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言葉と学問への重し|松葉舎の講義録|2023年7月16日

2023年7月16日の日曜日、独立研究者の森田真生さんと一緒に、「自分のことばとからだで考える」というテーマで対談をしました。こちらの文章は、そのイベントの告知文に寄せた文章の一部になります。またそのイベントに先立って書いた「自分のことばとからだで考える|松葉舎の講義録」という note の続編でもありますので、合わせて御覧ください。

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僕は大学で研究をしていたころ、街の方々に向けて時々、「生命とは何か」ということを講演していました。ある講演会の後、それに参加してくれていたお婆さんから、こんな質問をいただきました。「最近、夫を亡くしたんです。この悲しみにどう向き合えばいいと思いますか」と。

僕は正直、面食らってしまいました。その話と、今日の「生命とは何か」という学問的な話とは、関係が無いじゃないか、と。そう思いつつも、何しろそれは深刻な悩みでしたから、それにどう答えればいいのか、その時の僕には分かりませんでしたが、それでもお婆さんの気持ちに寄り添うように、言葉になりきらない言葉を、途切れ途切れ、なんとか搾りだそうとしていました。

次第にお婆さんの表情は和らぎ、僕も一安心したのでしたが、当時の僕は、お婆さんの質問が僕の学問に突きつけていたものの重さに、気付いていませんでした。

あとになってよくよく考えてみれば、というよりも、本来であれば考えてみるまでもなく、「生命とは何か」という問題と、「お爺さんの死にどう向き合うか」という問題が、無関係であるはずはないのです。生の問題と、死の問題が、離れてあるはずはない。にも関わらず、その頃の僕には、それが無関係に見えていた。それは、当時の僕の学問が、自分の人生から遊離してしまっていた証拠だと思います。

僕がそのように自分を省みる一つのきっかけとなったのは、ダンサー・田中泯さんの「生命という言葉は、いまどの位純粋だろうか?」(『僕はずっと裸だった』)という問いに触れたことだったように思います。それに続けて田中泯さんは、「言葉に容易く共感してしまうとき、からだのどこかにかすかに生まれる気恥ずかしさ」があるということを述べているのですが、当時の僕の体からは、生命という言葉を簡単に口にしてしまったとき、からだのどこかに生まれるはずの気恥ずかしさを感じとるだけの感覚が、抜け落ちてしまっていました。

ある意味では、田中泯さんの反語的な問いかけとは逆に、当時の僕にとっての「生命」という言葉は、「純粋」になりすぎていたのだと思います。学問の文脈の中で「生命」という言葉を使うことに慣れすぎて、生命というものが人生の中で本来持っている重み、悲しみ、おぞましさ、汚さ、泥くささ、そうしたものを全て、きれいに忘れさってしまっていた。

そうしたことがあって、今でも「生命」という言葉を使おうとすると、筆の動きが鈍り、口がぎこちなくなることがあります。いざ「生命」という言葉を用いた後も、ああ、この言葉を使って本当によかったのか? という気分に襲われる。括弧の中に包まなければ、この言葉を使えない感じがある。いまだ「生命」という言葉は、自分のことばにはなっていません。

あのときお婆さんが僕に投げかけてくれた質問が、僕の学問と言葉にとっての重しとなっているのですが、しかしそれは、僕が自分の人生に足をつけて言葉を紡いでいくための、重要な重しだったように思います。

「生命」「心」「身体」——こうした言葉を、自分のことばとして語れるだけのからだを養い、暮らしを形づくっていくこと。それが、僕が「学問」するために、今、試みていることだと思います。

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