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伝えることば

 あなたの考えは?そう聞かれて喉が詰まった。それは神学校に入った時の事です。急に私は言葉を失っていました。いえ、日常生活は普通に出来ていたと思います。しかし勉強には苦労しました。課題図書の漢字が古くて読めず漢和辞典を購入して、それでも内容が理解できない。神学とは神の言葉の学問であると教えられ、すまし顔の裏に本心を隠していたあの頃。自分の言葉が話せなかったし、やっと出した言葉が通じない事が多かったし、心から話せる相手が欲しかった。


 小説家で文学者の高橋源一郎はラジオで次の事を話していました。「翻訳というのは、ことばをつくる作業です。たとえば二葉亭四迷は、明治期にロシア語原文から日本語をつくった。当時の日本には小説に使えることばがなかったから。一部の人しか読めなかった聖書を多くの人が読めるように翻訳したマルティン・ルターも然り。~中略~考えてみたら、二葉亭四迷もルターもそうですけれど、一部の人だけが読んでいたものを「伝えることば」に変える、それを聞く人たちは弱い人たちです。知識を解放するためにやったのが翻訳です。その作業の中には、ずっと閉じ込められている弱い人たちを世界に向かって広げていく作業みたいなことがあるのかな、とも考えました。」 ラジオで話す小説家先生の言葉が心に届きます。言葉に出会うとは解放された知識を自分のものにできること、弱さを背負ってもがく私が世の中に自分の足で立つための力になると教えてくれている。


 ラジオの先生はもう一つのことを教えてくれました。翻訳家の藤本和子とその著書、1980年代に北米の黒人女性たちの生きざまを聞き書きした『ブルースだってただの唄』を引用して、「遠いほうにいるけれど本当は僕たちに近い人たちを目の前に連れてくるという作業が、翻訳です。」と話しました。この聞き書きの本には弱さと苦しみを抱えて生きる黒人女性たちの言葉が沢山収められてあり、自ら語ることの必要性と効果について教えてくれます。言葉を受けとめると保証される聖域が語ろうとする人には重要であること、そのようにして語ることでその人自身が自分の正体を知る作業になり得るのだということ。語る作業は聞く人なしでは難しいのです。孤独は人間から言葉を奪うものです。私はあの時、自分の言葉を失っていたと思い至ったのは、この本がきっかけです。翻訳家が聞き書きで本にまとめた言葉に出逢い、遠い方にいるけれど本当は私にとても近い人が目の前で生き生きと語って言葉を聴かせてくれる。その言葉に私は励まされています。


 キリスト教徒にとって、言葉と言えばそれは神様の御言葉を意味しますね。神の言葉によって創造された天地万物、神の言葉としての御子イエス・キリスト。御子は神の言葉を全ての人に語った方です。神というおよそ遠くて手の届かないお方が持つ、全ての存在を有らしめる尊い神様の御言葉。それを力なく弱くされている人々のすぐそばで、病や罪にさいなまれる人のすぐそばで、伝えることばで聴かせてくれるのが御子イエス・キリスト。ここに救いが感じられますよね。

   一人で聖書を読み感動して心躍らせる人は御言葉のプロです。聖書の言葉と通じ合えずに葛藤するのはよくある事です。お勧めは誰かと語り合いながら読む事、誰かの大切な聖書の言葉を聴かせてもらう事です。伝えるときにこそ、御言葉の命が輝くから。

北海の光 2021年2月号 巻頭言

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