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自分のことばとからだで考える|松葉舎の講義録|2023年7月8日

2023年7月16日の日曜日、独立研究者の森田真生さんと一緒に、「自分のことばとからだで考える」というテーマで対談をしました。こちらの文章は、そのことに関して、松葉舎の授業で話したことの講義録となります。

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来週、森田真生くんと「自分のことばとからだで考える」というテーマで対談する予定です。それで、僕はこれまでの人生で一体どのように「自分で考えよう」としてきたのかを振り返っていたのですが、そもそも何をもって「自分のことばとからだで考えた」と言えるのか、「自分で考える」という言葉の意味自体が、人生の節目毎に大きく変化していっていることに気付きました。今日はそのことについて話したいのですが、大きく分けると

①下関に住んでいた18歳頃までは、「世間の常識に流されずにものを考える」ということが、僕にとっての「自分で考える」ということの意味でした。

②だけど、大学に入るために東京に出てきて、そこで都会の空気や学問の世界に触れてからは、これまでとは反対に「自分の常識に閉じこもらずにものを考える」ということが、「自分で考える」ということに含まれてきます。

③そして、僕は博士課程に進学し、28歳まで大学にいたのですが、大学を出る頃になると、今度は「学問の常識に捉われずにものを考える」ことが、「自分でものを考える」ためには必要だと思うようになってきました。

その延長線上に開かれた、ここ松葉舎では、世間の常識からも、自分の常識からも、学問の常識からも離れて、みんなと一緒に「自分のことばとからだで考える」ということを試みている。そういうことになりますが、今度の森田くんとの対談では、松葉舎でみなさんと一緒に試行錯誤してきたことについて、話せればなと思っています。

ただ、ここに至るまでのプロセス、世間の常識、自分の常識、学問の常識から、なぜ僕は距離を取ってきたのかという理由についても、これは前提として話しておいたほうがいいと思っていて、今日はそのところについて話したいと思います。

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改めて、下関時代の僕にとっての「自分で考える」とはどういうことだったかを話すと、これはすごく素朴な意味での「自分で考える」でして、「世間の常識や流行に流されず、自分の信念や感覚に基づいてものを考える」。それが、当時の僕にとっての「自分で考える」という言葉の意味でした。

そういうと、世間の常識に立ち向かうように、強く積極的にものを考えていたという印象を与えるかもしれないんですが、実際にはそんな勇ましいものではなくて、ただ僕は、小さな頃から世間の常識に馴染めなかったり、友達の間で流行っているものに興味が持てなかったりして、そうした中で、仕方なく自分なりにものを考えていた、あるいは、ものの考え方が世間から外れていたということなんですが。

分かりやすい一例をあげると、僕は小さな頃から今に至るまで、テレビというものを全く見ずに育ってきて、唯一の例外は、高校生の頃に爆笑オンエアバトルというお笑い番組を見ていたくらいなんですけど、それ以外は全く見ずに育ってきたので、芸能人の事だとか、みんなが見ているバラエティ番組の事だとか、そういうことを何も知らなかったんですね。それであるとき、たしか小学校3、4年生の頃だったと思いますが、芸能人のことを知らないという理由でクラスメイトから「お前は常識がない」と言われて、ケンカをしたことがあって。なんで芸能人の名前を沢山知っていることがそんなに偉いんだって。

別にテレビが下らないとかそういうことを言ってるわけではなくて、僕も田舎の古本屋の息子としてマンガに囲まれて生きてきて、何万冊とマンガを読みながら育ってきたわけですけど、ただ、マンガのキャラクターの名前を人に押しつけるべき常識だと思ったことはない。なのに何故、芸能人の名前は常識として押しつけられないといけないのか。それは単に、テレビというマスメディアの力で、沢山の人がそれを知っている、それだけのことではないのか。みんながそれを知っているからといって、なぜ僕もそれを知らないといけないのか。

まあ、そういうケンカをして、そのころから僕は、常識というものに対して、ぼんやりとした反感を抱きながら生きてきました。

もう一つ分かりやすい例をあげると、2002年、僕が高校生2年生の頃、サッカーのワールドカップが日韓合同で開催されて。アジアで初めてのワールドカップということもあって、クラスメイトは大盛り上がり、みんな日本代表を応援しようというムードが高まっていたんですね。ただ僕としては、そもそもサッカーに興味がないから見たくもないし、日本代表のメンバーなんて一人も知らないし、かといって日本という抽象的なものを応援する気にもなれない。だから応援に誘われたときも「そういう気分じゃない」と断ったら、「日本人なら応援しないと」と言われて。

相手も別に悪気はなくて、ただ友人と一緒に日本代表を応援しようと、軽く口をついて出てきた言葉だったんですが、これが僕には中々衝撃的な言葉でした。サッカー日本代表を応援することが、当たり前のように日本人であることの要件に組み込まれている。この「当たり前」とは一体何なんだろう。みんな、今ワールドカップがたまたま話題になってるから、単に流行に乗っかって応援してるだけじゃないのかと。

ただ、こうした自分なりの理屈を説明しても、その結論が常識からはみ出している場合、多勢に無勢、大抵は「屁理屈」の一言で片付けられてしまうんですね。常識というものは、強大なものだと感じていました。常識の側に立つものは自分の理屈を述べる義務を免れていて、一方的にこちらの理屈を「屁理屈」として片付けることができる。理屈が通用しない。常識というものが人をねじ伏せる、圧倒的な力を感じていました。

まあでも、常識には理屈がなくても、それに従うべき理由はあったりするんです。常識に含まれた知恵というのは言語化できない、理屈としてそれを述べ立てることができないものなので、自分の考えた理屈に従うよりも、常識に従っていたほうが物事上手くいくことが多い。

だけど僕は、たとえ失敗してでも、自分の考えを試してみたい質だったし、周りも最終的にはその意志を尊重してくれることが多かったように思います。常識というものに寄り掛かって、その場その場の小さな正解を重ねていくことで、人は正しくものを考えられるようになるのだろうか。自分でものを考えるということは、そうすることによってしばしば間違いを引き起こし、だけどその結果を自分で引き受け、修繕していく、そうした積み重ねの果てにしか訪れないのではないか。

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今紹介してきた例は、極端で分かりやすい例ばかりでしたが、大小無数のこうした経験を積み重ね、世間の常識になじめず、流行にも乗れないと感じていた僕は、ある種自分の身を守るようにして、自分の信念と感覚とに閉じこもりながら、ものを考えていたんですね。

そういう下関時代から、大学入学のために東京に出てくると、そこには下関の常識とは全く異なる常識が広がっていて、びっくりしました。というよりも、東京という都市は下関に比べると、常識というものそれ自体の気配や密度が薄い。

大学にしても、全国各地から学生が集まってきていて、その一人ひとりが自分の生まれた土地から持ち寄った、異なる常識を身に付けている。そうした一人ひとりの持っている常識同士がぶつかり合うことは勿論あるけれど、集団を覆う眼に見えない常識が手足に絡みついてきて、こう、身動きが取れなくなるようなことは、少なかったと思います。

そうした中で、それぞれが持つ常識を友人と戦い合わせているうちに、自分自身が無自覚のうちに身に付けてきた常識が、だんだんと相対化されるようになってきました。これまでは世間の常識に流されないように、自分の常識にしがみつくようにものを考えてきたけれど、その常識というのはどのくらい確かなものなのか。そもそも自分は、その常識をどのようにして身に付けて来たのか。もしその常識が、無自覚のうちに手にしたものだったとしたら、その上に立ってものを考えていて、本当に「自分でものを考えた」と言えるのか? そうしたことに、意識が向くようになってきた。

加えて、大学で学問を学んでいると、自分がそれまで当たり前としてきたことが、決して当たり前ではないのだと思い知らされることが、何度もありました。

例えばアインシュタインの相対性理論によると、人はそれぞれ、自分に固有の「時間」をもっているのだといいます。僕たちが「時間」というものに対して素朴にもっている常識では、わたしとあなたとは同じ時間を共有していて、だからこそ、「明日何時何分にどこに集まろうね」というように、時刻を指定して待ち合わせをすることもできるわけですが、相対性理論によると、わたしとあなたとでは、それぞれに時間の進み方が違う。それだけならまだしも、お互いに相手の時間の方が、ゆっくり進んでみえることがあるという。つまり、「あいつは時間の進み方がゆっくりでまだ若いのに、僕のほうは時間が進むのがはやくって、先に歳をとってしまったなぁ」ということを、「お互いに」思い合っている。そうした、僕たちのもっている素朴な常識、あるいは人間の等身大の感覚から得られたニュートン力学の常識からすると、矛盾としか言えないようなことが、相対性理論の世界では起こり得ます。

だけどそれは別に、相対性理論が間違っているという訳ではなくて、人間にとっての常識が、宇宙のあらゆるスケールにとっての常識であるわけではないという、それだけのことなんですね。この宇宙にちらばる星々や、その間を光速でいきかう光のような、非常にスケールの大きな世界には、そのスケールに応じた法則と常識がある。あるいは逆に、僕たちの体を構成している原子、それを更に分解していった先にみえるような、非常に小さなスケールの世界には、やっぱりそのスケールに応じた法則と常識とがある。

この宇宙は、一つの常識で覆われているわけではない。人間から見れば宇宙の常識は非常識だけど、宇宙からみれば、人間の常識のほうが非常識なのかもしれない。この宇宙という非常識な存在に、僕は励まされるところがありました。この世界には、世間の常識や、自分の常識だけでなく、人間の常識からさえも自由な場所がある。それは、宇宙の果てにだけでなく、この足下にも。

それで、いまは理系の学問を例として述べましたが、人文系の学問にもまた、世間の常識、自分の常識、人間の常識を問いただしていく力があります。そうした学問を通じて、それまでの自分の常識を洗い去って、新しい光の下に世界を眺め直していくこと。それは、とても心地のよい経験でした。

そういうわけで、東京に来てからは、世間の常識を疑うだけでなく、自分の常識を疑い、そこから抜け出していくことを楽しむようになりました。それまでは自分の信念や感覚に基づいてものを考えることが「自分で考える」ということだったけれど、そうした自分の信念や感覚そのものを相対化したり、吟味したり、そうして自分の思考の枠組みを広げていくこと、組み替えていくことが、学問の世界に入ってからの「自分で考える」になってきました。

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ただ、そうして自分の凝り固まった常識をほぐしてくれた大学や学問には、もちろん感謝しているんですが、僕はその世界にも居着くことはできなくて、いまは大学の外に松葉舎という私塾を開き、そこで塾生のみなさんと一緒に探究活動に取り組んでいることは、ご存知のとおりです。

大学を出た理由は色々とあるんですが、「自分のことばとからだで考える」という観点から言えば、大学や学問にもやはり常識というものがあって、僕はどうしてもそこに馴染めなかった。自分でものを考え続けていくために、大学や学問の常識からも距離を取る必要を感じた、ということがあります。

馴染めなかった理由は大別すると二つあり、一つは、大学で研究を続けていくためには、常に学問の樹の最先端をめざし続けないといけないのですが、これが僕には馴染みませんでした。

というのも、学問の樹の最先端というのはまず、非常に高いところにある。自分の人生という大地に足を付けたままでは届かないようなところにある。始めは自分の興味関心に基づいて研究テーマを定めようとしていても、まだ誰も解決していないテーマ、考えたことのないテーマ、そうした世界最先端のテーマに取り組まない限り、業績にはならない。じゃあと言って、最先端に手を伸ばそうとしているうちに、いつの間にやら、自分にとって最も切実だった興味関心からは、足が離れてしまっている。

なんとかそれを両立すべく背伸びし続ける選択肢もあったとは思うんですが、学問の世界では、最先端に手を伸ばすことには価値がおかれても、大地に足を残し続けることには価値がおかれませんから、そうした評価軸の中で学問を続けていると、知らない間に「自分でものを考える」姿勢に歪みが出てきそうだなと思っていました。

それに、学問の樹というのは、最先端に近づけば近づくほど、細かく枝分かれしていきます。その先の一端を自分の専門分野と見定めて研究していく必要があって、いちど最先端に辿りつけば、そこから遡るようにして自分の専門を広げていくこともできるのですが、だけど、自分の人生のときどきに巡りあう問題を考えるにあたっては、自分が専門家としてカバーできる範囲だけだと、どうしても思考の足場として狭すぎる。そう感じていました。

もちろん、自分の専門を掘り下げつつ、人生の問題を考えるために必要なことは別途学んでいけばよいのですが、大学というのは非常に厳しい競争社会なので、そうした道草をくっていると、ポスト争いのレースから取り残されてしまう。学部までは認知科学の研究をしていたけれど、修士課程では物理学の研究をして、博士課程からは科学哲学の研究を、みたいに分野を跨いでしまえば、もう、レースに参加することすら難しくなってくる。

結局、自分の人生という地べたに足をつけて、専門分野を超えてものを考えるということが、大学という制度の中にいたのでは中々エンカレッジされてこない。それどころか、研究者としての業績争いにとっては、余計な重荷にしかならない。大学は「人類がものを考える」ための手段を提供してくれて、そのことには感謝しているのですが、もっと「自分でものを考える」ことがエンカレッジされるような場所を作りたいと思っていました。

学問の樹の最先端を目指す競争から降りて、地に足をつけ、自分にとって大切なことを、自分のペースで考えたかった。既にほかの誰かが考えたことであっても、解決済みの問題であっても、自分の人生に即してものを考えたかった。車輪の再発明をしたり、できなかったり、必要なものは他から借りたりしながら、そうした中で、生涯に一度でも二度でもいいから、足下に埋もれていた宝を掘り出すようなことができれば、それで十分素晴らしいじゃないかって。

最先端の知識というのは、ものを考えるという行為のなかで、必要に応じてそれを求めたり、結果として得られたりするものであって、最初から最先端の知識を、あるいは論文の生産を目標とするのは止めよう。論文を書くことが学者の役割だという学問の常識からは降りてしまおう、と。

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もう一つ、僕が大学の学問を窮屈に感じていたのは、自分のからだを通じてものを考える余地が、そこにあまり残されていなかった、ということでした。

人文系の学問はまた違うかもしれませんが、理系の論文では、自分の体で感覚したこと、経験したこと、あるいは身体的な修行を積むことで初めて到達できる境地というものを書き込む余地が、わりあいに少ない。人間の感覚は、実験装置による計測に置き換える必要があるし、個人の経験は、それを無数に寄せ集めて統計的に取り扱う必要があるし、達人のみが感じられる世界というのは、例外として処理されなければならない。

理系の学問では、知識というものは、自分の体、人の体に染みついたバイアスから切り離されることで、初めて知識となる。その人個人の信念を越えた、万人に妥当する、普遍的な知識となってくる。他の研究者が論文に書いたことを、自分の手で直接に確かめなくとも、信頼することのできる知識となる。そうして、人類の共同作業として、学問の樹を大きく育て上げていくことができる。

そのような方法論によって編み込まれた知の体系というものを、僕は大切に思っています。たとえば量子論が描きだすような物質世界の描像は、人間の体から一旦離れてみなければ、どうしても辿り着けないものだったように思います。人間の感覚を手放すことによって、人間の常識を越えた世界に手を伸ばすことができる。そこに科学の価値がある。

だけど一方で、そのような知識への向き合い方だけでは、知るという行為は片手落ちになってしまう。

例えば、武術家やダンサーのように、体の世界に生きて、感覚を磨き続けている人たちと付き合っていると、知識というものは、自分の体で経験して、自分の感覚で確かめて、自分の固有の生に結びついて、それで初めて意味を持つものだという感じを覚えます。

機械計測の精密とは異なる、鍛え上げられた感覚の精緻さが、そこにはある。ものごとを上手に切りとって、細部を確かめることで得られる言葉の正確さとはまた別の、対象のまるごとを相手取って、全身全霊でそこにぶつかっている人だけがもつ言葉の確かさがある。あるいは、統計的な数の正しさを離れた、その人固有の生に根ざした適切さがある。

科学は、人間の感覚を超越した結論を導き出せるところに価値がありますが、だからこそ、そのような知に重心を傾けすぎると、そのこと自体が「自分の感覚を信じるな」という無言のメッセージになってしまう。むろん、自分のあるがままの感覚を盲信するのも良くないわけですが、だからといって、自分の感覚を手放してしまえば、それは本末転倒です。

一体、自分の体の感覚を手放さずに、それでいて、世間の常識、自分の常識、人間の常識に縛られずに思考することは、可能なのだろうか。「自分のことばとからだで思考する」ことは、どのようにして可能なのだろうか。それはいまだ僕の中でも答えの出ていない問いではありますが、次回の授業では、この問いに関連して、松葉舎で学んできたこと、みなさんと一緒に試行錯誤してきたことについて、振り返りたいと思います。

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この記事では大学批判のような形で文章を終えてしまいましたが、ぼくの本意はどちらかというと、大学のなかで学問をするうちにいつの間にか人生から遊離してしまっていた自分自身の学問に対する批判にあります。そのことについては次の記事に書き記しましたので、よければ合わせて御覧ください。


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