマナベル世界」をもし「実現」させようとするのなら、まず、「人間が学ぶ」ということに立ち返らないといけない。もしそれを「実現したい」方々がいらっしゃるのなら、「人間が学ぶ」ということ、さらに「人間」の原点とは何か、ぜひご一考願いたい。僕は僕なりに、「学習空間」を作ろうという試みが、無料の、0円の、「きょうえい塾」である。

24第三の学習空間
 きょうえい塾は、子どもたちの「第三の学習空間」となることを目指している。「目指す」と言っても、これは概念的なもので、どこかの瞬間で「これで第三の学習空間になった!」と確信できるものでははない。いつの日か、「そんなふうに思える場」となることが、ひとまずの目標である。
 スタートの段階では、当然僕一人で回していて、教室も広くはなく、僕自身の「教える」経験値も浅すぎて笑ってしまうほどである。どのようにして大きくなっていくのかの青写真さえ、まったくない現段階である。実に面白い。「わからない」とは、面白い。
 「第三の学習空間」とは、どういうことか。僕が「第三」と表現するのは、「第三者委員会」と似た意味の「第三」であり、「これとこれ」のような「決まった二つ」が既に前提としてあるわけではない。「学習空間」においては、例えば、「学校と家」であるとか、「学校と塾」や、「塾と家」だとかが考えられる。人それぞれにもつ学習空間の「もうひとつとなること」と言えるかもしれない。必ずしも「来てほしい!」ということではなく、子どもたちが好きなように選べる、「自分はここが好きだ!」と見つけられるように、選択肢を用意したい。それが「きょうえい塾」である必要はまったくなく、「家」を見つけるきっかけでも、「学校」を見つけるきっかけでも、好きなように選べるようにしてあげたい。もちろん、3つ、4つあってもそれはそれで面白い。それでは「第四の学習空間ではないか」ということではないことは、おそらくわかっていただけるものだと信じたい。それが「第三の学習空間」である。
 僕は、「選択肢の狭さ」をときおり感じることがある。「選択肢」と言えるほど「選択肢」はないことが多いと感じることがある。これは「勉強」に限ったことではない。例えば、その人とは友達なのか、そうでないのか。卒業後は進学か、就職か。大学院か、就職か。独身か結婚か。わからないが、そういった、「実は選択肢などない世界」が、わたしたちの周りには、多くある。「できるのか、できないのか」もそうといえるだろう。これは、おそらく「二つしかない」というよりも、「二つだと思い込んでいる」側面が強い、つまりわたしたちの「認識」が「その世界」を作り出しているだけだろうが、あたかも「それ以外にない」という思い込み、そして「その思い込み」が生きづらさにつながりうるように、僕は感じている。「生きづらさ」というと、ややおおげさかもしれないが、ただそこに「逃げ道的視点」があったら、少し楽になれるのではないかと思えることが、少なくないように、思われる。というのも、本当に、人と人のつながりは「友達かそうでないか」だけなのだろうか。卒業後の進路は「進学か就職か」しかないのだろうか。「大学院か就職か」しかないのだろうか。「独身か結婚か」しかないのだろうか。「わかるかわからないか」しかないのだろうか。そのような認識を作っているのは、わたしたち自身ではないのか。「人」は「他人事」の提案は、おそろしく思考を働かせない。自分ごとにならないと「思考」をいちいち働かせることなく、いとも簡単に、「二つしかない選択肢」を用意する。「用意された選択肢」に対して、疑いの思考を自ら働かせようとしない限り、人は「二つしかない選択肢」に翻弄される。だが「三つ目の選択肢」は「自ら」探しに行かない限り、見つけることはできないものである。もし、これまで、そして今後、「二つしかない選択肢」、「二つしかないように見える選択肢」を、誰かに用意されたときには、一度立ち止まって、「第三の選択肢」を探してみることを、僕はおすすめする。「逃げ道を探すこと」も立派なひとつの選択肢である。「学習空間」においても、「二つしかないもの」という前提が、「限られたものの中から選ぶもの」という前提が、自らを狭めているのかもしれない。「勉強をするにはお金がかかる」、「お金がかけられないから勉強ができない」、果たして本当にそうだろうか。「お金をかけるのが勉強である」、果たして本当に「そう」だろうか。
 やや、話が逸れた部分もあるが、「きょうえい塾」は「逃げ道」の可能性を探っている。「いかに逸脱をするのか」を探っている。「いかに戦わないか」を探っている。もしそれが、「学習空間」に限定されない「逃げ道発掘のきっかけ」となれるのなら、それこそが本望かもしれない、と今、僕は思っている。「勉強」が「生きていく練習」だとするのなら、「きょうえい塾」は「逃げ道を探すこと」の練習である。僕自身も「逃げ道」を探していて、ひとつの逃げ道の、「現段階で出し得る答え」が「きょうえい塾」である。僕はただの弱虫である。「逃げ方」を探り続ける、「弱虫」である。

25学習環境の打破
 僕は学習環境の選択肢の一つとして、「きょうえい塾」があってほしい。その思いである。学校があり、塾があり、きょうえい塾がある。そして家がある。フワフワと、のほほ~んとしながら、自由に移動ができてしまうような学習環境作りの一環である。
 「勉強をする」ということに関して、僕も含めた「人類」はだいぶ凝り固まってしまっているように思われる。学習環境が凝り固まる前に、学習に対する思考までもが、凝り固まってしまっている。それがあたかも「絶対的存在」と化しているかのごとくに。
 たしかに、「子どもと勉強」はべったりくっついている。学校があり、授業があり、テストがあり、受験があり、合格があり、不合格がある。べったりくっついているからこそ、そのレールの上での完成品を作ることが、あたかも崇高なことのように、捉えられている。果たして「それがどのように優れているのか」ではなくて、「完成品は優れもの」とでも言わんばかりに。ただ、実際は、社会に出てもあまり役に立たないような「知識」や「知恵」の競争である。それが本当に「崇高なもの」なのだろうか。どうやら、一度立ち止まって、「思考」を広げてみる必要がありそうに、僕には思える。そして、その「逃げ場」を探す。「そんなことのため」に勉強をしていていいのだろうか。僕にはわからないが、そこに凝り固まり続けるのなら、「そんなことのため」という思考は生まれ得ないとするなら、「きょうえい塾」がその思考の発生点になってくれたら、もしかしたら僕は、嬉しいのかもしれない。よくわからない。
 少なくとも、「勉強の遅れ=すべての遅れ」ではないことを、声を大にして、僕は言いたい。「それ」を原因に、何らかのやる気を失ったり、生きることの難しさを感じるのであれば、それは「勉強」を崇めすぎている。残念ながら、「人生を豊かにする」ほど、学校で行われる「勉強」は効力をもっていない。
 僕は「勉強」を通して得られるものだとか、「勉強の時間」自体だとか、その中身は「有意義なもの」だと感じている。だが、だからといって、「勉強をしたから人生が良くなる」とか、「人生で勝ち上がるための道具として勉強」とか、「勉強ができないから人生がダメになる」と思うところはまったくない。「学歴」なんて、「あればあるもの、なければないもの」である。鳥にはハネがあって空を飛べて、人間にはハネがないから空を飛べない、といったことと同じである。その違いは「ハネがあるのか、ハネがないのか」というだけである。どうしても、「人間同士」の世界にいると、「ハネがないもの同士」として「何を持っているのか」ということを競おうとしてしまう。ただ、「人間」に関しても、足の速い人もいれば、食べる量が多い人もいて、毛が濃い人もいれば、背の高い人もいる。顔が大きい人もいれば、顔が小さい人もいる。別に「足の速さ」が人生を決めるわけでも、「食べる量」が人生を決めるわけでも、「背の高さ」が人生を決めるわけでもない。所詮、「空を飛ぶことはできない運命」に生きるのが「人間」である。「勉強」だって、足の速さ、食べる量、毛の濃さ、背の高さ同様に、「得意な人」もいれば「苦手な人」もいるのである。「ただそれだけ」のことではないだろうか。
 人間はAであり、Bであり、Cであり、Dであり、Eである。「だから人間はDだ」とするのは、ややはやとちりではないだろうか。


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