ヴィレッジ岩屋顛末 第1章 三〇三号室 夕羽 第八話
連泊しているカプセルホテルの小さいラウンジで、夕羽は窓際のカウンター席に座り、紙コップに入れたコーヒーをすする。室内にはフリードリンクコーナーや、一人掛け用のソファと小さいローテーブルがいくつか、壁と窓に沿ってカウンター席がある。照明が少し落とされてこじんまりとした空間は、ミニチュアのバーラウンジみたいだった。
平日の夜は、女性専用カプセルホテルでもそれほど込み合っていない。室内は夕羽を含めて数人しかいない。施設にもよるが、このホテルは支給された室内着でラウンジも利用できるので、寝る前に過ごすのにちょうどよかった。
家を出てから二週間と四日。常に他人がいる空間で過ごすのは、自分の家で過ごすのとは違う緊張感があって、当たり前だがすごく疲弊する。でも小さい物音や話し声、人の発する息遣いは、誰かが、他の人間がいる安心があった。一人で誰もいない空間にいるのは、今の夕羽にとっては恐ろしい。
夕羽は、昼間見たヴィレッジ岩屋を指さして嗤う少女のことを考える。不思議なことに、遠目ではあったが、少女の顔貌がどうしても思い出せない。ただ、少女に似つかわしくない禍々しい笑い方だけ焼き付いていた。
卯月が襲われた事件について気になった夕羽は、会社に帰ってからネットニュースで検索してみた。そこで初めて、犯人が同じマンションの二階の住人ということを知りゾッとした。刑事の滝は、捜査に関係するからだけではなく、恐怖や不安を与えないように、その場では犯人のことを言わなかったのだろうと思う。だからこそ、マンション内でのトラブルについて聞いていたのかと腑に落ちる。
その上で、あの少女の『嗤い』を思うと、別の観点が見えてこないだろうか。
(卯月さんの事件も、私の部屋のことも、あの少女が何か関係している?)
滝は、特にマンションで事件は起こっていないと言っていた。でも、現に夕羽は説明のつかない「何か」に、ずっとまとわりつかれている。
夕羽には悪夢を見せて、卯月は階下の男に襲われた。起こっていることがバラバラで少女の狙いが全くわからない。そもそも二階の男はなぜ卯月を襲ったのか。
(――二階の男も、少女に何かされた?)
憶測の域を出ない。しかし、夕羽でさえ引っ越して来て二カ月強で逃げ出していることを考えると、マンション全体に影響があるナニカであれば、それより長く住んでいる住人達に影響が出ないとは言い切れない。
夕羽の部屋ではなく、ヴィレッジ岩屋に何かがあるのではないだろうか。そうであれば、これは自分だけの問題ではないのかもしれない。
しかし、内容が内容なだけに、下手に相談して話が広がるのは避けたい。学生時代の友人はまだ地元にいることも多く、自分の家族の耳に入ってしまうことも恥ずかしいような怖いような気がする。
(知り合いのなかで心霊関係に詳しそうな人……?)
連絡先がまだ繋がっているメンバーの中では相談できそうな人物がおらず、中高のクラスメイトを必死で思い出す。
夕羽は、鎌倉にある中高一貫の女子校出身だ。中高の周囲の友人はおっとりした秀才が多く、のんびりした学生生活だった。クラスでは人並みに怖い話もしていたが、せいぜい放課後や部活で話す程度で終わっていた。誰それは霊感が強いらしいとか、学校の七不思議の謂れなど、今考えてもたいして信憑性のある内容ではない話で盛り上がっていたと思う。
眼下に広がる夜景をながめながら、ふと、記憶の中にある美しい少女の、あまり見たことのない真剣な横顔を思い出した。
(そういえば、彼女は家が神社だったんだっけ? 薫は、なんか珍しい名字だった)
夕羽は、高校の二年次クラスメイトだった多知花薫を唐突に思い出した。
それほど親しかったわけではない彼女をなぜ思い出したのか。多分、高校二年最後のスキー教室での出来事が引っかかったのだ。普段見たことのない表情を間近で見て、はっとしたのだ。確かあの時、薫の家が旅館を運営していながら、神社も併設されている珍しい稼業だと聞いたはず。薫なら、この現状も茶化したりむやみに騒いだりしないで、とりあえず話くらいは聞いてくれるのではないだろうか。
(あの時、その場の雰囲気で肝試ししようと騒いでいた後輩や、何となく参加した私たちの中で、薫だけは状況を冷静に見て、遊び半分なのをやめさせようとしていた。そして多分本当に何かを恐れていた)
私が気付いたことは、薫も解っていた。面と向かって口止めされたわけではなかったが、家業をあえて教えてくれたのだろう、と思い出した。
今ならわかる。薫は多分知っていたのだ。この世には説明のつかないモノがあることを。
(薫……連絡はどうしよう? クラスのグループLINEはとうに解散しているし、メールは知らない。電話番号くらいならわかるけど、名簿は実家にある。誰か共通の友達に頼んでみる?)
いきなり電話するのも不審だろうし、何より薫が夕羽の番号を登録していなければ、電話を取ってくれるとは限らない。というか、女子校時代に厄介なファンもいたくらいの彼女なら、スマホを変えている可能性もある。
夕羽はようやく光明を見出したと思ったが、再び頭を抱えた。卒業して数年経っている昔のクラスメイトに、急いで連絡を取る方法がわからない。しかし、せっかく見出した蜘蛛の糸を簡単に諦めきれなかった。
薫と連絡が取れそうな同級生や後輩を思い出しながらLINEを送る。少し不自然かもしれないが、薫はある意味、女子校内で有名人だったし、言い訳はできるだろう。
それと並行して、薫に相談する内容を手紙にして保存することにした。少しでもこの不安な状況をやり過ごすために、何かしていたかった。