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【本の感想】宮沢賢治の音声言語感覚///読書をするための母国語水準

◼︎この本を読んだ感想を書きました
(朝倉書店『連続講座・絵本の愉しみ4 日本の絵本』吉田新一)(なかでも特に、吉田新一×瀬田貞二の対談記録、より)

◼︎追記:上記対談はまったく同じものが、(福音館書店『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論(下)』)に収録されていると後で気がつきました。

しかし縦書きか横書きか、カラー版かという違いがあり、朝倉書店はカラーで本紹介が載っています。


『連続講座・絵本の愉しみ4 日本の絵本』


宮沢賢治の日本語が豊かなリズムをもっているのは、年寄りから昔話をたくさん聞いて育ったからじゃないか?という推察が、瀬田貞二の口から語られていた。

そもそもは絵本論がテーマなので、瀬田貞二再話(赤羽末吉画・福音館書店)の『かさじぞう』の話からそこに派生するのだが……、

『かさじそう』の語り口のなかでも「ゆきがもかもかふってくる」という表現はかなり印象的ですね?という尋ねに対して、

「あれは妻が方言で覚えていた言葉をそのまま使った」とのこと。
(瀬田先生の奥様は長野県のご出身、年寄りからたくさんの昔話を聞いて育ったために、ご自身もとても優れた口頭伝承者だったらしい。)
(雪深い地方は昔話が豊富な傾向にありそうだ、なんとなくイメージがつく。)

「擬音語や擬態語には方言的な使用方法から生まれてくるものが多い」と。
そしてそこからヒョッと宮沢賢治の話に移行する。


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宮沢賢治は、エスペランティストだったことがよく知られているが、それ以前に日本の昔話をたくさん聴いて育っているはずだと、瀬田先生は語る。

私もそれは本当にそうだと思った。岩手は非常にそういう場所であるイメージ。そういえば柳田国男が遠野に魅せられたのも、あそこが口頭伝承の宝庫だからだった。

(私は瀬田貞二のナルニア国翻訳が大好きなのだけど、あれもまるで語るような、言葉が音声として頭に浮かんでくるような、流暢な翻訳である点が好きだ。瀬田貞二はそういう意味でかなり音声言語的な人なのだと感じている)
(そして宮沢賢治の童話も非常に音声的だ。声に出して読みたくなる感じ。)

賢治は岩手の花巻の言葉。
「雪がもかもかふる」瀬田さんのかさじぞうは長野県の下水内群の言葉。耳から聞いた言葉の印象があまりに強く、思い入れがあったとのこと。

思い入れのある、感情のよくうつりこんでいる言葉で書きたい、ということは作家ならば当然あることだし、

結局は、幼少期に耳から入った言葉たちこそが、教養の何よりの基礎で、そこに学校などの知識が乗っかっていくのだと……そういう話だと思った。

現に賢治も、岩手の言葉、エスペラント語を学んだ経験(あのカナ造語のセンスと世界に通じようとする意識)、法華経という仏教文学への耽溺、ぜんぶがミックスされてああいう独自の文学性が生まれているわけだ。

記録として残るのはどうしても、本人が物心ついて以降の経歴だが、やはり環境としての〝言語性〟、乳幼児期にどんな言葉を聞いて育ったかという考察は興味深い。賢治先生の言葉の素養……ものすごく面白いと思った。

実際に かたゆきかんこと雪渡り の記事でも書いたように、賢治作品にはわらべうたが登場するしね。

『風の又三郎』に出てくる「どっどど どどうど」みたいなリズム感も、『鹿踊りのはじまり』みたいな土着性の強い作品も、彼が耳から聞いて育った岩手の言葉を物語っていると思う。


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また少し話を広げるとして……。

瀬田貞二さんの戦後キャリアの始まりが、百科事典の翻訳からだったというのは、この対談記録を読んで初めて知った。

教育使節団の勧告もあったみたいだが、当時の瀬田さんが「まず百科事典だ!」と気づいた、その嗅覚がすばらしいと思う。

戦中教育からの脱却として、
これからの子どもたちは自由に勉強できなければならない
→自由に勉強するためには参考書というものがたくさん要る
→『コンプトンズ・エンサイクロペディア』『ブリタニカ・ジュニア』みたいな子ども用の優れた事典や図鑑が、外国にはあるのに、まだ日本には無い!

これが、児童書翻訳へ進む動機になったそうだ。


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瀬田貞二の語りを読んでいるとつくづく感じる。

『これからの人間は、自分の頭で考えていく必要がある』ってことに、当時の児童書界隈の人たちはすでに気がついていたのだ。1950年代の人々が、すでに。

読み聞かせ(子ども時代に耳から入る言葉)の重要性を思ったのも、事典や図鑑や調べものをするための参考書の充実も、要は〝言語力〟と〝学習力〟とは表裏一体だということで……。

尚且つ、それは一朝一夕にはつくられない、子ども時代からの環境的な積み重ねである、ということだ。

積み重ねとしての〝言葉〟や〝読書〟は、学校で良い点を取るための勉強とは別もので、権力中心の学校教育とは一線を画す。

(なんだか、あれも思い出す。
エレン・ケイの『児童の世紀』
あそこでも「家庭は学校の予備校ではない」と語られている。あれなんか1900年代の本なんだよな…。)

だけど、岩波少年文庫がのちに(1980年代くらい?)に巻末に載せた(今も巻末に載っている)、新装版のあいさつ文には、「物質的な豊かさにばかりとらわれて、子どもの事はなおざりだ」とすでに商業主義への恨み節?が現れているし、

景気良い時代が終わって不景気になったところで、子ども界隈は政治の利権にも振り回され、ゆとり→さとりと移行し、出版業界にいる人々のレベルも著しく下がったのかもしれない。

現状のように子育て世代が貧しくて、「新品の本は贅沢品」「本屋で本を買えるのは年に数冊もない……」そういう話になったら、

『名作だから読みましょう』『損はさせません』こういうコマーシャルになるのも無理はないかもしれない。

でもそれは、最初に瀬田貞二たちが思ったような、自由に勉強ができて、自分の頭でものを考えていくための、人間性の素養づくりである子ども時代の読書……からは少しズレてしまうわけだ。

私設文庫がそれぞれの審美眼をみがきながら自由に本を揃えていくのと、出版社がセレクトした『名作』だけが並ぶ本棚とは、かなり目的・環境的性質が異なる。

単に本が読めるということと、〝自分の頭で本が読める〟ということは、まったく違うのだと思う。
(上手く言えなくてもどかしい、けど、これしか言葉にしかできない。)



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例えば、自分で調べものをする能力が落ちている、ということもよく聞く。

私はバイリンガル教育を否定するわけではないけれど、

母国語は(せめてどちらか一つの言語は)自分で調べものが出来たり、できれば研究論文などが読めるくらいのレベルには、いつか到達しないといけない。


コロナ禍で学んだことのひとつに、『ファクトチェック』があった。

コロナ禍、恐怖は知性で少しずつのりこえられるということに、多くの人が気づいたと思う。

ウィルス感染の知識がたりないという課題に直面した時に、また、〝専門家〟と呼ばれる人々にもさまざまな意見の相違がある場合に、

TVの中の誰かの言うことを鵜呑みにしないで、専門書の一冊くらいは読みこんで、自分の頭で考えないと、本当に身を守ることができないと分かった。

そのためには、専門書を読めるくらいの水準に、自身の母国語のレベルが到達している必要がある。

(あと、昨今のトランスバッシング。やはり私はそちらに考えが向いてしまう。トランス差別の元になっているネガディブな先入観は、知識の更新をしていくことで相当減らせると思う。論理的な思考のクセづけと、医学的な根拠に基づいて話をすること……。)(まずは政治と法律に知識のアップデートを求めたいところだ。)



多文化共生だからってそのなかで子どもを放置してれば勝手に育つってわけではないのだから、
そこには大人が子どもをどう育てていくかの思考・判断力は必須だと思う。変なかたちの権力介入ではなく。

『自分の頭で考えていける子どもたち』を育てるためには、乳幼児期の読み聞かせの重要さに気づくこと、それから言語学習の骨格づくり……みたいなものを、再び、真剣に考えなければならない時に来ていると思う。

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