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自己紹介④大学時代

こんばんは。田島です。

自己紹介を書いていると段々と今に近づくわけで、書いている最中の頭の使い方が「記憶との勝負」から「気持ちの整理の仕方」に変化してきました。

記憶を遡らなくて済む代わりに、気持ちが大きく変化していない現在進行形のことを書こうとするので、どうしても整理しきれなかったりします。ちなみにこの大学時代編は5月の末から少しずつ書いていて全然まとめられませんでした。

スマホで読みやすいよう、今回から改行の仕方を変えました。

バルセロナへの道のり

僕の大学のキャンパスは、富士山が間近に見える静岡の三島という街にあります。水がきれいな川があって、のんびりしていて、都心の大学とはまるで環境が違います。もともとゆったりした場所が好きだったので、自分に合った大学に入れたなと思いました。

さて、僕は世界のことを知りたいけども英語が著しく苦手という重大なウィークポイントがありました。どれくらい苦手かというと、定冠詞と不定冠詞の付け方が今もよく分からないレベルです。

できれば、英語をやりたくなかったんです。

とはいえ英語のない世界は考えられないし、ましてや海外の現在を勉強するにあたって、4年間避け続けるのは不可能です。そこで目を付けたのが、スペイン語でした。

全員がゼロからのスタートで、アルファベットを使っていて、中南米でも使われていて地域による言語の変化が小さい、というのが魅力でした。スペイン料理は美味しいらしいし、サッカーも好きだし、ちょっとかじるのにはいいかもなと感じていました。ただ、僕はまだ入学時点では嫌々英語をやろうと思っていたので第2外国語のスペイン語のオリエンに出席したんです。

すると、担当の准教授が「第1外国語でもスペイン語が取れるのですが、まだ空きがあります。興味のある方がいれば第1外国語に移りませんか?」と言うんです。あ、これ選ぶべきだなと思ったんです。結果的に僕は形だけで言うと、大学4年間をスペイン語専攻だったことになります。

スペイン語はローマ字読みができる、発音の比較的簡単な言語です。車は「coche(コチェ)」、本は「libro(リブロ)」、水は「agua(アグア)」。有名なところだとニンニクは「ajo(アホ)」、牛は「vaca(ヴァカ)」とかでしょうか。

他にも意外と日本にすんなり入ってきている音としては頂上という意味の「cima(シーマ)」、firstという意味の「primera(プリメーラ)」など
車の名前に使われることも多かったようですね。

動詞が規則/不規則変化することなんかも非常に「わかりやすく」、ドイツ語クラスの子と「英語はどれが動詞かわからないよね」と結託し、システマチックな印象のスペイン語は勉強しやすかった記憶があります。

僕はスペイン語やラテンアメリカのゼミやサークルには入らなかったので教授や講師たちと緩く関われていたのも、非常に快適でした。(学祭の模擬店が大変そうだったので入らなかった)

それから4年近くが経ち、僕は3人の友人達と卒業旅行でバルセロナを訪れました。もちろんバルセロナは首都マドリードなどとは違いカタルーニャ独自の文化や言葉があり、映画「スパニッシュアパートメント」にもありましたがカタルーニャ語がわからなくて困る、なんてこともあるのかなと思っていましたが、そこは世界有数の観光都市なのでスペイン語しかり英語で十分です。

道中では使い捨てカメラを警察に没収され一時へこんでいましたが、それ以外トラブルもなく、友人達とガウディの建築を見たりバルサの試合観戦、買い物、夜の街をひとりで出歩いてみたりなど1週間弱滞在して、学生時代の最後の思い出作りが出来ました。

スペイン語使ってみたくなりホテルの人に話しかけたり、無駄にスペイン語で買い物しようとして、英語でいいよ、と言われたり。駅を出て地図を見ているとルンペンのおじさんが道を教えてくれたり。

社会人になってからも感じる出来事があったのですが、外国で「コミュニケーションを取りたい」と思う力、その推進力というのはもしかしたら言葉のスキル以上に重要なことかもしれないなと感じました。

言葉が通じないことで一歩が踏み出せない、のは当然ではあるのですが、外国で一人で何とかしないといけない、自分が試されている、という感覚は僕にとっては痛烈に感じるものがあったんですね。本当はその感覚を持って大学で勉強できればより良かったと感じる部分もあります。

僕はそれから7年後、妻と2度目のバルセロナに行きました。本当に刺激的な街で、人々はカジュアルで、通りが賑やかでした。何度でも訪れたいと思わせてくれる街で、独特な魅力があります。次に海外旅行に行けるとしたら、やっぱりバルセロナに行きたいと思っています。

選べる関係

大学に入学した当初、地元の友人と話したことを覚えています。

「大学って、もっと一人でいる人が多いと思ってた」

これは僕も同感で、やたらとグループが多く学内や特に学食で一人でいるとなんとなく浮いているように感じたんです。こと僕の大学は付属高校があったため、高校からの持ち上がりで入学した同級生達も多くいました。

大学生にもなれば各々が自分の考えを持っていて人と「つるまなく」なると思っていたのでこれはカルチャーショックでした。社会に出てからも何かにつけてみんなで、と言われると子どもっぽいというか自主性がないというか、そんな気がしていました。

僕の大学生活で出来た友人は決して多くはありません。もちろん今も不定期で会って酒を飲んだり、LINEで話をしたりSNSでコメントしあう友人もいますが、卒業以来10年以上連絡を取っていない友人がほとんどだと思います。

これは前述のスペイン語とは直接は関係ないのですが、学生時代を振り返って同窓会をするとしたら、と問われたら第1外国語のスペイン語のメンバーなんですよね。自分でも不思議なんですけど。

大学って小学校や中学校のように地域の同い年の子がガシャっと集まって、というわけでなく、経済レベル、知的レベル、興味関心の対象が比較的近しい子が集まってるわけで、とても近い空気感で話ができたんじゃないかと思うんです。

当時はほとんど話したこともない子もいるような、クラスといってもただの集まりではあったのですが、もっと仲良くというか、同じレベルで話が出来たんじゃないかと思わせるものがあります。みんな元気にしてるのかな。

つるみたいとは思わなかったけど、人間的に合う合わないで仲良くできたりしなかったりを選べるようになったのは、大学の頃だったと思います。実際仲の良い友人とは今もなお互いの結婚や子育てなど、ライフステージのポイントで連絡を取り合ったり、実際に会ったりしていますからね。

その頃の友人たちとの付き合い方の中で、自分の立ち位置とか今に繋がる人間関係の作り方とか、そういうのを学んでいたように思います。

必修の眠い授業とか、誰それと学食で過ごしたとか、放課後居酒屋に行ったとか、なんでもない日常のことをふと思い出したりするんですよね、大学時代って。

経験したことで道を拓く

僕は前述の通り静岡の大学に「通って」いたため、いわゆる学生がやるようなレギュラーのアルバイトはできませんでした。特段、働きたいとも思っていませんでしたけどね。

この通学話は、東京に通うよりも静岡に通うことの方が耳に残る印象が強いようで、就活ではこのネタは鉄板でした。といっても、トータル2時間程度なので横浜から都内に通うのと遜色ないと思うのですが。

僕が大学3年の時です。年に数回あるショッピングセンターの抽選会専門のバイトをすることになりました。都合がつけやすく、比較的時給が良かったので選んだのですが、これが、前職につながるきっかけになりました。

今はPCやアプリで行うことが多くなった抽選会ですが、当時はガラガラやガラポンと呼ばれる、回すと色付きの玉が出てくるアナログな手法で行っていました。確か玉は1台あたり2,000球か3,000球くらい入っていて、それを数台用意して1日中お客さんに回してもらうんですね。

夏、秋、クリスマスとそれぞれ施設の書き入れ時に合わせて行われた抽選会では、アルバイトとして学生を始め主婦やフリーターなど、いろんな背景を持つメンバーが集まっていました。特に主婦の皆さんは当時30歳そこそこだたと思うのですが、楽しい人が多かった気がします。

大学ではいまいち交友関係が広いとは言えなかった僕ですが、そこでいろんな人と話すことで段々といろんな人がいるな、こういう考え方もあるんだな、と知っていく勉強のような時間だった気もします。また、同じバイトメンバーだけでなく抽選会に来るお客さんとのやり取りも次第に慣れていき、僕は人と接する仕事がなんとなく苦手ではないのではないか、と思うようにもなりました。

特に文句をつけてくる客を流すのが、得意だったんですね。ガラポンはあれだけ当選確率が低いので何回回しても末等のポケットティッシュということはよくあるんです。「当たり入ってるの?」とは毎日聞かれていましたが、その言葉を真正面から受けると疲れちゃうんです。なので、斜めに受けて流しちゃう。そうっすねー、僕が今日当たり入れたんで、絶対入ってるんですけど!いや本当に!なんて。

思えば今までの人生で人の言葉(説教や雑言)をまともに受けたことない気がしますね。僕、だいたいそういうときは聞いてる演技をしているだけです。今まで僕に説教をしてくれた方、ごめんなさい。なにも響いてません。

さて、僕は折しも就職活動で「男ならメーカーだろ」と凝り固まって選考に落ち続けていました。文具メーカー、お菓子メーカー、食品メーカー、たくさんエントリーシート書いて面接を受け、お祈りメールをしこたまもらって。そんな時、バイト先の取りまとめをしていたシブヤさんが「ショッピングセンターの運営なんてどう?」と言ってくれたのが方針転換のきっかけでした。

僕は抽選会のバイトを通して施設の中の人、の動きを見ていたため面接でも的を得たことが言えるようになっていたんですね。またその当時はショッピングセンターに対する憧れ(人が集まって楽しい場所だ、という)があったためうまく自分のやってきたことと合致していたこともあり、就活がしやすくなりました。それまでのメーカー希望は自分のその素養がまるでなかったんですね。

方針転換が遅かったため、僕は4年の夏前に前職の会社から内定をもらい、無事に大学の卒業と就職内定を得ることが出来ました。

うつ病

僕が初めて自分の精神状態の不安定さに気付いたのは、ちょうど就職活動シーズンに入った大学3年の冬だったように思います。

ある週末になんだか頭がもやっとしてはじめて、頭の中に薄いモヤがかかったような、刺激を感じないというか、感情が鈍くなるような、そんな感覚がしたんです。学校に行ってもいつもより話が入ってこない、他人の話が聞けない、言葉では言い表すことが出来ない感覚がまとわりついていました。

体調が悪いのかなとも思ったんですが、1週間経てども2週間経てどもモヤが抜けない。その間どんどん全てにおいてやる気のようなものが失われ、身体的に動くことも精神的に動くこともかなり億劫になっていきました。

さすがにこれはおかしいなと思い心療内科を探すと、どのクリニックも2,3週間後しか空いてない。もう10年ほど前の話ですがその当時も今も、メンタル系のクリニックは本当にすぐ診察を受けられるという環境がありませんでした。それほどみんなが診てもらいたいということなのですが。

待望の診察を受けた僕に先生は「少し、うつの症状が出ています」と話しました。だろうな、これはそうだろう、と思う冷静な自分もおり、実はそこで診断がついたことで随分と気持ちが軽くなったことも覚えています。今の流行病じゃないけど、自分の体に出ている症状が何なのかわからないという不安は結構大きなものですよね。

実際に出てくる症状としては確かに軽いものでした。倦怠感や無力感、著しく元気がないといったもので、夕方になるとテンションが上がってくること、お酒は楽しいこと、仲の良い友達とは普通に過ごしていたりしました。

ただ、ふとしたときに電車に乗れないとか、人の話がまるで頭に入らないといったことはあり、死にたいとは思わないけど生きていてもあまり意味がない、とは思っていたんです。

このことは家族はもちろん近しい友人には話していて、隠したいという気持ちよりはちゃんと理由があるからよろしくね、くらいの気持ちでいました。僕の場合は隠すことで精神的な負担になりそうだと判断したんですね。

でも原因はなんだろう?しかも学生という自由で抑圧されてない立場で、友達とも仲良く、バイトも順調で、その頃何か変化したこと。

就活だと、僕は踏んでいます。

僕は今もなお仕事が大嫌いで、出来ることなら毎日のんびりして過ごしたいと割と真剣に思っています。やりがいとか、より高い報酬とか、チームワークとかそういうものを仕事に求めたことはありません。生活のためと割り切れる胆力があればそれも良かったのですが、持ち合わせていない。

学生でまだ社会に出る前からそんなことを思っていて、そこにきて就職活動をしなければならないという状況が受け入れられなかったんだと思います。まあ、人目にはそうは見えなかったかもしれませんが、それほど大学生活に満足していたんでしょう。

この「やりたくないことを、絶対にやらなければならない状態にある」というのが僕の場合発端になるようで、この春転職した大きな要因は、このうつ症状(適応障害)によるものでした。

大学時代から今に至るまで、そしてこれからもあらゆるタイミングでこの病気とは向き合わなければならないと思っています。誰もがなり得る病気であること、うつに打ち勝とうという考え方でなく、そういうこともあるよね、焦らなくて大丈夫、という考えを自分にも他の誰かに対しても、持っていたいと思っています。

その他の用語集

・4号館
選択授業や語学の授業を受けていた教室のある趣のある校舎。田舎の大学っぽくて好きだったけど、卒業後に整地されて駐輪場になった。

・ユウジ
ニュージャージーの現地校に通っていたこともあるマジもんの帰国子女。と同時に圧倒的に勉強や仕事が出来ずに社会から何度も落ちこぼれそうになっている友人。大学時代は毎日一緒に通学。社会人になってからも多くの場面で救われた。タバコがやめられない。お父さんから勘当。元紳士服販売員、派遣労働者、独身。

・ルーちゃん
茨城の付属校から来たポルノグラフィティ好きの友人。選択の授業が一緒で仲良くなり、時間割で空きの時間があるとよく部屋に行かせてもらっていた。長泉のコートで一緒にフットサルもよくした仲。卒業後はアパレル勤務の後転職。数年前に結婚したらしい。

・ゼミ
インドネシアの研究をしていた教授のゼミ。夏は教授の自宅でBBQをよくしていたが、卒業後に集まった際、教授宅のテントを燃やすという大アクシデントが発生したことも。今までの誰かの結婚式には基本全員出席で、子どもが生まれるとグループLINEで大報告会をする。みんな今は国内各地と海外でバラバラに暮らしているので集まるのが難しい。

・卒論
前述のゼミで書いた卒論。テーマは「外国人児童の教育問題」という奇妙なほどアカデミックな内容。外国人の親御さんだと子どもたちが母国語と日本語がどちらも不完全になってしまう「ダブルリミテッド」について研究した。今の仕事につながっているのかもしれない。

・オオヌマくん
ジェンダーの授業以来仲良くなった友人。植林や日本語講師のボランティアなど東南アジアで活動する国際派。学生時代は森山直太朗や大久保嘉人に似ていたが現在はタイの映画スターのような顔つきになっている。ケンタッキーフライドチキンでアルバイトの経験があり、クリスマスになると激増する客にキレ散らかしていた。僕の娘が生まれたときにはおむつケーキを贈ってくれる常識人。

・ニュートン
三島の駅前にあったカフェバー。学生もよく集まっていて学内でバイトをしてる子もいた。ピラフのプレートやコロナビールをよく頼んでいた気がする。思い出の店だったが卒業後チェーン居酒屋になっていた。悲しい。(2011年閉店)

・ビッグエコー平塚店
前述のユウジと時間があるとよく寄っていたカラオケ店。当時よく歌っていたのはチャゲアス、WANDS、イエモン。

・卒業アルバム
4年間一度も見せたことのない僕の顔が見れる個人写真ページがある。当時は自分の髪でちょんまげを結いたいと思い髪を伸ばしていた(挫折した)

・ワカナさん
性別を超えた稀有な友人。授業が一緒だったこともあるが、大学生活のほとんどの時間は彼女交えた数人のグループでいつもいた気がする。卒業後も転職や結婚、出産のタイミングでよく話をしていてフィーリングが合うというのはこういうことなんだろうなと思う。二児の母。

・クボタくん
前述ユウジが繋いでくれた友人。実家がイチゴ農家で車が好き。近年稀に見る常識人でとにかく若人にありがちなエラーが全くない。Vodafoneのアドレスを長年使っている。一昨年結婚式にお呼ばれした。

・フロイド
三島にあった静岡生まれの雑貨とカフェレストランの店。卒業後にオープンしたようで何度か行ったことがある。一時は東京駅KITTEにも雑貨店が出店していたが現在はネットショップだけのはず。

・ラストサムライ
大学1年でまだ友達がいなかった頃、授業の空き時間に図書館でDVDを観た。内容は覚えていない。

・お天道様が見ている
前述オオヌマくんが提唱していた行動指針。多感な年頃であると同時に大学生らしいロマンスが全く無く皆でやさぐれていた頃に、それでも清く生きようと歯を食いしばっていた。

・広東麺
学食のメニュー。昼休みが終わった後の3限の時間にみんなでのんびり食べるのが好きだった。卒業後、証明書を取りに行った際食べようと思ったら売り切れていて泣いた。

・根府川駅
通学経路だった東海道線の駅。海がとてもきれいに見えて夏場は観光客が車窓から景色を眺めていた。駅自体は関東大震災でホームが崖下の相模湾に沈んだという恐ろしい歴史がある。

・ファミチキ
熱海駅でJR東日本と東海がスイッチしており多くの電車は熱海止まりだった。下校時は熱海駅前のファミマでファミチキを買って熱海始発の誰もいない上り電車で帰るのが定番だった。青春の味。

・遠隔授業
週一回あった他学部の授業がオンラインで受けられる授業。芸術学部の授業を受けていたが学生は僕を含めて3人しかいなかった。

・長泉町フットサルコート
キャンパスから歩いて20分程度かかる場所にあった人工芝のフットサルコート。前述ルーちゃんが呼びかけてくれて集まってプレーしていた。夏場、終わった後ビールを飲むのが最高に美味かった。

・ミネラルウォーター
外国人観光客がよくミネラルウォーターのペットボトルを持ち歩いているのを見て真似して導入。毎朝コンビニでボルビック、エビアン、クリスタルガイザーまたはヴィッテルを買っていたが周囲からは「それ水道水入れてるの?」と小バカにされていた。

・定位置
大教室の授業は必ず前方の左端に座る。あまり先生の視界に入らないので。

・ベルマート
三島駅北口にあったJR東海が運営する売店。現職場のある新横浜駅構内もベルマートなので懐かしい気持ちに浸れる。

・144単位
僕が4年間で取得した総単位数。確か124単位で卒業だったはずで、4年生になってからは必修授業が無くなったのにも関わらず選択授業を取り続け、毎日大学に通っていた。たぶんその時点で今しか勉強できるチャンスはない、と感じていたんだと思う(ただし何を履修したかは覚えていない)

・低炭水化物ダイエット
大学1年の冬、体重約100kgに迫っていた頃一念発起して始めたダイエット。3か月で20kg痩せて大きなリバウンドがなく30歳手前まで来たが、現在体重は大幅増。

・ナツミちゃん
人生で唯一、単にかわいいと思ってメアドを聞いた、同じ授業を取っていただけの女の子。彼氏がいたので退散。

・オセアニア論
4年生の時に取っていた選択授業。授業自体は面白かったのだが、就職活動のスケジュール管理が甘く、授業中に「あれ?今日面接では…」と思い出して結局志望していた会社を自ら辞退することになった思い出の授業。

・Quietdrive
横浜のタワーレコードでレコメンドされていてハマったアメリカのエモーショナルロックバンド。就職後様々なつながりがあり、来日時に一緒に写真を撮ってもらったり、新宿ロフトのライブに呼んでもらえたりした。

・小田原
通学路であり、卒業後もよく大学の仲間と集合する中間地点。小田原城は何度行ったかわからないほど訪問している。

・JICAのボランティア
友人に誘われ参加した訪日外国人の東京観光をアテンドするボランティア。僕は中国外務省の若手職員であるゾウくんというお兄さんとペアになったが、僕の英語が不自由すぎたため意思疎通が出来ず、他のペアとグループになって行動させてもらった。京劇をモチーフにした置物のお土産をもらったけど、あれどこにしまったかな。

・メンズノンノ2月号
大学の図書館に毎月入荷していたメンズファッション誌。2月号は大抵「世界の街角スナップ」特集が組まれており、外国かぶれだった僕は主にフランスの兄さんたちを参考にしていた。当時流行っていたイギリスのファストファッションブランド、プライマークに憧れていたが20代の頃ロンドンに行く機会があり何軒かハシゴした(同じ品揃えなのに)。

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