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自己紹介③高校時代

こんにちは。田島です。

僕は何かに打ち込んだ、という経験はあまりないのですが
振り返るとやはり高校時代はちょっと特別だったかなと思っています。

自分のやりたいことと、自分の得意なこと、が
一番合致していた時期だったように感じます。

僕にとってはそれが放送部での活動でした。

努力はしたことがない

中学の先生の薦めもあり、高校に入学してから放送部に入りました。
その当時部員は総勢で20名弱くらいだったでしょうか。

誰が聞いているかわからない昼の放送を始め、校内行事のマイク準備、
マラソン大会でアナウンスをしたこともありました。

僕はそれまで子どもの頃から「音読」することは得意だったものの、
発声や滑舌の練習経験はなく、初めて「声」と向き合うことになりました。

誰もがそうだと思いますが、
録音した自分の声は不自然で嫌な感じに聞こえ、
なかなかいいイメージを膨らませることが難しかったことを覚えています。

放送部の大会はその当時、全国大会に繋がるものが2つありました。
ひとつは、NHKが主催する最も権威のある「NHK杯高校放送コンテスト」。
つぎに、各都道府県が持ち回りで開催地となる「全国総合文化祭」でした。

またそれぞれに競技部門があり、
僕は指定図書から任意の部分を制限時間内で読み上げる、
「朗読」部門を専攻していました。

練習は基本的には発声練習のほかに
原稿をストップウォッチで計測しながら声に出して読む、というもので
それを部員同士で聞き合ってアクセントや滑舌のチェックをしていました。

大会前には模擬大会を部内で開催し、録音し、
それを自分で聞きながら読み方をチェックしていました。

結果として3年間で僕は2つの全国大会に出場し、
一方は最優秀賞、一方は全国10位以内まで入ることができました。
出場者は地域大会含めると4,000人近くいたと記憶しています。

当時は毎日授業が終わってから19時過ぎまで学校で練習していたけど、
誰かに強要されたり、無理強いをされなかったせいか、
時間の割には「つらかったな、努力したな」とは思わなかったんですよね。

そこには「なんでやらなきゃいけないんだ」という考えがなかったし、
自分がやりたいからやっている、他人と勝負するためにやっている、
という風に勝ち気だったのもありますが、やけにポジティブでした。

でも努力ってもしかしたら、
つらいと思わずにやれたら最高なんじゃないかと思います。

放送は採点競技なので結局は審査員各人の主観的な部分も多くあり、
それは悩ましいのですが、ある意味で割り切れる部分もあったし、
それであれば圧倒的に誰もが認める実力を示す必要があったんですね。

それには練習するしかなかったし、原稿を読み続けなければいけなかった。

地方の子の方が方言や訛りを直そうとがんばるから、
アドバンテージがあるはずの関東圏の子は発音が疎かになって
大会であまり上位に入れないという空気もありました。
不思議と練習したくない、とは思わなかったんですね。

ただ他校と合同の練習会等には否定的でした。
「田島君にとって朗読とはなに」とか講師などから聞かれると
皆が「思いを伝えるものです」とかぬるいことを言ってるのが嫌で
「部活ですね」と言ってしまう生意気なやつだったことも覚えています。

練習はする、時間も費やす、自分とも向き合う、他人とも競い合う。

だけどそれは僕の全てではない。
高校時代のある一部分を切り取っただけのものとも思っていました。

確かに全国大会は目指すべきものだったし出場もしたけれど、
それが全てではなかったし、いろいろなものへ可能性を探るという意味で、
何かを突き詰めた経験、を得る手段として放送があったのかなと思います。

不死鳥のようにはいかなかった

放送部の活動は大会前になると非常にタイトに行っていましたが
冬場中心にオフのようなタイミングもありました。

僕は中学時代と高校の友人を集めて
FC PHOENIXという安直なチーム名のフットサルチームを立ち上げました。

結局高校3年間くらいはのんびりと続けたと思うけど、
市内のスポーツセンターの体育館を借りて社会人サークルならぬ
高校生サークルをしていたんですね。なかなか先進的だった。

ただ外部の大会に出るといったようなことはなく、
経験者は本当に気のいい子だけ呼んで、サッカー経験ないけど好きな子、
という括りでメンバーを集めたんですね。

これ、この前ツイッターで少し言われてたんすけど
学校の体育が嫌いだったが大人になって仲間と一緒に運動すると楽しい、
という精神経験を高校のうちに味わおうと思ってたんですね。

誰に見せるでも誰と競うでもなく、上手くても下手でも関係ない、
でもみんなボールを蹴るのが好きだ、というのが理想だったんですね。

だから技術を教えてくれるのは本当に気の合うヨシオやハラくん、タカシに頼んで、みんなが嫌な思いをしないようにと思っていました。

3年弱が経過してチームを辞めようと思ったのは、
徐々にメンバーを集める中で友達の友達、とかになってくると
精神面で合わない子が集まりはじめたからなんですね。

楽しくやってたのになんでこいつらがでかい顔してんだ、
と、当時は当然言わなかったけど今ならもういいかな。

楽しくやっていたみんなには申し訳なかったけど、
言い出しっぺとしてはなかなかその精神面が揃わないのが嫌でした。

無理して続けることで何かメリットがあるのかと考えた時に
なかなか意義が見い出せない部分があったんですね。

嫌ならやめちゃう、という経験は今でも正解だったと思っています。

僕は昔から、なんか嫌だな、ということを続けることや接することに
極端に嫌悪感を持っていたように思います。

進路

大学生という立場にはなりたかったものの
試験は嫌だなと思っていた残念な僕は推薦入試で入れる大学を探しました。

僕はその頃、放送の活動は運に任せようと思っていました。
就職にダイレクトにつながる大学という場で
アナウンサー然としたものを目指すか、それともすっぱりやめるか。

今思えばそんな意識の低い人間がアナウンサーになれるはずがありません。

僕は「努力すれば夢は叶う」という言説はあまり好きではなくて、
「努力しなければ夢は叶わない」と思っています。

この頃同時に好きだったのが社会科の地理の授業でした。
子どもの頃から地図や遠くのどこかに思いを巡らせるのが好きで、
地名や海や川や山脈、半島の名前なんかを覚えるのが好きだったんですね。各都道府県の県庁所在地とか、アメリカ全州覚えるとか好きなんですよ。

部活のために進んだ高校だったので僕ですら優等生になれる学校で、
特に地理の授業はテストで毎度トップを取れていたんですね。

日本だけでなく世界のことを知りたいな、外国ってなんか魅力あるな、
外国人の友達出来たら素敵かな、なんて思い始めていた時期でもあります。

取るに足らないことですけど、子どもの頃やってた「FIFA99」が
欧州を舞台にしたサッカーゲームとか、バックストリートボーイズを
飽きるまで聴いていたとか、そういうとこから来てるんですよね。
自分が好きで経験してきたことが未来に繋がることを実感していました。

最終的に狙いをつけたのは2校でした。
市ヶ谷のオレンジ色の大学か、学部キャンパスが静岡の三島にある日大。
どちらも国際系の学部でやりたいことにぴったりでした。

市ヶ谷大学はメディア系のゼミも有名だったらしく、
こちらに進めば放送を続けるつもりでした。
また、東京というブランドで選ぶという打算的な部分もありました。

対して日大はのんびりしたところが好きだった僕にはうってつけの大学で、地元の横浜やよく行く東京とは違う場所、という意味で魅力でした。
都会的な大学生のノリみたいのも怖かったというのもありますが。

その時高校では基本的に推薦状は1通しか出せないというルールがあり、
それを担任だった武田先生に正直に相談したんですね。
武田先生は英語の先生で、あまり生徒と馴れ合うことはなかったものの、
笑顔の印象的なニヒルな感じの先生でした。

武田先生は僕が部活で実績があることに加えて、
成績も相対的に良かったのもよく知ってくれていたんですね。
特に市ヶ谷大学は「特別入試」といって高校時代に一芸に秀でた実績のある学生を取る、という入試だったんです。

先生は学校に掛け合ってくれ、僕は両校の入試を受けることができました。
結果としてこれが非常に大きく、ひとつは合格、ひとつは不合格と非常に
シンプルな結果が出たので、僕は大学生活を三島で送ることになりました。

市ヶ谷大学の方は結果発表を見に行ったら
僕の前後の番号は書いてあったんですよね。それはすごく覚えています。

もちろん残念な気持ちはありましたが、
知らない土地へ行けるというのは、大きな魅力があったように思います。

その他の用語集

・ジョー
同じクラスだったシシドくんの愛称。
一緒にフットサルをやってくれて、PCのタイピングがものすごく速い。

・GATSBY ヘアブリーチ
ブリーチした茶髪や金髪が全盛だった時代で、黒髪の子が少なかった。
本当に、時代だったんだなと思う。

・24番
初めて出場した放送部の大会での出場順。
弟が少年サッカーでつけていた番号だったので
何となく縁起がいいなと思ったら県で最優秀賞が取れた。

・リプトン レモンティー/ミルクティー
学校の購買で売っていた500mlの紅茶飲料。
パックを机に置いていたヤンキー生徒がよく授業中にこぼしていた。

・ソニーエリクソン
初めて買った携帯電話のメーカー。
高3で初めて持ったけど、特別連絡する相手はいなかった。
以降ガラケー時代はソニエリ一択。ノキアにも憧れました。

・ヴィックス メディケイテッドドロップ
大正製薬、ヴィックスブランドののど飴。
先輩のマネで使い始めて今でも冬場はよく買っている。

・ハリーポッター
当時巻くと腰くらいまであるボーダー柄のマフラーを巻いていて、
大して仲良くもないギャルに「ハリーポッターかよ」と言われた。

・ブラックジンジャー
キリンの炭酸飲料。
ビール風の缶デザインで刺激のある味が印象的でよく飲んでいた。

・神奈川県立座間高校
2年の秋に行われた放送部県大会の会場。
2つの大会の表彰が同時に行われ、どちらも最優秀賞を獲れた。天狗。

・ヤマちゃん
頭の回転が速く、勉強も笑いも冴えていた中高の友人。
ウチの実家にバイクを停めてバスで通っていた時期があった。
「結婚式はたじさんの司会でよろしく」と言われたけど結婚したのかな。

・フランス語
レベルの低い高校ながら自由選択で選べた授業。
後に大学でスペイン語を選ぶことになったけどちょっと土台になった。

・リップ
音声録音の場面で、しゃべっていて唇が当たった時に音が出るトラブル。
収録では本当によく発生するので、制作が進まないことがよくあった。

・冷やしラーメン
当時夏場にセブンイレブンで売られはじめたチルドの冷たいラーメン。
土日に部活があるときはよく買っていた気がする。

青柳先生
高校の地理の先生。
僕に毎度学年トップの成績をくれ、地理好きを加速させてくれた。

・ユウコ先輩
とにかく美人でかわいかった一つ上の部活の先輩。
茶髪とルーズソックスがとても似合っていて、みんなの憧れだった。
確か短大を卒業して保育園の先生になったはず。

・ユニクロのカーディガン
当時ラルフローレンのカーディガンが流行っていたが
当然買えなかったので近くのユニクロで毎年カーディガンを買っていた。

・ユウタ(2回目)
小中の友人で、高校では地方に野球留学。
高3時に僕が放送部の全国大会に出場するため新幹線で移動中に、
ちょうど彼が甲子園で投げているラジオ中継を聞いた思い出がある。

・スタンバる
バス通学をしていたがバスが混み合うので
降りるひとつ前のバス停を出る時に、出入り口付近に移動すること。

・さとくん(2回目)
小学校からの友人で、中学では同じテニス部、高校でも同じ放送部。
多感な時期で彼の方が成熟していたのでよく恋愛の悩みを聞いた。

・戸塚スポーツセンター
横浜市戸塚区のスポーツセンター。
フットサル活動の主な拠点で、体育館特有の夏の暑さが印象的。

・NHKホール
高3で出場した放送部全国大会の決勝会場。
全国から集まった出場者300人の中から2日間かけて予選を行い、
最終の10人に残るとホールのステージで朗読の発表が出来る。
約3,000人のキャパがあり、僕も発表しました。人生で唯一の自慢。

・What I Go To School For
当時流行っていたUKのポップバンドBustedのデビュー曲。
最寄だったローソンの店内で流れていて知り、CDを買いに行った。

・ラン
体育の授業で週1行われていた校舎を周回する長距離走。
苦手すぎていつも時間超過し、学期末に「追走」の罰則があった。

・シュウマ先輩
部活の一つ上の先輩。
同じ朗読部門で既に活躍していて、常にお手本としていた。
現在はフリーの声優、ナレーターとして活動している。

・魔裟斗
K-1 WORLD MAX世界王者の格闘家、反逆のカリスマ。
当時とても好きでよく試合を観ていて、応援していた。

・タジ魔裟斗
前述の魔裟斗に憧れていたため、部活の大会に出る際に
普段茶髪だった髪を黒いスプレーで隠していたものの反逆したくなり
襟足だけスプレーせず悪目立ちしていたときの愛称。

・サヤカちゃん
バレー部に所属していた背の高い女の子。顔は平山あや似。
僕の事をやや気にかけてくれたような素振りがあり、
修学旅行で沖縄に行った際、夜、友達伝いに呼び出されたが
ヤマやさとくんと話しているのに夢中で行かなかった記憶あり。

・ワンダーフォーゲル部
中高の同じだったムトウくんが所属していた新設の部活。
ある日ムトウくんが部室へ行くと、自分たちの荷物が無くなり
ダンス部の部室になっていたという逸話がある。

・前田亜季さん
女優。
市ヶ谷の大学の特別入試の控室で一緒だった。

・福井県敦賀市
高3で出場した全国総合文化祭の放送部門の会場。
今でもなんとなく記憶があり、気比の松原あたりの海岸で
他校のみんなと花火をした。

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