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正しさより楽しさ

「何度言ってもわかってくれない」「仕事への真剣さが足りない」「やる気が感じられない」

職場の仲間に対して、このように感じることが多い人は、仕事に熱い情熱を持っていて、仕事の理想が高く責任感が強い傾向があります。

理想が高く情熱が大きい人ほど良いサービスを提供できるし、それが働く原動力となって仕事を続けることができます。

しかし、高すぎる理想や情熱は、職場での人間関係を悪化させる原因になり得るので注意が必要です。

高すぎる理想の危うさ

お客様様にとって良いサービスとは何か、どうすることが正しいのか。

この理想のサービスに対する正しさを追求するあまり、他者の仕事のやり方や考え方が自分と異なると、それは間違っていると判断してしまうことがあります。

仕事に対する自分の価値観と他人の価値観が合わないとき、自分が正しく他人は間違えていると裁いてしまい、他人を見下してしまいます。

よく理解しておくべきことは、自分と全く同じ価値観を持つ人などこの世に存在しないということです。

すごく考え方が近いと思えた人でも、細部になると意見が一致しなくなることはあります。

自分の描く理想に対して、完璧主義であるほど、他人の間違いや他人の価値観を認められないのです。

人間誰しも完璧ではありません。どんなに完璧にやろうとしても完璧にできない部分がある程度残ります。

完璧じゃない人間が完璧を求めると苦しくなります。

6割主義、7割主義で働くくらいがちょうどいいんです。

正しさを追求する先にあるもの

個人や企業が裁判で争うとき、お互いが自分の正しい論を主張します。

国家の戦争も、お互いが自分たちが正しいと思っているから起こるのであって、自分が間違っていると思って戦争する国はありません。

宗教やイデオロギーなどすべての争い事は、自分の正義感から、「相手の間違いを正してやろう」「正しいことをわからせてやろう」という考えから生まれます。

正しさを追求する先には争いが生まれ、争いの果てには不幸が残ります。

さらに、正しさへの執着は、「間違えた相手を許せない」という気持ちを生み、その怒りのエネルギーは、自らの身体の不調や病気を引き起こします。

では、他人の価値観は全て認めないといけないのでしょうか?
どこまでを正義、どこから悪と考えたら良いのでしょうか?

正しいこととは何なのか?

殺人や強盗など、犯罪を犯す人の価値観など認められるはずはありません。

法治国家である以上、法に則ることは正しく、犯罪を犯すことは悪であるとすることで、社会の秩序が保たれます。

それ以外の正しさとは何でしょう?

人としてやってはいけないこと、人を殺したり、殴ったり、傷つけたり、いじめること。これらは人間としてあるまじき行為です。

法律上の正しさ人間としての正しさがある。では、それ以外の正しさには何があるでしょう?

私は、職場という限られた世界においては、会社の理念に沿う行為は正義、理念に反する行為は悪だと考えています。

会社の企業理念、経営理念は事業の目的や価値観であって、社員は同じ志を持つからこそ、その会社に所属して共に働くのです。

共に働く理由は、実現したい未来と価値観が同じということにしか見出せません。

会社は、自社の価値観をしっかり告知して賛同する人に集まってもらい、日頃から周知徹底して、判断に困ったときは理念に立ち返って方策を決める、事業運営の法律とすることが重要です。

ですから、会社の理念やルールは守るべき正しい価値観であり、それ以外の価値観については守らなくていいもの、どんなやり方、どんな考え方も認められるべきものとなります。

例えば、

会社の理念やルールに「お客様の喜びと幸せを最優先する」という価値観があるなら、一人ひとりの心に寄り添うサービスを行うことが正しくなります。

理念やルールに「仕事は速く沢山こなさなければならない」「仕事は複数同時にこなさなければならない」というものがないのだとしたら、それらの基準は個人の価値観の問題であって、これができないからと言って批判されるべきことにはなりません。

速く沢山こなせない人も、複数同時にできない人も、それぞれのやり方は尊重されるべきです。

ですから、会社という企業国家において、理念やルールの策定はとても重要です。

ルールが多すぎれば排他的な集団になり、ルールが浸透しなければ、方向性がバラバラな無法地帯になります。

私たちは学生時代、試験で答えが1つである答案を求められて育ったので、つい答えは1つだと考えてしまいがちです。

しかし、実社会ではあっちも正解、こっちも正解と、どちらも間違いであるとは言い切れないことは多々あります。

答えは1つとは限らないのです。

多少やり方や考え方が違うとしても、目指している方向、理念が同じであれば、相手の価値観を尊重することが大切です。

そのときに意識すべきは、どちらが正しいかではなく、どちらが楽しいかという基準です。

もっとこうした方がお客様様は楽しくなるんじゃないか?職員も楽しくなるんじゃないか?という楽しさを基準にすると、「そのやり方もいいね!こうするともっと楽しいね!」と共同作業が盛り上がって行きます。

些細な考え方の食い違いなど、気にならなくなります。

せっかく同じ目的を持って働いているのですから、本質的でない些細な考え方の食い違いに捉われてしまうことのないように、正しさより楽しさを追求して行きましょう。

善悪の判断をしない

善悪一如という仏教の言葉があります。

善も悪も衆生の心による働きであり、本来2つに分けることはできない一体のものという意味です。

この人はいい人、あの人は悪い人。今日の運勢はいい、明日の運勢は悪い。今日の天気はいい、明日の天気は悪い…

善悪の判断をすることで、間違えた行動を取ること、間違えた境遇であることは悪になります。

若いうちは自分の価値観や人格の形成途中なので、自分にとって何が正しいかを明確にする過程で、それとは逆の行動を取る人を悪だと認めて、排除したり蔑むことがあります。

善し悪しを判断する心は、判断した自分の考えが正しいと思う快楽を与えます。

そして、正しい判断をした自分に優越感を覚えます。

ですから、劣等感が強い人ほど自分の正しさを主張したがり、それが認められないと気分を悪くしたり怒ったりします。

起こった出来事や境遇は、良くも悪くもなく、常にニュートラルです。

必要以上の善悪の判断、正誤の判断は苦しみを生みます。

少し頭のネジを外して、余計な判断をしなければ、「今ここにある目の前のこと」に集中できます。

例えば、

上司と部下が「資料作成、明日までやってって言ったよね?」「いや、明後日までって言ってましたよ!」と言い争っているとします。

二人のどちらかが正しいのでしょうが、そんなことより、資料を間に合わせる方が重要です。

言った言わないの、答を確認しようのないことには執着しないことです。

たとえ答を確認する術があったとしても、執着しないに限ります。

誤りを指摘することは、「あなたが間違っている」と相手に負けを認めさせるだけで、対人関係に何も良いことがないからです。

理念やルールに関わる大事なことでなければ、こだわる必要はありません。

正しいことを言って人気者になる人はいません。

登場したと同時に拍手喝采を浴びる裁判官はいないです。

正しいことだけ言うのは、つまらない人間です。

自分の中にいる裁判官がつまらないことを言って働いていると、仕事もつまらなくなってしまいます。

「あの人のやり方は間違っている。」「今のこの状況は間違っている。」

そのことにこだわり過ぎると、最高のパフォーマンスが発揮できなくなります。

正しさより楽しさ、正義感から貢献感へ

子供を教育する場合、善悪の判断をしなくてはならないこともあるでしょう。

しかし教育とは本来、本人が自分の頭で考え気付くことであって、誰かの正しいことを教えることではないのです。

正しさは人それぞれ違うものであって、その人が教える正しさが本当に正しいかなどわからないからです。

私が子供の頃は、運動中は水を飲まないことで精神と身体が鍛えれるとされていて、部活中も監督、コーチから「水を飲むな!」と言われました。

今では、脱水症の危険もあり、水分補給した方が身体能力が維持され、練習がより持続でき効果的とされています。

戦時中は戦場に出向くことは正しいとされ、体罰による教育が正しい時代がありました。

太陽が地球を回っている時代もあれば、写真は魂を吸い取ると思われていた時代がありました。

世間の正しいことは、時代によっても変化します。

世間体に縛られず、「正しいことをする」よりも、「正しいかどうかはともかく、私はこの方法でやるのが楽しい」という自分の心が実感することを重視して行動することです。

楽しい感覚をうまく感じられない場合は、正しいかどうかは、「相手の役に立っているかどうか」、正義感は「貢献感」に置き換えた方が生産性が高く実用的です。

善悪を判断するより、役に立っているかどうかに判断の基準をずらすことです。

正しいことより「楽しいこと」「誰かの役に立っていること」に意識を向けると、仲間と楽しく働ける土壌を育んでいくことができます。



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