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7月16日(日) | 江本伸悟×森田真生「自分のことばとからだで考える」

《オンライントークイベント》

江本伸悟×森田真生
「自分のことばとからだで考える」

【出演】
江本伸悟×森田真生

【日時】
7/16(日)
14:00-16:30(開場 13:45 予定)
*途中10分程度の休憩を挟みます。
対談終了後には質問を受け付け、可能な限りお二人にお答えいただきます。

【参加費】
4400円(税込)
(申し込み方法はページ下部に記載)

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 7月16日(日)鹿谷庵に私塾「松葉舎(しょうようしゃ)」を主宰する江本伸悟さんをゲストにお迎えして対話をします。2017年以来、これまでにない新たな私塾の試みに挑戦し続ける江本さんのお話をうかがいながら、「自分のことば」と「自分のからだ」で考えるということ、そのための場所をつくることについて、考えていきたいと思います。

 江本さんの私塾「松葉舎」の名前は、寺田寅彦が随筆「線香花火」のなかで、線香花火の火花を「松葉」にたとえていることに由来するそうです(その経緯については江本さんのこちらの講演録「線香花火と松葉舎」をご覧ください)。寺田寅彦は、線香花火の火花の放出という、それまでどの物理学者も研究しようとしてこなかった日常の身近な物理現象に注目し、ここに「足元に埋もれている宝」を見出しました。

 西洋の物理学者の間にわれわれの線香花火というものが普通に知られていたら、おそらくとうの昔にだれか一人や二人はこれを研究したものがあったろうと想像される。そしてその結果がもし何かおもしろいものを生み出していたら、わが国でも今ごろ線香花火に関する学位論文の一つや二つはできたであろう。(……)しかしできる事なら線香花火はやはり日本人の手で研究したいものだと思う。
 西洋の学者の掘り散らした跡へはるばる遅ればせに鉱石の欠けらを捜しに行くもいいが、われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。

——寺田寅彦「線香花火」

 日常を足場に、自分の身体でたしかめた言葉で学問を展開していくこと。「足元に埋もれている宝」を掘り起こし、そこから思考を始めていくこと。これはとても難しいことですが、江本さんは寺田寅彦や河井寛次郎など、自分のことばとからだで考え続けようとした先人の歩みに学びながら、何を着るか、どのように住うか、誰とともに考えていくのか、といった根本的なところから、自分の思考のためのことばを探り続けています。

 借り物のことばではなく、「自分のことば」で考えるということ。それはどのようにして可能なのか、どのようにして始まるのか。江本さんが開く「松葉舎」はまるで、「思考の始まり」をさがす実験のような場所だと、彼の活動を近くで見させてもらいながら、僕はいつも感じていました。 
 そんな彼の言葉や思考の一端に、ぜひ多くの人に触れてもらいたいと思います。

 思考のための「自分のことば」を探すという困難に向き合うすべての人に。ご縁がありましたら、ぜひご参加ください。

2023年6月29日 森田真生

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開催に寄せて(江本伸悟)2023.7.15

 
僕は大学で研究をしていたころ、街の方々に向けて時々、「生命とは何か」ということを講演していました。ある講演会の後、それに参加してくれていたお婆さんから、こんな質問をいただきました。「最近、夫を亡くしたんです。この悲しみにどう向き合えばいいと思いますか」と。

 僕は正直、面食らってしまいました。その話と、今日の「生命とは何か」という学問的な話とは、関係が無いじゃないか、と。そう思いつつも、何しろそれは深刻な悩みでしたから、それにどう答えればいいのか、その時の僕には分かりませんでしたが、それでもお婆さんの気持ちに寄り添うように、言葉になりきらない言葉を、途切れ途切れ、なんとか搾りだそうとしていました。

 次第にお婆さんの表情は和らぎ、僕も一安心したのでしたが、当時の僕は、お婆さんの質問が僕の学問に突きつけていたものの重さに、気付いていませんでした。

 あとになってよくよく考えてみれば、というよりも、本来であれば考えてみるまでもなく、「生命とは何か」という問題と、「お爺さんの死にどう向き合うか」という問題が、無関係であるはずはないのです。生の問題と、死の問題が、離れてあるはずはない。にも関わらず、その頃の僕には、それが無関係に見えていた。それは、当時の僕の学問が、自分の人生から遊離してしまっていた証拠だと思います。

 僕がそのように自分を省みる一つのきっかけとなったのは、ダンサー・田中泯さんの「生命という言葉は、いまどの位純粋だろうか?」(『僕はずっと裸だった』)という問いに触れたことだったように思います。それに続けて田中泯さんは、「言葉に容易く共感してしまうとき、からだのどこかにかすかに生まれる気恥ずかしさ」があるということを述べているのですが、当時の僕の体からは、生命という言葉を簡単に口にしてしまったとき、からだのどこかに生まれるはずの気恥ずかしさを感じとるだけの感覚が、抜け落ちてしまっていました。

 ある意味では、田中泯さんの反語的な問いかけとは逆に、当時の僕にとっての「生命」という言葉は、「純粋」になりすぎていたのだと思います。学問の文脈の中で「生命」という言葉を使うことに慣れすぎて、生命というものが人生の中で本来持っている重み、悲しみ、おぞましさ、汚さ、泥くささ、そうしたものを全て、きれいに忘れさってしまっていた。

 そうしたことがあって、今でも「生命」という言葉を使おうとすると、筆の動きが鈍り、口がぎこちなくなることがあります。いざ「生命」という言葉を用いた後も、ああ、この言葉を使って本当によかったのか? という気分に襲われる。括弧の中に包まなければ、この言葉を使えない感じがある。いまだ「生命」という言葉は、自分のことばにはなっていません。

 あのときお婆さんが僕に投げかけてくれた質問が、僕の学問と言葉にとっての重しとなっているのですが、しかしそれは、僕が自分の人生に足をつけて言葉を紡いでいくための、重要な重しだったように思います。

 「生命」「心」「身体」——こうした言葉を、自分のことばとして語れるだけのからだを養い、暮らしを形づくっていくこと。それが、僕が「学問」するために、今、試みていることだと思います。
 
 「自分のことばとからだで考える」ことは、果たして可能だろうか? 明日、森田くんと話せることを、楽しみにしています。

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【お申し込み方法】
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