もう、なんにだってなれる気がした

「普通じゃない」自分で生きていくということ。

それを「強さ」だと言ってくれた人がいました。最近。

普通とはなにか。
普通の人生、普通の幸せとはなにか。
近年、よく話題になりますね。

生き方は多様化しています。
「普通」って何なんだろう。
これから先は、ますます曖昧になりそうな予感。

けれど令和2年の今はまだ、案外と「普通」の定義が残っていて、
そこから外れて生きるってのは不安なものです。

私は、誰よりも普通でありたい人間でした。
まわりと同じで良い。
まわりと同じが良い。
そういうタイプの人間。

30代にもなれば、
仕事でキャリアを積み、結婚して、出産して、子どもを育てて……

そういう人生を「普通」だと想像して、
そういう人生を歩んで行きたかったし、歩んでいくものだと思っていました。

現在。
描いていた未来予想図は、ひとつとして叶っていません。

国家資格保有であるのをいいことに、コロコロと転職し。
いまでは資格を放り投げて、別の仕事に夢中です。

結婚にも憧れない。
やりたいことがあるときには、恋愛すら面倒くさい。
たぶん当分、結婚はしない。

30歳を過ぎて、
急にエンタメ業界に入ろうとか作家になろうとか思いついて、
急ハンドル切って、ためらうことなくアクセルを踏んでしまうような人間。

ブレーキどころか、方向指示器も忘れるような生き方ばかりしてきた。

私は、自分のことを出来損ないだとか、はぐれ者だとずっと思ってきました。

働いて、恋をして、結婚して……
他の人がきちんとやれていることができない。
なんて落ちこぼれなんだろうと。

行きたい方向にすぐ行っちゃうのは逃げてるからで、
妻にも母にもなろうとしないのは勇気がないから。

描いていた「普通」になれないことが、ずっとコンプレックスでした。

冒頭の言葉は、
私の生き方を10年以上、そばで見てくれている医師が言ってくれたもの。

実際に、生きることから逃げていた時期もあって、
いいかげんな生き方をして、我慢がなくて、
厳しく叱られたことも何度もあります。

あと何十年も、こんな自分を抱えて生きていくのが本当に憂鬱だったから。

ただ普通でありたいだけなのに、普通にすらなれない。

自分はいつ、どこで欠陥品になったのかと思うと
ネガティブにしかなれなくて、何もかもどうでも良くなって。

そんな私を見てきた先生が、
ほんの1週間ほど前に言ってくれたんです。

「“普通に生きない“というのは逃げじゃない。力の要ることだ」
「シンさんは、その力を持ってる人だ」と。

もしかしたらこれまでにも、
そんなふうなことは言われたのかもしれない。

たぶん、今回はじめてきちんと耳に入って、心に刺さった。
通り抜けなかった。
タイミングってやつかなあ。

落ちこぼれだから、だめなやつだから普通に生きられないんじゃなくて、

普通に生きない強さを、みんなが持ってない力を持ってるんだって、言ってくれた。

そういう私だから見えてる世界、感じることもあるんじゃないかって、言ってくれた。

へそまがり選手権日本代表の私からすれば、
(まーた、うまいこと言っちゃって……)って気持ちも正直なくはない。

けど今は、
自分の生き方をちょっと悪くないと思ってる。

これまではさておき「今」の私。

私が、みんなと同じになれないように、
誰も、私と同じことはできないから。

医療しか知らないド素人が、思いつきでライターになって。
それでもいつのまにか、ちゃんと仕事になってる。

裸一貫でエンタメの世界に飛び込んで、
永遠に無縁と思っていた、憧れの世界に触れている。

ちょっとかっこいいじゃん私、
悪くないな私、なんて思ってる。

30年以上生きてきて、
ようやく「自分って悪くないな」って気持ちで眠れる、そういう夜にも出会えた。

普通の幸せに憧れる気持ちは、今もないとは言えないし、
コンプレックスがキレイさっぱりなくなったわけじゃない。

でも、こんな自分でもいいんだなって思ったとき、
そんなあなただからいいんだよって認めてもらったとき、

もう、なんにだってなれるような気がしました。

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