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36、路肩に立つ男⑩ 逃げる僕達。僕の決意

僕と鳥山は公園を飛び出すと、降りしきる雨のなかをSくんから逃げる為に走り続けた。

「このまま彼が離れていくまで走り続けよう!」

鳥山は後ろを走っている僕に向かって、振り返る事もなく叫んだ。

「捕まったら確実に殺される! あの顔は完全にお前を殺そうとしている顔だ!」

僕も鳥山と同じように考えていた。Sくんの表情には、僕に対する憎しみ以外の何物も感じられなかったからだ。

「でも――」

僕は鳥山の背後で走りながら呟いた。

「でも、なんだ!」

「でも、Sくんをあんな霊にしてしまったのは、誰でもない僕なんだ!」

「それがどうかしたのか!」

「だから……だから僕は彼の魂を鎮めたいんだ!」

僕はSくんの家を後にしてから、ずっと心の中で思っていたことを鳥山に伝えた。……そうだ、彼をあんなにも恨みを募らせた霊にしてしまったのは僕なのだ。全て僕のせいなのだ。僕の……僕の……。

「鳥山さん、先に逃げて!」

そう言うと僕は、走るスピードを落とし足を止めた。僕は……とうとう決心したのだ。

「馬鹿、何をやっているんだ!」

鳥山は慌てて立ち止まると、焦ったような様子で僕に向かって叫んだ。

「先に逃げて! ここからは僕一人でやります!」

そう言うと僕は振り返り、50メートル程後ろを走るSくんをじっと待ち構えた。……僕は決心したのだ。僕はSくんに謝罪し、あちらの世界に行くよう説得しようと決心したのだ。それまでの自己中心的で卑怯者の僕だったら、Sくんを成仏させてやろうなんて絶対に思わなかっただろう。しかし鳥山からユージとの話しを聞いた僕は、このままではダメだと考えを改めたのだ。このままではSくんはユージと同じように延々と苦しむ。そして何よりこの僕も、鳥山のように延々苦しむ。それは絶対に嫌だった。

「Sくん、僕の話しを聞いてくれ! 頼むから足を止めてくれ!」

僕はSくんに向かって両手を広げた。しかし、Sくんは僕の訴えなど聞き入れる様子はなく、獲物を追いかけるチーターのように迫ってきた。それは、彼の耳が聞こえない事が理由ではなかった。彼の恐ろしい表情がそれを物語っていた。

「亘(わたり)くん、逃げろ!」

僕の背後で鳥山が叫んでいる。しかし僕はその場から動こうとはせず、Sくんに向かって両手を広げ続けた。

Sくんは血走った眼をしてどんどん僕に迫って来る。僕はSくんに向かって何度も「止まれ!」と訴えたが、Sくんが足を止める気配すらない。僕はいったん逃げようかと思った。……しかし、もし僕がここでSくんに殺されたなら、Sくんの魂は鎮まるのではないか? もしそうだとしたら、僕はここで死ぬべきではないか? そうだ、僕はここで死ぬべきだ。僕は、僕は――

「むぅあうあうぁあああ!!」

僕の眼の前まで迫ったSくんは、くぐもった声で何やら叫ぶと、僕に向かって飛び掛かって来ようとした。僕はその場で眼をつむった――。

「危ない!」

身体に強い衝撃を受けた。――しかし、それは正面からではなく右側からだった。Sくんが僕に飛び掛かろうとしたその時、鳥山が僕の身体の右側に体当たりをしてきたのだ。僕と鳥山はSくんの攻撃を紙一重でかわすと、二人揃って濡れた路面をゴロゴロと転がった。僕は右の膝を強く打ち、痛みでその場から動けなくなった。鳥山も背中を打ったのか、身体をそらして苦悶の表情を浮かべている。Sくんも転倒し身体を痛めたのだろう。僕らから少し離れた場所で、倒れながら身をよじっている。

「立て……立つんだ!」

鳥山はヨロヨロとしながら、僕の身体を起こそうとした。

「イヤだ……イヤだ!」

僕は鳥山の腕を振り払った。

「僕は死んだ方が良いんだ、Sくんに殺されて死んだ方が良いんだ!」

「甘ったれるな!」

鳥山は僕の身体を強引に起こすと、僕の頬に平手打ちを食らわせた。鳥山は両手で僕の胸倉をグッと掴むと、乱暴に僕の身体を引き寄せた

「どんな事があっても生きなければならないんだ! 俺たちのように人様(ひとさま)の命を奪った人間は、その罪を背負って生きていかなければならないんだ! 簡単に死ねると思うな!」

鳥山は両手で僕の胸倉を掴んだまま、眼に涙を浮かべていた。鳥山は突き放すように僕の身体を離すと、僕から顔を背けるようにして、大きく咳払いをした。

「……分かりました。ありがとうございます」

僕はヨロヨロと立ち上がると、眼に浮かんだ涙を拭った。……確かに鳥山の言う通りだと思った。自分の勝手な都合で人様(ひとさま)の命を奪い、恨みを募らせた霊へと堕としてしまったくせに、行き詰ると勝手に自分の命を絶とうとする。……そんなものは、確かにただの甘えに過ぎないのかもしれない。

「さぁ、とにかく今は逃げるんだ!」

僕はズキズキと痛む右膝をかばいながら立ち上がると、全く止みそうにない雨の中、鳥山と一緒にまた走り出した。Sくんもヨロヨロと立ち上がると、走って僕らを追いかけてきた。

僕と鳥山はこけつまろびつしながら、追いかけてくるSくんから必死に逃げ続けた。鳥山は何かスポーツをやっていたのだろうか、陸上部の長距離走者の僕に引けを取らない走りを見せていた。しかし僕は膝の痛みの為、段々とスピードが落ちてきた。鳥山も背中が痛むのだろう、背中をそらせたり叩いたりとしながら必死に走っていたが、僕と同じように段々とスピードが落ちてきていた

Sくんは40メートル程後方を走り続けている。以前、女の霊から逃げた時のSくんとは別人のようだ。Sくんは僕らに離される事なくずっと走り続けている。Sくんはそれほど僕の事を殺したいのだろう。そんな事を考えた僕は、Sくんに恐怖を抱かざるを得なかった。

「おい、このまま走っていてもラチがあかない! 何とかしてアイツを撒こう!」

「はい!」

僕と鳥山はSくんを撒く為に突然急旋回したり、わざと細い路地に侵入したり、ガードレールを跳び越えたり、時には赤信号を無視し横断歩道を突っ切ったりと色々な事を試してみた。しかしSくんは僕らに撒かれる事なく、必死の形相で後を追ってきていた。

さすがに僕も息が上がってきた。僕以上に鳥山もキツそうだ。……このままだとSくんに捕まってしまう。嫌だ、僕はまだ死にたくない! 何かSくんを足止めする方法はないだろうか? その時、鳥山が転んだりすれば僕だけ逃げおおせるのではないかと考えた。僕と鳥山は所詮他人だ。こいつが犠牲になれば――いや、それはダメだ! それはあまりにも卑怯だ。鳥山は二回も僕を助けてくれたではないか。それに裏切ってしまうと僕が苦しむ事にもなる。……でも、何か手を打たないとSくんに捕まってしまう!

「亘(わたり)くん、アレを失敬しよう!」

鳥山は前方のコンビニの駐車場を指差した。……そこにはモトクロスというのだろうか? オフロードで走るようなバイクの横で、一人の青年がカッパを着ようとしている姿が眼に入った。……まさか、あのバイクを盗もうっていうのか?

鳥山はコンビニの駐車場に滑り込むようにして辿り着くと、青年のバイクのシートに飛び乗った。

「お兄さん悪いな、少し貸してくれ!」

バイクを取られた青年は口をぽかんと開け、カッパを着ようとしている中途半端な格好のまま、鳥山の様子を眺めていた。

鳥山はバイクのキーを回すと、右手でグイッとスロットルを回し、エンジンを喧しく何度もふかした。

「後ろに乗れ、早く!」

鳥山はバイクに跨ったまま、左手でシートの後ろを指し示す。僕は一瞬躊躇したが、すぐそこまで迫ってきたSくんの鬼のような形相に恐れをなし、バイクの後ろに飛び乗った。

「しっかり掴まっていろ!」

僕は両手を鳥山の腰に回した。鳥山はバイクを急発進させると、跳ねるようにして車道に飛び出した。鳥山は弾丸のようなスピードで車道を一直線に走り出した。雨音とエンジン音に混ざって、Sくんの叫び声が聞こえてくる。後ろを振り返ると、雨で白く煙った道路上に、Sくんらしき姿が小さく見えた。

鳥山は減速する事なくバイクを走らせる。身体の至るところを雨粒が叩きつけ、風がひゅんひゅんと後方に流れていく。バイクのエンジン音も喧しく、身体全体も揺れたり跳ねたりとせわしない。しかし僕らは、いったんSくんから逃れる事ができた。

「これからどうする!」

鳥山が大声で僕に尋ねた。

「とりあえず彼から逃げる事ができたが、彼はきっと今日中にお前の事を見つけ出すだろう! だから全て今日中にケリをつけなければいけない!」

「分かっています、Sくんはきっとすぐに僕を見つけ出すでしょう! でも……」

「また、『でも』か! 一体なんだ!」

「でも、これ以上鳥山さんを巻き込めません!」

僕は鳥山の身体にしがみつきながら叫んだ。鳥山は何も言わなかった。

「鳥山さんは、もう十分僕の事を助けてくれました! あとは僕だけの事です! ユージさんの事は残念でしたけど、もし神様がいるなら、あなたが僕にしてくれた事をきっと神様は見てくれていたと思います!」

「……分かった」

鳥山はそう言うと、バイクを減速させ路肩に停車した。僕はバイクのシートから飛び降りた。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から青空が覗いているのが見えた。

「お前、一人で大丈夫なのか?」

鳥山はバイクに跨ったまま、じっと僕の眼を見つめた。

「分かりません。でも、ここからは僕一人で行動しないといけないと思うんです」

「亘(わたり)くん」

「はい」

「死ぬんじゃないぞ」

「分かっています。さっきの鳥山さんの言葉は忘れません」

「何か考えがあるんだな?」

「はい」

じっと僕の眼を見つめていた鳥山は、「フッ」と笑うと僕に右手を差し出した。僕も右手を出すと鳥山の手を握った。

「なかなか面白かったな。さぁ、俺はこのバイクをあの兄ちゃんに返しに行かねえと」

鳥山はそう言ってスロットルをひねりエンジンをふかすと、前輪を大きく持ち上げてウィリーをした。

「あばよ!」

鳥山は前輪をドスンと路面に着地させると、グルっとUターンをしてその場から走り去ってしまった。

僕は鳥山とは反対の方向へ走り出した。どうやってSくんの魂を鎮めるか、僕は全くプランがなかった。しかし、とりあえず僕はどこへ行ったら良いのかは分かっていた。――いや、それが正解かどうかは分からない。しかしそこに行く事しか僕には思いつかなかった。

徐々に雲が消え、晴れ間が広がってきた。濡れた路面や木々が陽の光を反射しキラキラと光る。僕はSくんに見つかる前にあの場所に向かって走った。

図書館の先、川沿いの遊歩道が途切れた向こう、林の中に見え隠れしている――Sくんの家に。


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