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三島由紀夫という迷宮⑨ 〈英雄〉と蹶起        柴崎信三

〈英雄〉になりたかった人❾


 自裁する三年まえの1967(昭和42)年2月、雑誌『芸術新潮』が「三島由紀夫の選んだ青年像」という主題で8点の美術作品をとりあげた。「闘志」「苦悩」「理知」「悲壮」といったテーマに合わせて、ティツィアーノの『手袋を持つ男』やベラスケスの『バッカスの勝利』などとともに、ジャック・ルイ・ダヴィッドの『ナポレオン・ボナパルトの肖像』が「英雄」の表象として紹介された。
 像主のナポレオンは28歳、未完で余白を残した最初の肖像画である。イタリア遠征から戻ったばかりの青年将軍は、のちに皇帝の首席画家となるダヴィッドから肖像画の制作の申し出を受けて、パリのルーヴル宮でポーズをとった。
 三島はこう述べている。

〈しかしこのナポレオンの肖像画には、青年としての英雄の、不安と情熱と悲劇的運命がみごとに浮彫りされている。そのとき肖像画は預言的な力を持つのである。もしこれを、一人の英雄の肖像画としてでなく、一人の青年の肖像画として眺めるなら、そこには若いロマンチック詩人の心の霧のような不安がた忽ち立ちこめてくるにちがいない〉

 〈英雄〉という三島の想念の水脈をたどれば、「戦争」をはさんで虚無と夢想に包まれたおのれの遣る瀬のない青春にゆきつくはずである。彼方には〈戦争〉が赫々と燃え盛っているが、その〈祝祭〉に出遅れた彼は蜃気楼のような眺めの向こうに息づいている秘めやかな〈椿事〉を期待しながら、むなしく敗戦の日を迎える。やがて荒廃と無頼と奇妙な活気に覆われた〈戦後〉の日々がめぐるなかで、いつかその〈椿事〉が訪れたとき、彼のなかの〈英雄〉は混沌とした〈世界〉の救済者として姿をあらわし、やがて悲劇的な栄光へと導かれてゆくだろう‥‥。
 失墜する〈英雄〉のモチーフは、折に触れて戦後の作品に繰り返し登場する。
 『海と夕焼』で鎌倉の建長寺の寺男として生きる流謫のフランス人、安里アンリがそうである。「同志を連れて東へ行くのだ」という預言者の言葉に導かれて出航したマルセイユから聖地エルサレムの奪回を目指すが、「地中海の水が二つに分かれる」という奇蹟はついに起こらない。人身売買でエジプトから送り込まれたインドで日本から来た禅師と出会い、伴われて遠路遥々たどりついた極東の島国の寺領に身を沈めている。
〈英雄〉になれずに信仰も捨てた安里に、三島は自らの〈戦後〉を重ねる。
 

〈『海と夕焼』は奇蹟の到来を信じながらそれが来なかったという不思議、いや 奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議という主題を、凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。人はもちろんただちに「なぜ神風が吹かなかったか」という大東亜戦争のもっとも恐ろしい詩的絶望を想起するであろう〉

 

『午後の曳航』の舞台、横浜港の氷川丸

  1963(昭和38)年に書き下ろしで刊行された『午後の曳航』は、横浜の山手の洋館を舞台にして、元町の輸入洋装店を営む美しい未亡人の黒田房子と、外航船の二等航海士の塚原龍二の恋を端正に描いてゆく。表向きは浪漫的な男と女の物語であるが、「英雄の失墜」によって大きな暗転が仕掛けられている。
 房子の14歳の息子の登はある夏の夜、母が連れて帰った二等航海士の塚原との寝室を覗き見ながら、背後の開け広げた窓辺に港から届く船の汽笛を聞く。
 月、海の熱風、汗、香水、熟しきった男と女のあらわな肉体、航海の痕跡、世界の港々の記憶の痕跡、その世界へ向けられた小さな息苦しい覗き穴、少年の硬い心‥‥。これらの断片が窓辺から聞こえる汽笛を通して「彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のっぴきならない存在の環」を浮かび上がらせた。
 「海から飛び出してきてまだ体が濡れたままの、ふしぎな獣みたいな奴なんだ」と登は仲間の少年たちに報告して、〈英雄〉の姿をその男に認めた。
エディプスの神話をふまえて、息子の登がやがて〈悪魔サタン〉になってその恋を滅ぼしていくのは、いかにも小説的な常道であろう。
 しかし、登と仲間の少年たちによって塚原が最後に毒殺される理由は、波濤を越えて激しい赤道直下の陽光や積乱雲に抱かれてきた孤独な海の男が、〈英雄〉として生きることを捨てたことにある。半年の航海を隔てて房子との恋を実らせ、船を降りて登の新しい父親になる塚原は、少年たちを前にして目眩めくるめくような航海の記憶を巡らせる。

〈あの海の潮の暗い情念、沖から寄せる海嘯の叫び声、高まって高まって砕ける波の挫折‥‥暗い沖からいつも彼を呼んでいた未知の栄光は、死と、又、女とまざり合って、彼の運命を別誂えのものに仕立てていた筈だった。世界の闇の奥底に一点だけの光があって、それが彼のためにだけ用意されており、彼を照らすためにだけ近づいてくることを、二十歳の彼は頑なに信じていた〉

 船を降りた塚原がちんまりとした陸の日常の暮らしにつき、新たな父親として振る舞い始めたとき、登は強い失望の底に沈んだ。「夏の出帆の時など、あれほどまで遠ざかる船の光輝の一部になっていたこの男が、あんな美しい全体から身を切り離し、好んで自分の幻から船と航海の幻を断ち切ってしまったのだ」と。
 〈英雄〉の資格を失った塚原は「航海の話を聞きたい」という少年たちに連れ出された港を臨む丘の上で、差し出された毒入りの紅茶を一気に飲んで死ぬ。
 塚原と房子、そして登という三人が入れ替わりながら視点話者となり、「英雄の失墜」を主題にして進行するこの作品は、華麗でエロティックな装いをとりながら、実は〈戦後〉という時間の推移のもとで作者自身が内部に募らせてきた〈英雄〉の観念の成長とその崩壊を造形した物語と読むことができる。
 例えてみれば、〈英雄〉たらんという野望を秘めて孤独な船乗りとして生きてきた塚原は三島その人であり、房子はその三島を港に迎え入れた〈戦後〉という時間である。ならば、その〈英雄〉に焦がれた挙句に失墜して新しい〈父〉となる塚原を殺す息子の登とは、どういう存在なのだろうか。
 それは〈椿事〉を待ち続けながら遊弋ゆうよくしてきた〈戦後〉の時間についに耐えきれず、〈英雄〉へ向けて行動を起こしてゆくもう一人の三島なのである。文壇ばかりでなく映画や演劇の企画と出演、はたまた写真のモデルなどでメディアの寵児となった作家のなかに息をひそめていた〈英雄〉への渇望と幻滅が、14歳の少年のなかに刻印されているのである。
 
 三島は42歳を迎える1967(昭和42)年の劈頭、『年頭の迷ひ』と題した随筆を『読売新聞』に寄稿した。ライフワークの『豊饒の海』の第一巻で優雅の頽落を主題にした『春の雪』が完結し、これに続いて血盟団事件をモデルにした武断の時代を描く第二巻の『奔馬』が始まろうという時期である。
 ここで三島は年々、年頭に「ふしぎな哀切な迷い」が募って訪れると述べている。それは5年後にやってくるはずのこのライフワークの完結に伴って、自身のなかに隠し持ってきた「花々しい英雄的末路」を永遠に断念しなければならないという不安に由来する、と告白している。
 日本の戦後を代表する作家であり、ノーベル文学賞の候補にまで擬せられている三島は、すでに「文学的英雄」の名に恥じない存在ではないのか。そんな問いを先取りするかのように、彼はこう続ける。

〈しかし私は、文学的英雄などというものを言葉の誤用だと思っている。英雄とは、文学ともっとも反対側にしかない概念である。私が量的に大きい仕事をやりとげれば、まかりまちがって文豪にはなるかもしれないが、その代り、英雄たるの機会は永遠に逸するのだ。そして依然、私にとって魅惑的な栄光は、英雄の栄光であって、文豪の栄光ではない。そもそも、栄光などという文字がどうしても不釣り合いなのが、文学というものである〉

 四十二歳という作家の年齢が、彼のなかで疼き続ける〈英雄〉への衝動を目覚めさせ、それが作家にとっての果実に等しい「作品」という構築物の設計をゆがめていく。『豊饒の海』が第二巻の『奔馬』のあとから迷走をはじめ、第三話の『暁の寺』は大乗仏教の阿頼耶識の教義の堂々巡りのような展開に陥った。
 そして第四話の『天人五衰』にいたると、松枝清顕の転生者として現れた安永透が、実は「偽物」であることが明かされて自滅へ向かう。老残の本多繁邦は奈良の月修寺でいまは得度した門跡の聡子に会い、「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません」と告げられて、茫々たる虚無の中に立ちつくす。
 三島が随筆に書いたように、もともと『豊饒の海』は昭和46(1971)年末の完結を想定して起筆され、転生する松枝清顕が『幸魂さきみたま』つまり幸福な魂に導かれて結末へいたる構想であった。ところが抑えがたい〈英雄〉への衝動は、作家の蹶起と自決という予期しない終止符によって、完結はその一年前に前倒しされた。その結末も現実の「月の海」のような、荒漠とした虚無につつまれて終わっている。
三島はこの随筆をこう続けている。

〈四十二歳という年齢は、英雄たるにはまだ辛うじて間に合う年齢だと考えている。西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅かやはるかたが、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合うのだ〉

1970年11月25日、陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーで 

 〈哀切な迷い〉に導かれた作家がその文学上の営みの対極に思い描いた〈英雄〉の行動とは、いったい何だったのか。私兵組織の「楯の会」を組織し、3年後に陸上自衛隊総監部で憲法改正などを訴えたクーデターに失敗、ついには割腹自決を遂げるという作家の最期に、それはどう繋がっていったのか。
 『年頭の迷ひ』で〈哀切な迷い〉を告白した前後、〈英雄〉の幻影を募らせて三島が歩んだ〈行動〉の軌跡をたどってみる。
前年の1966(昭和41)年6月に三島は『英霊の聲』を発表、226事件で蹶起しながら処刑された青年将校らが天皇への激しい怨嗟の声を上げて、戦後の「人間宣言」で〈象徴〉となった現実の天皇への否認をはっきり示した。一方、翻訳・刊行したダンヌンツィオの『聖セバスティアンの殉教』は、自己犠牲によって死んでゆく〈英雄〉の図像化として、彼の生涯にわたる主題であったに違いない。
 42歳を迎えた翌年の1967(昭和42)年2月には、『豊饒の海』の第二部『奔馬』連載が始まった。このなかで財界の重鎮へのテロリズムに走る飯沼勲が行動の拠り所とした熊本の神風連事件に、三島が大きな思想的影響を受けたことはこの随筆に記している通りである。復古主義を掲げて挙兵し、敗れて全員が自刃する明治初期の悲劇をモデルに仰いだ『奔馬』の物語は3年後、作家が「楯の会」の同志たちと起こす現実の蹶起と自裁に重なってゆくのである。
 作品世界の現実と作家の現実が混同されてゆくことの危うさを、三島はこの頃雑誌に連載していた『小説とは何か』というエッセイのなかで触れた。

〈バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られているが、作家はしばしばこの二種類の現実を混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとっては重要な方法論、人生と芸術に関するもっとも本質的な方法論であった〉

『豊饒の海』を書き進めながら、作家の二つの「現実」は対立と緊張の糸が切れて次第に相互に干渉しあい、病床のバルザックが「作中の医者を呼べ」と叫んだように、その境界が融解する。そこにはどんな新たな〈現実〉が生じるのだろうか。三島はこのライフワークが進行してゆく過程で、自身が危うんだ「二つの現実」が融解してゆく時間のなかへすすんで身を浸していったのではないか。
 同じ1967(昭和42)年の3月、三島は『「道義的革命」の論理―磯部一等主計の遺稿について』と題する論考を発表した。226事件で部隊とともに蹶起し、叛乱と要人暗殺を主導して処刑された青年将校、磯部浅一の獄中手記がこのころ発掘され、公表されるとただちに三島はこれに反応したのである。
 国家改造の道義を掲げて蹶起した皇道派の将校たちは、聖上と仰ぐ天皇の「大御心おおみこころ」に行動のすべてを預けたはずだったが、重臣の斎藤実ら要人の殺害に激怒した天皇その人から「叛徒」と否定される。あまつさえ、一時は蹶起に寛大だった教育総監の真崎甚三郎ら陸軍幹部は天皇の「緊急勅令」を受けてこれをにわかに翻し、磯部たちをただちに公判と処刑への道へ導いてゆく。
 それでも死刑の求刑を受けた獄中の磯部はなお、楽観を崩さない。三島はそれについて「事態が最悪の状況に立ち至ったとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは〈最後の楽天主義〉の英雄的根拠だと思われる」と述べている。

〈そのとき実は無意識に、彼は自刃の思想に近づいていたのではないか、と私は考えている。天皇と一体化することにより、天皇から齎される不死の根拠とは、自刃に他ならないからであり、キリスト教神学の神が単に人間の魂を救済するのとはちがって、現人神は自刃する魂=肉体の総体を救済するであろうからである〉

 226事件を論じて熱にうかされたようなこの論考の文体が伝える、磯部浅一への激しい感情移入には、すでに三島の「もう一つの現実」、すなわち〈蹶起〉への衝動がくっきりとしたかたちで現れている。それが日を追うごとに具体的な行動となっていくことは、それからの三島の歩みが明らかにしている。
 
  1967年4月の久留米を皮切りに、同志となる学生らとともに習志野や千歳、富士山麓など各地の自衛隊駐屯地で体験入隊し、実地訓優を繰り返した。この時点で、すでに三島のなかに1970年11月25日の〈蹶起〉と〈自決〉のイメージが作られてきたのだろう。日米安保条約の改定へ向けて、新左翼を中心に高まる反対運動に対抗して、民兵組織を発足させることがまず念頭にあった。
 それが「楯の会」として1968年10月に発足するまでの間に、三島は民族派の学生組織にいた持丸博らとともに日経連常務理事の桜田武を訪れて活動資金の援助を依頼するなど、裏仕事も手掛けた。しかし桜田は協力に消極的で、ようやくはした金を差し出した程度の財界の対応に三島の誇りは大きく傷ついた。以降、学生たちを集めた訓練や会合など、すべて三島の自前の資金で運営するようになった。
 戦前に陸軍士官学校を出て自衛隊調査学校長などを務めた山本舜勝にも、治安出動の際の「民兵」の行動訓練を仰いだ。街頭デモがエスカレートして過激化し、抑えられなくなった時に民兵組織が遊撃戦に打って出て、治安出動に動いた自衛隊とクーデターに持ち込む―。三島が思い描いたのはそのようなシナリオである。
 学生たちは過激な自己主張と権力への反抗をエスカレートさせていたが、すでに戦後の民主主義と経済成長のさなかにあって、憲法改正と自衛隊の国軍化などを掲げたクーデターで社会制度を変える条件は乏しい。三島たちのゲリラ戦の「指南役」としてかかわる自衛隊の情報戦の専門家の山本でさえ、三島の考えるシナリオには懐疑的だった。「空想的ラディカリズム」とでも呼ぶべき三島のクーデター構想と、現実の政治状況との亀裂を決定的にしたのは、1968(昭和43)年10月21日の国際反戦デーである。
 翌年の日米安保条約改正の阻止へ向けて、空前の規模で繰り広げられた学生と労働者の街頭行動は、東京・新宿駅周辺で暴動化し、機動隊との激しい攻防が深夜に及んだ。学生たちは駅構内など鉄道施設や周辺の市街でバリケードを築いてデモと投石をくりかえし、集まった通行人や野次馬を巻き込んで一帯は無法地帯と化した。全国から三万二千人にのぼる機動隊員が動員され、千五百人が逮捕された。
 その夜、ヘルメットと報道取材の腕章をつけて現場にかけつけた三島の興奮は尋常ではなかった。鉄橋の上から見ると、ゲリラの群れは建築現場から運んだ建材でバリケードを作り、機動隊に投石する。火炎瓶が投げ込まれる。そのあとを群衆が付き従い、催涙ガスが放たれると、蜘蛛の子を散らすように消えてゆく。
 しかし、圧倒的な機動隊の力でゲリラの群れが鎮圧されると、またたく間に新宿の街は日常のにぎわいを取り戻し、自衛隊が出動するような場面はついに訪れなかった。それは成長と繁栄の時代の〈祭り〉が終わったということである。

〈われわれは新宿動乱で、モッブ化がどのような働きをするかをつぶさに見た。あのモッブ化は日本の何者かを象徴している。あのモッブ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺激を期待し、変化を期待する民衆の何者かを象徴している〉

 

1968年10月21日、国際反戦デーの新宿駅構内

  1969年1月に東大安田講堂が全共闘学生によって占拠され、催涙ガスによる機動隊との激しい攻防の末に封鎖が解除された。学生たちの反乱はピークを過ぎた。こうした状況の下で、三島の描くクーデター計画はほとんど荒唐無稽であった。
 要するに、三島が思い描いた〈左翼革命〉のゲリラ暴動化と自衛隊の治安出動、〈民兵組織〉の介入によるクーデターという筋書きが空振りに終わったのである。時代の気分は「人類の進歩と調和」を掲げて翌年行われる大阪万博の方へ向かっている。政治的には無意味としか思えない〈純粋行動〉に賭けるほかに、彼の選ぶ道はない。〈蹶起〉である。
 
 ライフワークの『豊饒の海』を書き進めるなかで、三島に日増しに募っていったあの「故知れぬ鬱屈」は、空中の微粒子が集まって次第に膨張してゆくように不気味な球体に成長した。それは「楯の会」の若い同志たちを引き連れた自衛隊への直接行動の計画となり、やがて(蹶起)へ向かって破裂する。
 三島をそこへ衝き動かした「時限爆弾」の源泉は、226事件を通してわだかまったまま戦後のあいだ眠っていた〈天皇〉であった。『英霊の聲』を書いた後の『二・二六事件と私』という文章のなかで三島はこう述べている。


〈どうしても引っかかるのは「象徴」としての天皇を規定した新憲法よりも、天皇ご自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのずから、二・二六事件まで、一すじの影をを投げ、影を辿って「英霊の聲」を書かずにはいられない地点へ私自身を追い込んだ。(略)私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまっていることを知らねばならなかった。それをいつまでも回避しているわけにはいかぬのである〉

 1970(昭和45)年11月25日午前、三島は「楯の会」の四人の若者とともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪れ、益田兼利総監を人質にして中庭に自衛官を集合させたうえで、バルコニーから憲法改正と自衛隊の国軍化などを求めてクーデターを呼びかけた。しかし反応を得られず断念したのち、総監室で隊員の森田必勝の介錯によって割腹自決した。直前に、三島はバルコニーで「天皇陛下万歳」を叫んだ。この「天皇陛下万歳」の意味は決して単純ではない。
 「楯の会」の発足にあたって1968(昭和42)年に三島は『文化防衛論』を書いている。これはいわば、彼らが起こそうとしている〈蹶起〉を歴史と政治の文脈から説き起こした「建白書」といった性質の文章だが、〈蹶起〉への衝迫から前のめりの激しい言葉ばかりが躍った、三島には珍しい悪文といっていい。
 しかし、そこで提起されているのは、〈純粋行動〉へ彼を駆り立てる究極の価値としての〈天皇〉が古来国民にとってすべてを抱擁する「文化概念」としてあったのに対し、明治維新以降の立憲君主政体のもとでそれは「政治概念」に置き換わり、ついには2・26事件で青年将校らが恃んだ「大御心」に裏切られて悲劇となっていった道筋を、激しい息遣いで解き論じている。

〈「みやび」は宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には「みやび」はテロリズムの形態さえとった。すなわち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側にへも手を差し伸べていたのである〉

 三島が最後まで信頼を寄せた政治学者の橋川文三は、それを平田篤胤ひらたあつたねら幕末の国学者の思想に重ねてこの論文を論じたうえで、三島の先行きを危ぶんだ。

〈こうした国学の流れが、幕末=維新期においていかなる運命に逢着したかはすでによく知られている。彼らは古代的な神政政治、神と人との自然な交歓によっていとなまれるユートピアを現世に樹立しようとして、すべての不純な人為的営造物の破壊に邁進した。さながら神国を日本の国土に実現しようとしたわけである。しかし、周知のように、彼らのその試みは大いなる幻想におわった。それは、彼らの非政治的世界の構想が、かんたんに政治の論理によって破綻せしめられたからである〉(橋川文三『美の論理と政治の論理』)

 三島と「楯の会」の〈蹶起〉とクーデターの非現実性は、その究極の実現目標にもあらわれている。『文化防衛論』でクーデターによって実現すべき具体的な改変として挙げられているのは、受け継がれてきた天皇の伝統行事の保存と継承を別にすれば、天皇の栄誉大権の実質回復と軍の儀仗や聯隊旗の直接下賜といった、天皇が行なう象徴的な儀式の復活だけにすぎない。行政府や議会、警察などの統治機能をどのように改めるのか、といった戦後の民主主義体制の下の制度変革の展望などについてはほとんど触れていない。限界と破綻は目に見えていた。
 歴史をさかのぼれば、日本の文化概念としての〈天皇〉は「みやび」という伝統を通して「国と民族との非分離」の状態へ復元させるしたたかな原理として働いてきた。明治以降の西欧的な立憲君主の政体のもとで〈天皇〉はその超越的な力を失い、226事件の悲劇にいたった―。三島はそう述べたうえ、戦後の象徴天皇制が「文化の全体性の総覧者」としての天皇をさらに衰弱させ、大衆社会化による「週刊誌天皇制」にまでその尊厳を失墜させた、と厳しい批判をなげかける。

昭和天皇とマッカーサーの初の会見(1945年9月27日、米国大使館公邸) 
撮影 ジターノ・フェイレイス

 三島の憤怒はゆきつくところ、天皇の〈大御心〉にすべてを預けて蹶起しながら「叛徒」として葬られた226事件の青年将校たちの怨念ルサンチマンに重なり、また戦後の天皇の「人間宣言」に対して「などてすめろぎは人間となりたまいし」と怨嗟の声をあげる『英霊の聲』の神々を呼び起こしてゆく―。

〈とはいえ、保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きている。御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を「みやび」を以て統括するという、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追いやられ、月並は核心に輝いている〉(『文化防衛論』)

 三島にとっての〈天皇〉は、日本の歴史がつないできた文化の連続性のなかの至高の〈観念〉として生きていた。その一方で、現実の天皇は226事件で〈大御心〉を拠り所と仰ぐ青年将校らを〈叛徒〉と断罪し、〈人間宣言〉によってその伝統との連続性を断ち切った戦後民主主義の〈狡猾な政治的象徴〉でもあった。市ヶ谷のバルコニーで自決の前の三島が発した「天皇陛下万歳」には、そのような生身の今上天皇に対する激しい遺恨が、あわせて込められていたのではなかったか―。
 226事件の蹶起を主導した青年将校とともに、その「思想的首魁」として逮捕されて死刑の判決を受けた思想家の北一輝は、1937(昭和12)年8月19日に東京・豊多摩刑務所で西田鋭、磯部浅一、村中孝次とともに銃殺刑に処された。
 その執行にあたって、刑場で最後に西田が「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と問いかけたのに対し、北は「いや、私はやめておきましょう」と応じなかった、と伝えられている。
 国家を有機体ととらえて天皇をその中枢に置く「国体」の思想に、北一輝が終始冷ややかともいえる立場を貫いたことに、三島は引き裂かれていたに違いない。『北一輝論―「日本改造法案大綱」を中心として』で、その懸隔に触れている。

北一輝(1883-1937)226事件の首魁として死刑。「国体論及純正社会主義」

〈北一輝の天皇に対する態度にはみぢんも温かさも人情味もなかったと思われる。その一点で青年将校との心情の疎隔ができたことは感じられるが、「純正社会主義」の中で現代の天皇制を、東洋の土人部落で行われる土偶の崇拝と同一視している点は、北一輝が「天皇その方」にどのような心情をもっているかを、そこはかとなく推測させるのである〉

 当初の三島の〈蹶起〉の計画に「皇居突入」という案があり、宮中に乱入して天皇と「斬り死に」するという考えさえ懐いていたことを、親しかった文芸評論家の村松剛や磯田光一が証言している。二つに分裂した三島の天皇観が、奇怪で荒唐無稽な蹶起計画につながっていったのか。
 
 毎日新聞バンコク特派員の徳岡孝夫が、タイで三島由紀夫と再会したのは1967(昭和42)年の秋だった。三島が『暁の寺』の取材でインドのベナレスなどを旅する途中、バンコクに立ち寄ったのは、前年に続いてノーベル文学賞の候補に名前が挙がり、メディアの事前取材をのがれて日本を離れていたかったからである。
 自衛隊へ体験入隊した三島を週刊誌記者としてインタビューして以来のつきあいだから、宿舎のエラワン・ホテルで会った三島は喜んで徳岡と食事をともにし、プールサイドで世間話に時間を忘れ、街へ出て映画館で一緒に娯楽映画を楽しんだりした。日本のノーベル賞騒動を避けて滞在している三島の退屈しのぎにと、徳岡は日本から持ってきている『和漢朗詠集』を貸し渡した。三島はのちに、そのなかに収められている「生ある者は必ず滅す 釈尊いまだに栴檀せんだんの煙免れたまはず」から「天人五衰」の標題を『豊饒の海』の第四巻に採った。
 結局、その年のノーベル文学賞はグアテマラのミゲル・アストゥリアスに回り、前年に続いて三島は外れた。そして翌1968(昭和43)年秋、三島にとっては王朝美学を引き継いだ文学上の師であり、終戦時に20歳の彼を文壇に送り出した恩人でもある川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
 国際反戦デーが近づいて巷は騒乱の空気につつまれていたが、三島は頼まれて自ら英文の推薦状まで書いた川端の慶事に曇りのない喜びのコメントを寄せ、川端の自宅の庭から中継するテレビの記念番組では「日本の伝統が世界の文芸思潮のなかで正統に認められた画期的なできごと」とたたえた。
 しかし、自身が有力候補として毎年あげられていたこの最高の栄誉に外れて師の川端が受賞したことは、三島の〈蹶起〉への歩みを加速する発条になっていったであろう。「この次日本人が貰うとしたら、俺ではなくて大江(健三郎)だよ」というそのころの予言は後年、その通りになった。「ノーベル賞なんてどうでもいいんだ」といった投げやりな発言も周囲に漏らすようになった。
 べトナム戦争の前線取材など東南アジア各地での勤務を終えて、徳岡が東京の週刊誌の編集部に帰任したのは1970(昭和45)年の春であった。その年の晩秋の変事までの間に数度、三島と旧交をあたためる機会があったが、そのたびに作家の〈蹶起〉と死への傾斜が高じていくのを見た。その蹶起と自決は三島の主導で、引き連れられた「楯の会」の早大生、森田必勝が伴走者となって完結したものと今日では理解されているが、徳岡の受け止め方はいささか異なる。

〈二人の自決はふつう三島、、事件と呼ばれている。だが死に向かう原動力となったのはむしろ森田氏のほうではなかったかという疑念を、私は今も捨てきれていない。むろん「蘭陵王」の曲を吹いたというSという学生のイメージも、森田氏さらに三島さんの上に重なるのである〉

 「楯の会」の自衛隊の体験入隊の折、訓練を終えた富士山麓の駐屯地の宿舎で、隊員の一人の若者が雅楽で使う横笛を取り出して「蘭陵王」を奏でた。美貌を仮面に隠して敵を打ち破った北斉の陵王の伝説を朗々と歌う美しい調べは、三島を陶酔させた。笛を措いてから、若者は卒然と三島に言った。「もしあなたの考える敵と自分が考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない」と―。

舞楽『蘭陵王』 (高島千春 北爪有郷「舞楽図」) 


 一九六九(昭和四四)年一月に発表した最後の短編小説『蘭陵王』は、前年の夏に「楯の会」の会員の若者たちと富士山麓の自衛隊駐屯地に体験入隊した一場面を描いている。訓練後の宿舎で一人の若者が横笛を奏でる。その透明な音色が炎暑の去った夏の夜の闇に茫々と漂い、聞いている三島と若者たちを包み込む。

 〈 笛が、息もたえだえの瀕死の抒情と、あふれる生命の奔溢する抒情と、相反する二つのものに、等しく関わり合っているのを私は見出した。蘭陵王は出陣した。そのときこの二種の抒情の、絶対的なすがたが、奇怪な仮面の形であらわれたのであった。きりきりと引きしぼられた弓のような済んだ絶対的抒情が。〉

 同じ年の八月、三島は家族連れで毎年避暑にやってくる伊豆下田のホテルから川端康成にあてて手紙を書いた。

〈十七日には又自衛隊へ戻り、二十三日迄自衛隊にいて、新入会員学生の一か月の訓練の成果に立ち会う予定であります。ここ四年ばかり、人から笑われながら、小生はひたすら一九七〇年へ向って、少しづつ準備をととのえてまいりました。小生としては、こんなに真剣に実際運動に、体と頭と金をつぎ込んできたことははじめてです。一九七〇年はつまらぬ幻想にすぎぬかもしれません。しかし、百万分の一でも、幻想でないものに賭けているつもりで始めたのです。十一月三日のパレードには、ぜひ御臨席賜りたいと存じます〉

 手紙で三島は「小生が恐れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です」と後事を川端に託した。しかし、その年の十一月三日に東京・半蔵門の国立劇場の屋上で行った「楯の会」の結成一周年記念のパレードに、川端は欠席した。 

 年が明けた。
〈決戦〉の年に前年の国際反戦デーを覆っていた「革命的な熱気」はすでに醒めかかっている。「人類の進歩と調和」を掲げて三月から大阪の千里丘陵で始まった大阪万博には世界七十七か国が参加し、米国の宇宙船アポロ十一号が持ち帰った「月の石」や最先端技術の粋を見るために人々が連日長蛇の列を作った。
 七月に『豊饒の海』の最終巻となる『天人五衰』の連載がはじまった。
川端康成にあてた最後の手紙の日付は7月6日である。

〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます〉

 すでに〈蹶起〉を処断した三島の、切々たる別れの書簡である。
 
 十一月二十四日の昼過ぎ、東京・竹橋の毎日新聞社で定例の編集会議に出ていた徳岡孝夫に三島から電話が入った。「実はあす朝十一時に、あるところへ来てほしいんです。このことは、くれぐれも口外なさらないように願います」
 翌25日朝、再び三島から電話があり、指定された市ヶ谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かう。車で新聞社から十分もあれば着く距離である。
午前十一時を過ぎて、市谷会館で待機する制服制帽姿の「楯の会」の会員から用意された茶封筒を受け取った。蹶起の手順と檄文、四人の同志との記念写真などが同封されていた。傍に同じように呼び出されたNHK記者の伊達宗克がいた。
 総監室では、訪れた三島と「楯の会」の四人が東部方面総監の益田兼利と応接セットで対座していた。持ち込んだ日本刀を披露する隙に「楯の会」のメンバーが総監を捕縛、総監室をバリケードで封鎖した。異変を知って突入をはかる幕僚らとの間で激しい攻防となり、自衛官が次々に日本刀や短刀で負傷した。前庭に集められた隊員たちを前に、バルコニーから改憲などを求めた垂れ幕が下ろされ、檄文のビラが舞う。

 正午、制服に鉢巻をした三島が森田とともにバルコニーで演説をはじめた。
「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神は空っぽになっている」
「諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ」
「諸君の中に俺と一緒に起つ奴はいないのか」
 自衛隊員のヤジと、上空の取材のヘリコプターの轟音がその声をかき消した。
 総監室に戻った三島は上衣を脱ぐと裸になり、外へ向かって正座して下腹部に短刀を突き刺した。大声とともに横にそれを引いたところで、傍らに立った森田必勝が日本刀で介錯し、さらに一太刀浴びせた。血の海が広がった。拘束されている益田の制止を振り切って、森田が続いた。古賀浩靖が一太刀で介錯した。
 
 わずか30分足らずの出来事である。
 バルコニー前で三島の演説を取材していた徳岡孝夫は、もちろんその後の総監室で起きた惨劇をまだ知らない。しかし、ほどなく刻々と割腹自決の経緯が庁舎前の広場に残っている自衛隊員やメディア関係者に伝わって来た。
三島から預かった手紙と檄文や写真の入った書類を手にして、徳岡が人影もまばらになった広場から正門へ下る坂を歩いていくと、思いがけない光景を見た。

〈下り坂の少し手前、道の右側の元戦史室があったあたりで、数人の職員がバレーボールをしているのを見たのだった。まだ昼休みの時間らしい。女性が四、五人、男も一人か二人いた。それは平和な平和な日本の、これ以上は平和ではあり得ない、素晴らしい景色だった。吐き気がした〉

 歴史にも稀有な一九七〇年十一月二十五日の事件を包んだこの国の〈空気〉を伝える文章として、これを超える描写を私は知らない。
 遅れて現場にたどりついた駆け出しの記者の私も同じ時間にその界隈にいたはずなのだが、その風景は全く視野に入っていない。
 もっとも仮にその光景を見ていたのなら、それこそが死に急ぐ三島由紀夫と束の間の爛熟へ日本が向う成長の時代を分け隔てた、残酷な対比コントラストの一景だったのだと妙に納得したのであろうが―。                          
                            =この項続く

◆標題図版 ジャック・ルイ・ダヴィッド『ナポレオン・ボナパルトの肖像』(1797年 油彩、カンバス、パリ・ルーヴル美術館蔵)


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