【村上春樹】走ることについて語るときに僕の語ること
自己啓発なら、この一冊で十分。そんなある書評を読んだが、確かにそうかもしれない。運動が脳(特に創作活動)に与える影響について、小説家のことばにヒントがあるかもしれないと思い、本書を購入したが、思いの外、自分との向き合い方について、示唆を与えてくれる文章だった。
ご本人も語られているように、小説家が、自らの私的な部分を開示することはあまりない。しかし本書はランニングという、村上さんの半生において、少なくない部分を占めてきた活動について、自らの半生について、率直に語られている。
僕には僕の価値観があり、それに従った生き方がある。他の人には他の人の価値観があり、それに沿った生き方がある。そのような相違は日常的に細やかなすれ違いを生み出し、大きな誤解へ発展していくこともある。その結果、故のない非難を受けたりもする。そのせいで心が傷つくこともある。しかし年齢を重ねるにつれて、そのような辛さや傷は人生にとってある程度必要なことなのだと認識できるようになった。他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。僕の場合でいうならば、小説を書き上げることができる。一つ一つの風景の中に他人と違った様相を見て取り、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶ方ができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。
そのような孤絶感は、時として瓶からこぼれ出した砂のように、知らず知らず人の心を蝕み、溶かしていく。それは鋭い諸刃の剣なのだ。人の心を守ると同時に、その内壁を細く絶え間なく傷つけてもいく。そのような危険性を自分なりに承知していたのだろう。だからこそ僕は、身体を絶え間なく物理的に動かし続けることによって、抱えた孤絶感を癒し、相対化していかなくてはならなかったのだ。
誰かにいわれのない非難を受けた時、期待していた誰かに受け入れてもらえなかった時、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、その分自分を肉体的に消耗させる。そして、自分が能力に限りのある弱い人間であるということを、改めて認識する。一番底の部分で、フィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走った分、結果的には自分の肉体をほんのわずかではあるけれど、強化したことになる。腹が立ったら、その分自分に当たればよい。悔しい思いをしたら、その分自分を磨けば良い。そう考えて生きてきた。黙って飲み込まれるものは、そっくりそのまま自分の中に飲み込み、それを小説という容れ物の中に物語の一部として放出するように努めてきた。
僕はそれほど頭の良い人間ではない。生身の身体を通してしか、手に触ることのできる材料を通してしか、物事を明確に認識することができない人間でなる。何をするにせよ、一旦目に見える形に変えて、それで初めて納得できる。インテリジェントと言うよりはむしろフィジカルな成り立ち方をしている人間なのだ。
なぜ続けられるか。それが苦痛ではないからだ。嫌になる事はある。だが一旦始めてしまえばそれを続ける事は苦痛ではない。あの瀬古利彦だって走りたくなくなる時はしょっちゅうなのだ。
ミステリー作家のレイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書くことがなかったとしても、私は1日に何時間は彼は必ず机の前に座って1人で意識を集中することにしている。」彼がどういうつもりでそんなことをしていたのか、僕にはよく理解できる。職業作家にとって必要な筋力を懸命に調教し、静かに意識を高めていたのである。そのような日々の訓練が彼にとっては不可欠なことだったのだ。
一方、才能にそれほど恵まれていないというか青春ギリギリのところでやっていかざるを得ない作家たちは、若いうちから自前で何とか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質をある程度まで才能の代用品として使うことを余儀なくされる。しかし、そうして何とかしのいでいるうちに、自らの中に隠されていた本物の才能に巡り会うこともある。スコップを使って汗水を流しながら、せっせと足元に穴を掘っているうちに、ずっと奥深くに眠っていた秘密の水脈にたまたまぶち当たったわけだ。まさに幸運と呼ぶべきだろう。しかしそのような行為が可能になったのもの、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけの確かな筋力を、訓練によって身に付けてきたからなのだ。晩年になって才能を開花させていった作家たちは、多かれ少なかれこのようなプロセスを経てきたのではないか。
どのような方法で、どのような方向から自ら補強していくかと言うことがそれぞれの作家の個性となり、持ち味となる。
ここまで休むことなく走り続けてきて良かったなと思う。なぜなら僕が自分が今描いている小説が、自分でも好きだからだ。この次に、自分の内から出てくる小説がどんなものになるのか、それが楽しみだからだ。1人の不完全な人間として、限界を超えた1人の作家として、矛盾だらけのぱっとしない人生の道をたどりながら、それでもいまだにそういう気持ちを抱くことができるというのは、やはり1つの達成ではないだろうか。いささか大げさかもしれないけれど、奇跡と言っても良いような気さえする。そしてもし日々走ることが、そのような達成を多少なりとも補助してくれたのだとしたら、僕は走ることに対して深く感謝しなくてはならないだろう。
同じ10年でもぼんやりと生きる10年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる10年の方が当然ながらはるかに好ましいし、走る事は確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
これは手間のかかる作業だ。しかしそこには自分が何か新しいものに挑戦しているのだと言う手ごたえがある。
職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的地が到達できないと言う事はもちろんある。そういう時はただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを、次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何か他のものに構造的に類似してしまうか。
大事なのは時間と競争することではない。どれくらいの充足感を持って42キロを走り終えられるか、どれくらい自分を楽しめることができるか、おそらくこれがこれから先より大きな意味を持ってくることになるだろう。数字に現れないものを僕が楽しみ、評価していくことになるだろう。そしてこれまでとは少し違った成り立ちの誇りを模索していることになるだろう。僕は記録に挑戦する無心の若者でもなく、無機的な1個の機械でもない。限界を知りつつ、何とか少しでも長く自分の能力と活力を保ち続けようとする1人の職業的小説家にすぎないのだ。
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