朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(7/27)

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1988年8月。
真壁玲子は、上司からの命令で、六本木の防衛庁庁舎に出頭した。
下されたのは、「フランク神津竜一を調査せよ」という指令だ。
陸幕調査部長の結城は、栄えある防衛大学校の一期生である。今年54歳であり、情報将校として名を挙げ、現在の幕僚監部の中では、ほぼトップに君臨する人間だった。

その結城は、真壁の存在を快く思っていない。
真壁が、韓国情報部(KCIA)からの出向者だからである、
表にこそ出さないが、彼は、生粋の右翼系国粋主義者である。

結城は、真壁が「韓国育ちの日本人」という事は知っている。
しかし、言葉を選ばずにいうと、彼は「韓国人嫌い」だった。

そんな韓国情報部員である真壁が、自衛隊に潜り込めたのは事情がある。
一つは政情、一つは個人のことだ。

1980年代後半、政治的には南北朝鮮関係は改善の方向を示していたが、1986年9月の金浦空港爆弾テロ、1987年11月の大韓航空機爆破テロという、北朝鮮による韓国への「攻撃」は度々発生していた。
しかし1987年12月に、盧泰愚が大統領に当選したことで、韓国は旧来の軍事国家から、ようやく民主化国家に変貌した。1988年9月のソウルオリンピック開催により、韓国内の情勢は急速に安定していく。
さらに1989年の米ソの冷戦終結により、武力から対話への外交が本格化する。
それにより、KCIAの韓国国内での役割は、終焉に向かいつつあった。
そこでKCIAの目線は、最後のスパイ大国「日本」に向けられた。

ではなぜ、真壁に日本の情報部への出向命令が出たかと言えば、「血は純日本人」であることと、「国籍の無い人間」だからである。
真壁はパスポートこそ韓国のものを所持しているが、これは公式のものではない。
真壁の親が、出生時に届け出をしなかった為である。
しかし出自は日本であることが判明していることから、「日米韓の情報部の橋渡し」とされたのだ。
韓国側からすれば、日本に対して「お荷物のお仕着せ」とも見て取れるが、そしてそれは、玲子の意図する方向に進めた結果だった。

これにより、真壁は「陸上自衛隊 東部方面隊 第一施設団 中央資料隊」と呼ばれるスパイ軍事組織に所属することになった。
神奈川県の「キャンプ座間(通称リトル・ペンダゴン)」にある、「米国陸軍 第500軍事情報大隊」に間借りしている。
役割としては、日本の全政治家、大企業経営者の女性スキャンダル情報等を集め、米国に逆らう場合にはそれをマスコミに暴露する事を仕事にしている、アジア最大のスパイ軍事組織である。

自衛隊が米軍基地内部に常駐する事ということは、異例中の異例である。
しかし、この超法規的組織が、「真壁玲子」を韓国KCIAから呼び寄せたのだ。
真壁玲子は、米国からも「肝入り」とされた訳である。

玲子は、調査を開始した。
調査の期間は問わず、予算もほぼ使い放題だった。
しかし人員だけは増えることはなく、玲子はひとりで神津の調査をしていた。
自分のやり方でできるということは、好都合だった。

そこから一人で、東京中を歩き回った。
周辺人物も調べ上げた。

やがて神津竜一と、自分の母「千鶴」が戦争末期の同じ頃、日本に来たことが分かった。
母の旧姓が、神津であることも分かった。
母の夫だった「城所正治郎」はすぐに見つかった。
まったくの偶然ではあるが、フランク神津竜一を調べることは、自分の出自に関わることを調べることと同義だった。

CIAが関わっていた筈だが、40年前のことだけあって、母の事を調べるのは骨が折れた。
「公式」にはCIAは関与しておらず、記録にももちろん残っていない。
ワシントンにいる「仲間」からの情報も得ることが出来なかった。
さらに外交ルートで、CIAの情報を得るには、昔過ぎた。

日本の公安・情報機関と、CIAの隠された関係を白日の下に晒したいわけではない。
そしてそれ以上に、日本とアメリカが、フランク神津竜一をどうしたいのか、が気になっていた。

国内のCIA関係者にあたりをつけ、行きついた人物がいた。
元防衛庁幕僚長、佐々木煕だった。
陸軍中野学校出身で、戦時中は満州国の関東軍参謀部に所属し、警察予備隊を経て、防衛庁幹部に上りつめ、退官後は大手ゼネコンの顧問となっていた。
真壁による厳しい拷問の末、佐々木は全てを語ることは無かったが、「いまも日本で、生きている」という言質を取ることができた。
古参の大物諜報員を「落とした」真壁は、「筋金入り」ということがよくわかる。
所在はおろか、生死さえ分からないフィクサーが、「日本で、生きている」ということが知れただけでも、玲子にとっては大収穫だった。
居場所を突き止めるのは、時間の問題だと思った。

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