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柴崎信三(ジャーナリスト)◆日本経済新聞論説委員を経て獨協大、白百合女子大◆著書に『魯…

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柴崎信三(ジャーナリスト)◆日本経済新聞論説委員を経て獨協大、白百合女子大◆著書に『魯迅の日本漱石のイギリス』(日本経済新聞社)『絵筆のナショナリズム』(幻戯書房)『パトリ〈祖国〉 の方へ』(ウェッジ)『〈日本的なもの〉とは何か』(筑摩書房)『絵画の運命』(幻戯書房)など。

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  • #美の来歴

    古今の美術作品と歴史のかかわりをたどるエッセイ。図版と資料をたくさん使って過去から未来へ向かう、美の旅へようこそ。

  • 三島由紀夫という迷宮

    〈英雄の死〉にあこがれたこの人にとって、「戦後」とは〈まろうど〉としての「観光」の時間だったー

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美の来歴 51 ◆ふたつの「東京物語」            柴崎信三

〈故郷喪失者〉としての小津安二郎と東山魁夷  1963年12月12日、奇しくも60歳の誕生日に逝った映画監督、小津安二郎はその3年前、『秋日和』という家庭劇を撮った。  ―旧制高校時代からの親友でいまは大企業の役員や大学教授になっている3人(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が、亡きもう一人の学友の未亡人(原節子)の再婚とその娘(司葉子)の結婚をめぐって、善意の小さなさや当てを繰り広げる‥‥。  当時小津が行き来して親交のあった「白樺」の作家、里見弴が原作を書き、小津と野田高梧の

    • 美の来歴㊿ 〈フジタ〉を拒んだ国吉康雄の「裏切られた戦後」  柴崎信三

      〈亡命者〉と〈米国人画家〉を生きた故郷喪失者の運命  野見山暁治はその年の秋に出征のため東京美術学校、いまの東京芸大美術学部を繰り上げ卒業しているから、『アッツ島玉砕』と作者の藤田嗣治の姿を見たのは卒業直前の1943(昭和18)年9月に上野の東京都美術館で開かれた〈国民総力決戦美術展〉の一場面であろう。  『アッツ島玉砕』は日本の敗色が強まる第二次大戦後期、厳寒の北太平洋の孤島で上陸する米軍との過酷な戦いの末、ほぼ全滅する日本軍の断末魔を大画面に描いた作品である。倒れた累

      • 美の来歴㊾ 文豪ゲーテが追った〈山師〉カリオストロの足跡  柴崎信三

        ヴェネツィアの仮面劇の陶酔と〈詐欺師〉の時代  ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロの『メヌエット(カーニバルの光景)』は、鮮やかな黄色のデコルテで着飾った若い女性を中心に、黒いアイマスクや仮面で装った男女が入り乱れて踊るヴェネツィアのカーニバルの一場面を描いている。  いまや真冬の名物となったこのお祭りは、ヴェネツィアが古都アクイレイアとの戦いに勝った1162年にはじまり、春先までの一定期間に限って人々は思い思いの衣装に仮面をつけて振舞うことが許された。各地から集まった人々

        • 美の来歴㊽ 三島由紀夫が愛した絵  柴崎信三

          〈英雄〉になりたかった人のたくらみ  三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。  「あの日」に駆け出しの記者がそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態

        美の来歴 51 ◆ふたつの「東京物語」            柴崎信三

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        • #美の来歴
          39本
        • 三島由紀夫という迷宮
          11本

        記事

          美の来歴㊼  眼差しの孤独、風景の不安  柴崎信三

          エドワード・ホッパーが描いた〈大衆社会〉の米国  ニューヨークの下町あたりのダイナー、つまり深夜営業のレストランのカウンターが舞台のようである。暗いガラス窓を背にしてソフト帽をかぶった背広の男と紅いドレスを着た茶色の髪の女が、コーヒーカップを前にして座っている。向かいのカウンターの端にやはり帽子をかぶった男が一人いるだけで、他に客はいない。大きなコーヒー・サーバーを置いた卓の内側では白い給仕服の男が一人、立ち働いている。  夜は更けて、向かいのビルはすでに明かりを落として闇

          美の来歴㊼  眼差しの孤独、風景の不安  柴崎信三

          美の来歴㊻ 横顔の傭兵隊長の陰謀                                                                                 柴崎信三         

          「メディチ家兄弟暗殺計画」の隠れた仕掛け人  15世紀末葉、フィレンツェにルネサンス美術の花々が咲き誇った。それは陰影を深めてたそがれてゆく、ある文明の残照であったのかもしれない。  猖獗するペストが街を包んで津波の後のように人口が減り、教会の権威が揺らぐなかで、フィレンツェは未曾有の危機をようやく潜り抜けた。  金融や交易などを通して遠くオリエントにまで影響力を広げたメディチ家の実質的な創業者、コシモ・デ・メディチの遺産を引き継いだ20歳の孫、ロレンツォは政治や外交の手腕

          美の来歴㊻ 横顔の傭兵隊長の陰謀                                                                                 柴崎信三         

          美の来歴㊺〈巨人〉天心の挫折 「アジアはひとつ」という幻影  柴崎信三

          〈驚異的な光に満ちた空虚〉への道  東京美術学校校長の岡倉覚三こと天心の素行をめぐって、「築地警醒会」の名で怪文書が関係者に送り付けられた。1898(明治31)年3月のことである。  中国へ視察旅行で不在の隙を狙って、天心の腹心でもあった美術学校の図案科の教授、福地復一が仕組んだ排斥運動の端緒だったといわれる。それにしてもこの文面、天心に対するあらん限りの罵言が書き連ねてある。とりわけ人々の耳目を集めたのは、「人の妻女を‥‥」云々の、いかにもおどろおどろしいくだりであった

          美の来歴㊺〈巨人〉天心の挫折 「アジアはひとつ」という幻影  柴崎信三

          美の来歴㊹ 留学生森鷗外が秘めた日本人画家の恋 柴崎信三

          〈うたかたの記〉とバイエルン国王ルートヴィヒ2世の謎の死  陸軍二等軍医という身分でドイツへ留学した鴎外森林太郎が、ベルリンからミュンヘン大学へ移ったのは1886年3月、24歳の時である。首都ベルリンの張りつめた空気と責務から逃れて、バイエルンの香り立つ春は青年の心を緩やかに解き放った。  『うたかたの記』は、そのころの青年鴎外が各国から同じミュンヘンの地へ留学してきた画学生たちと〈カフェ・ミネルバ〉に集い、のびやかな青春を謳歌した束の間の日々を舞台にしている。  紅一点

          美の来歴㊹ 留学生森鷗外が秘めた日本人画家の恋 柴崎信三

          美の来歴㊸ ピカソとヘミングウェイの〈移動祝祭日〉       柴崎信三

          〈ミス・スタイン〉がいたころのパリ  1903年のはじめ、ガートルード・スタインが兄のレオとともに移り住んだのは、パリのモンパルナスの北端、リュクサンブール公園に近いフルリュス街にある庭の付いたアトリエだった。まだ30歳にもならない女主人のガートルードは米国ペンシルベニアの富裕なユダヤ系の家庭に生まれ、一家で毎年休暇を欧州で過すうちにパリに移住して、美術品の収集のかたわらみずからも作家として小説や評論の筆をとった。そのアトリエはやがて、20世紀を代表する美術や文学の名作を集

          美の来歴㊸ ピカソとヘミングウェイの〈移動祝祭日〉       柴崎信三

          美の来歴㊷ 宮廷家族図が映すスペインの黄昏  柴崎信三

          フランシス・ゴヤ『カルロス4世家族図』の魑魅魍魎  そのころ、54歳のフランシス・ゴヤは宮廷首席画家という地位にあった。高給と自家用馬車があてがわれ、国王一族らの肖像画や教会の装飾画などを一手に引き受けたが、10年ほど前にアンダルシアのカディスでかかった疫病が原因で聴覚を失っていた。  国王カルロス4世や王妃のマリア・ルイーザとマドリードの宮殿や夏の避暑先であるアランフェスの「農夫の館」で会う時も、侍従を介した手話や筆談に頼らざるを得ない。もちろん音を失った生活は画家の日常

          美の来歴㊷ 宮廷家族図が映すスペインの黄昏  柴崎信三

          美の来歴㊶ マティスと猫と戦争と       柴崎信三

          猪熊弦一郎の「終わらない休日」  二匹の灰色の猫が明るいブルーの服を着た妻に抱かれて、鮮やかな橙色のソファの上にくつろいでいる。この「青い服」という油彩画は、戦後の1949年の作品である。若い日に心酔したマティスの色づかいをそのまま蘇らせたような、いかにも都会風のしゃれた油彩画だが、敗戦の荒廃からようやく抜け出ようという〈戦後〉の解放感が画面から伝わってくる。ひめやかな幸福感を漂わせた作品である。  〈猫〉はこの画家が若い日からずっと好んだ身近な創造のモチーフだった。妻の文

          美の来歴㊶ マティスと猫と戦争と       柴崎信三

          美の来歴㊵『虞美人草』と酒井抱一の屏風              柴崎信三

          漱石は〈藤尾〉に何を語らせたのか  冒頭に示した図版は、日本画家の荒井経による「酒井抱一作《虞美人草図屏風》(推定試作)」と題された作品である。夏目漱石の『虞美人草』で男たちを翻弄する美貌のヒロインの藤尾が驕慢と虚栄のはてに死に、その枕頭に立てられた幻の銀屏風。2013年にこれを試作した画家は「雛罌粟が空間を埋め尽くすように群生しているのか、わずかな花を儚く咲かせているのかによって、藤尾のイメージは大きく変わる。小説を読み直し、傲慢だが悪女というより未成熟な女性という藤尾を

          美の来歴㊵『虞美人草』と酒井抱一の屏風              柴崎信三

          美の来歴㊴ 〈フレンチ・カンカン〉とオッフェンバックのパリ  柴崎信三   

          ベル・エポックという時代の気分  画家のトゥールーズ=ロートレックが『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』という初めてのポスターを描いて評判になった。1891年のことである。もちろん〈ムーラン・ルージュ〉は、「赤い風車」を目印にパリのモンマルトルに生まれたキャバレーのことだ。  人気ダンサーだった〈骨なしヴァランタン〉のシルエットの向こうで、カンカンを踊るラ・グリュが片足を高く上げて「ギター」と呼ばれるポーズを決めている。黄昏色の背景には着飾った観衆の影絵と〈MOULIN RO

          美の来歴㊴ 〈フレンチ・カンカン〉とオッフェンバックのパリ  柴崎信三   

          美の来歴㊳ ある〈悲劇〉のモデルとその遍歴   柴崎信三

          「チェンチ事件」とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」をめぐって 16世紀末のローマで、非道と残忍の限りを尽くした貴族のフランチェスコ・チェンチが殺された事件の犯人として、その娘と妻が世論の同情を集めながら公開処刑された悲劇は、《チェンチ事件》として後世の多くの作家たちに書き継がれて今日に至っている。  例えばスタンダールは『チェンチ一族』で、この悲劇の主人公として断頭台に送られたベアトリーチェ・チェンチという22歳の美しい娘の肖像画を前にして、こう書き留めた。

          美の来歴㊳ ある〈悲劇〉のモデルとその遍歴   柴崎信三

          三島由紀夫という迷宮➀ 海と〈乃木神話〉   柴崎信三               

          〈英雄〉になりたかった人❶  そのころ作家の司馬遼太郎は幕末の攘夷派の志士、吉田松陰と高杉晋作を主人公にした小説『世に棲む日々』を連載しているさなかだったから、一九七〇年十一月二十五日の翌日の『毎日新聞』に「異常な三島事件に接して」と題して寄せた論評は、そこから三島由紀夫の死を論じている。  戦後日本を代表する華やかな人気作家が白昼、〈私兵〉の若者を伴って東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室を占拠、総監を人質にして憲法改正などへ〈蹶起〉を自衛官らに呼びかけながら果たさず

          三島由紀夫という迷宮➀ 海と〈乃木神話〉   柴崎信三               

          三島由紀夫という迷宮⑪ エピローグ 〈物語〉へ   柴崎信三

          〈英雄〉になりたかった人⓫  三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。  「あの日」に駆け出しの記者としてそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態が終

          三島由紀夫という迷宮⑪ エピローグ 〈物語〉へ   柴崎信三