謙遜しすぎる人


謙遜しすぎて、自分を日々コツコツ自然に低めているのに気づかない人がいる。


お仕事で、インタビュー記事を書く機会がある。
相手のお話をうかがいながら記事にするので、たくさんの質問をさせてもらうのだけど、インタビューを受ける方が経歴や実績のサイズにかかわらず、言葉のはしばしに自身を低い場所に置いているのに気づく。

上にはまだまだ上がいて、自分は未熟で途上の身です。
たとえそうだとしても、謙虚さだけであらわせないひっかかりを感じる。
ひっかかりを感じるときは、小さく自分を腐す言葉を使っているのに自身が気づいていないときだと気づいた。

謙遜することで、てっとりばやく自分を守れる。
謙遜しておけば、調子にのっていると叩かれにくい。
謙遜していれば、奥ゆかしい人格だと好感を持たれやすい。

謙遜や謙虚さを美徳とする精神は好きだ。
「道」には終わりがないし、慢心は視野を狭める。
ただうまく言えないのだけど、謙遜しかげんを誤って過剰に自らに言葉の刃を向け貶めている人の言葉を聞くとひっそり傷つく自分がいる。
その人と一緒に斬られる感覚がする。

いき過ぎた謙遜を、一番ちかくで聞いているのは自分の耳だ。
耳からはいりこんだ「自分なんて」が心に染み付いて取れなくなっていく。いつしかそれを本当だと信じてしまう。

言ったとおりの「自分なんて」に染まってしまう。

謙遜するたびに使う言葉たちが体にしみこむ前に、「でも、よくやってる」と利き手じゃないほうの手で利き手を包みたい。

謙遜するときに使う常套句を受けいれる耳を「でも、よくやってる」と、両手でふさぎたい。

どんなに毒舌な人よりも自分を腐し傷つけるエキスパートは自分の心だ。
一人相撲でひしゃげた心を救うのは自分の体だ。
手を温めたり、お腹に手を当てたり、耳を両手で包んだり、ねぎらう。

仕事で出会う人たちが、自分を映した鏡に見える。





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