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全力疾走 結ver

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 2022年11月22日、午後三時の東京渋谷スクランブル交差点で大勢の人が血を吐いて倒れた。被害は拡大して、東京各地で謎のウイルスによって死者が多数確認された。世間はこの事を「東京血の海事件」と呼んだ。

 深呼吸をすることで、新鮮な空気を身体に吸収する。足を曲げ、足を伸ばし、腕を曲げ、腕を伸ばす。準備運動を終え、パーカのポケットからイヤホンを取り出して、両耳に装着する。そして、彼女は走り出す。
 今日の天気は晴れ。毎朝、出勤前に走る「戸高真澄とだかますみ」は今日も好調に走っていた。ストレッチの効いたジョガーパンツに、藍色のパーカ。髪の毛は昔からショートヘアである。学生時代から陸上をやっていた。そのルーティンは社会人になっても変わっていない。
 なぜ、いつも走っているのですか?
 そんな質問を投げかけてくる人がいる。真澄は走るのが好きだからと答える。その答えに対して、また理由を聞いてくる人がいる。果たして、そんなに理由を知ることは重要なのだろうか。
 真澄はジョギングしている年配者を次々と追い越していく。彼女の走るスピードはジョギング、ランニングレベルではない。全力疾走である。これを何度も行う。
 今となっては、顔馴染みになった老夫婦が笑顔で真澄に挨拶する。イヤホンから流れる音楽に、二人の声は届いていないがおそらく「おはようございます」だろう。会釈で返す真澄。
 ランニング時に流す曲のジャンルはバラバラだ。これといって、好きな歌手がいない真澄は適当に選んでいる。しかし、どれも全力疾走には合ってないような気がする。朝一番から猛ダッシュするのは真澄ぐらいだろう。

 自宅に戻って、出勤の支度を済ます真澄。テレビをつけると、報道番組が話題の大阪シティ構想について議論していた。番組には大阪府知事の「歌川敬一郎うたがわけいいちろう」が出演している。真澄は「この人、最近テレビに出ているな」と思いながら、朝食を摂る。

『……そして、跡地に大阪を象徴する大型施設の建設予定と。どういったものになるのでしょうか?』
『それについてはまだ詳しいことをお話しすることはできませんが、大阪シティ構想のプロジェクトには世界でも業績を上げている四谷観光さんに携わってもらっております』

 四谷観光。ホテル事業を展開する企業で、真澄が勤務する会社である。彼女が働いているのは大阪の支社で、第二企画部である。
 社会でも連日、大阪シティ構想の話題で持ち切りである。とにかく世間も、真澄の身の回りでも、その話題ばかりだった。四谷観光で働いていることを知っている両親はしつこく聞いてくる。しかし、自分は全く関係ない。事業を専門とする「大阪シティ構想実行部」の部署が存在し、彼らが動いていた。その部署に知り合いはいないし、接点もない為、詳しいことはわからない。たとえ、知っていたとしても会社の情報を話すことはできない。

 出勤した真澄は自分のデスクに座る。数分後、同期であり、高校時代の同級生でもある「掛川琴葉かけがわことは」が出勤してくる。彼女は朝から不機嫌な様子だ。

「何かあったの?」
「多分、着拒されたわ」
「着拒? 例の彼氏?」

 掛川には恋人がいるのだが最近、行動が怪しいと彼女は浮気を疑っていた。相談を受けていた真澄は事業を知っていた。

「違う。彼氏とは別れた」
「別れた……っていつ?」
「昨日」

 昔から、掛川の行動力には驚かされていた。まさか三年付き合って同棲も始めたのに、待っていた結末は破局だったとは。掛川もその相手と結婚するつもりでいた。別れを切り出したのは掛川の方らしい。

「彼のことはもうどうでもよくて、私が話してたのは占い師のサダ子のこと」
「サダ子? ああ、ずっと言ってた占い師のこと」

 頷く掛川。大阪で有名な占い師がいると聞いていた真澄。しかし、その占い師は神出鬼没でいつ、どこに現れるのか不明。掛川はずっと、その占い師を探していた。目撃情報がある日に限って、残業が入って嘆いていた。そんな彼女はやっと、占い師サダ子に会えたらしい。

「連絡先を交換したんだけどさ、全く反応なし」

 掛川のことだから、相手の有無も聞かずに強引に聞き出したのではないかと思う真澄。「へぇ」と相槌を打つ。
 着拒された怒りを露わにする掛川だが、占い師サダ子のことを評価している。

「次、会った時に問い詰める!」
「あんまり、しつこく執着するのは止めといた方がいいと思うけど」

 喉が渇いた真澄は自販機のある休憩所に向かう。掛川も一緒についていく。

[2]

 占い師サダ子に着信拒否されたことを未だに根に持っているのか、まだ愚痴を吐く掛川。ガシャンと缶飲料が落ちてくる音がした。

「占い師のサダ子? は、口コミとか嫌う人なんでしょ。連絡とか、嫌がるんじゃない?」

 プルタブを引いた真澄はすぐに飲み干し、近くにあったゴミ箱へ投げるようにして捨てた。

「でも、占い師って人と会話する仕事だよ? 苦手ってことはないでしょ。まあ……あの感じだと苦手っぽく見えたけど」

 第二企画部に戻る途中、例の大阪シティ構想実行部に所属する女性社員を見かけた。

「本社から来たあの子。私たちと同じ歳だよ。凄いわ」

 自分と同じ年齢の社員が活躍する姿に感心する掛川。他人と自分を比べない真澄はただ頷くだけ。

 夕日の下、河川敷で一人、念入りにストレッチする真澄の姿があった。
 朝の静けさと夕方の静けさは違う。見える景色も全く違った。朝練もあったのに、夕方が部活感満載なのは練習時間が圧倒的に長かったからだろう。
 首を回し、手首を回し、足首を回す。
 放課後、遊び終わった少年たちの帰る姿が真澄の目に映る。
 軽くステップを踏んだ後、両耳にイヤホンを装着し、ゆっくりと走り出した真澄。朝とは違って、ジョギング程度である。真澄の他にも、この河川敷でランニングする人がいる。
 自分が走る理由。もちろん、走るのが好きだからである。別に理由があるのだとしたら、それは落ち着くからかもしれない。昔からのルーティンとなっており、逆に走らない日があったら落ち着かない。誰だって、自分の決めている習慣が崩れたら乱れてしまう。
 真澄が走っていると、後ろから掛川が遅れてやって来た。ワイン色のパーカに、彼女も真澄と同じジョガーパンツを履いていた。真澄が掛川に同じものを勧めたのだ。
 耳につけていたイヤホンを外した真澄。

「真澄のおすすめのパンツ、動きやすいわ」

 頷く真澄。
 夕方はこうして、掛川と一緒に走っている。いつもではなく、掛川は度々残業があって来ることができない。その時は一人で走る。
 長距離選手だった二人は昔も一緒に走っていた。時の流れは早く、あと三年が経てば、高校卒業して十年になる。
 毎日走っている真澄に比べて、掛川は息が荒れていた。そんな彼女に「お疲れ様」と言葉をかけた。

「はあ……真澄は朝も走ってるんでしょ。どこ目指してんの?」
「別に」

 近くにあった木造のベンチに腰を掛ける真澄。息を整えた掛川も隣に座る。

「みんな今、何してんのかな。連絡取ってる?」
「たまにチャット来るけど、頻繁にやり取りはしてない」
「……彼は?」

 真澄の高校である時、問題が起きた。男子部員の一人が怪我を負った。後遺症が残るほどの重傷で彼はその後、退学した。それ以来、誰も会っていない。

「仕事が辛い時とかさ、思い出すよね。楽しかった昔のこと」

 掛川の言葉に首を傾げる真澄。過去のことを思ってもそれは過去でしかなくて、過ぎ去ったことに時間を費やしたくはなかった。昔のことを思い出すぐらいなら、明日のことを考える。
 ペットボトルを開けた真澄は水分補給する。

「楽しいじゃん、今も」
「それは真澄だけでしょ。あなたは走ることが好きなんだから」
「ほら! 走るよ」

 休憩が足りていない掛川の腕を引っ張る真澄。彼女はまだ走る。

[3]

 休日の昼間。一人暮らしの真澄は実家に帰ってきていた。地元で懐かしい男性と再会する。

「久しぶりやな、戸高」
「お久しぶりです……山形さん」

 会釈する真澄。彼は高校の頃、男子陸上部のコーチをしていた山形やまがた。服装はあの頃と変わらず、ジャージ姿でリュックを背負っていた。
 山形はまだコーチを続けているのだろうかと、真澄の脳内に浮かぶ。同時に過去の事故がフラッシュバックする。
 軽くお互いの近況報告をした後、山形は真澄にコーチをしないかと提案してきた。もちろんボランティアだが、また陸上に携わることができる。毎日するわけではなく、休日だけでも大丈夫と山形は告げる。

「一旦、考えさせてもらっていいですか」
「いい返事待っている」

 真澄はありがとうございますと、山形と別れて実家に戻る。
 家を出た真澄の部屋を、両親は何も手をつけずに残してくれていた。部屋で山形からのコーチの誘いを考えている真澄。自分は誰かに教えたりするのが苦手な方であるとわかっている。それは学生時代からで、後輩に教えるなどは掛川たち他の部員がやっていた。
 壁に掛けてあるコルクボードに視線を向ける。そこには高校時代の思い出の写真が貼ってあった。複数ある写真のうち、真澄は高校三年最後の大会時に撮った写真を手にする。今でも覚えている。あの時に交わした男子陸上部の一人との会話を。

「あと一歩だったな、戸高」

 男子女子関係なく、記念撮影で三年生の部員は写真を撮った。その後、男子陸上部の同期が声をかけて来た。入賞を逃してしまった真澄は悔しさを押し殺していたが、バレていたらしい。

「全国はやっぱレベルが桁違いだよな」

 彼の言葉に頷く真澄。

「戸高はあいつの為にも頑張ってたんだろ」

 いつも前を走る男子の背中が鮮明に頭に浮かび上がる。彼は真澄の前から姿を消した。何もなければ、彼はこの場にいたはずだ。

「私は自分の為に走っていた――速水の為じゃない。速水は勝手に諦めただけ」

 真澄は声をかけて来た男子から離れた。

 休日明けの出勤日。休憩所で真澄は山形と会ったことを掛川に話す。ついでにコーチの誘いを受けたことも。

「もしかして、受けるの?」

 掛川の表情が曇る。山形が起こした過去の問題は全国に知れ渡るほどで、今もコーチを続けていることが信じられなかった。関わることは避けた方がいいと助言する掛川。

「私は話を受けるつもり」
「なんだ。もう真澄の中で完結してんじゃん」

 彼女の言うとおりだった。一晩、自分の中で考えた末に出た答えはコーチを受けるだった。高校生最後の夏、悔しい思いは残ったままだった。自分が選手として出場するわけではないが、もう一度挑戦する。山形が教えている今の選手たちに頂の景色を見せてあげたい。

 休日。指定された競技場に訪れる真澄。入口で山形が待っていた。彼は誘いを受けてくれたことに感謝した。真澄はよろしくお願いしますと、丁寧に頭を下げた。
 競技場の中に入ると、すでに陸上部の中学生たちが練習に取り組んでいた。山形と真澄の姿を確認すると一斉に駆けつけてくる。

「こんにちわ!」

 元気の良い挨拶が響き渡る。この部活感を懐かしく思う。

「なあ戸高。みんなに走りを見せてやってくれ。100メートル」
「私、長距離ですよ」
「いつも走ってるんやろ」

 中学生たちの注目を浴びる真澄。断ることはできず、すぐに準備する。
 白線を前に屈む真澄。クラウチングスタートからゴールを目指し、彼女は走り出した。

[終]

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