朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(6/27)

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城所老人にも若い頃が、当然あった。
しかし、青春と呼べるようなものだったかどうかは、本人が判断するところだ。

昭和19年(1944年)。城所は、早稲田大学の学生だった。
大学生とはいえ、入学時からほぼ学問をしていない。当時は軍事教練が強化され、大学に戦時労働力確保のための軍隊的機構が導入された。
城所の通う大学でも、学徒錬成部が昭和15年(1940年)に創設され、大学総長を隊長とする全学12部隊34大隊から成る「報国隊」が他大学と共に結成された。昭和18年(1943年)10月には、文科系学生の「学徒出陣」となった。

こうして、城所もほかの学生と同様、戦地に赴いた。
待っていたのは地獄だった。
昭和19年(1944年)10月、海軍航空隊の任務で赴いたフィリピンのルソン島の基地は、到着直後から米軍の猛爆撃にさらされた。赴任して5日後に左足に傷を負い、帰国となった。その後、ルソン島では、1カ月半で50機以上あった戦闘機の大半を失い、隊員約400人が戦死したと伝え聞く。

そのタイミングで帰国できたのが、幸運だったのか、不運だったのかは分からない。
東京では空襲が続き、治療どころではなかった。医療物資も不足しており、医者に足を切断する可能性を示唆された。結局、持ち前の丈夫さで、左足はいまも城所についている。

在籍していた早稲田大学は、1945年(昭和20年)5月の大空襲で、その建物の3分の1を消失した。
終戦後、彼は大学に復学し、教員免許を取得した。
その2年後、新制中学の教師として、新たな人生のスタートを切った。自身も中学、高校と入部していた、バレーボール部の顧問にもなった。

思い返すと、戦争は、極めて悲惨だった。
城所は当時、東京の下町、深川区(現在の江東区)に住んでいた。
東京空襲について、一般に死者10万人といわれるが、真珠湾攻撃から5カ月後の1942年4月の最初の空襲から、最も被害の大きかった1945年3月10日を含めて、終戦の日まで130回以上もの連続的な空襲があり、死傷者・行方不明者は25万人、罹災者は304万人と記録されている。犠牲者の数だけ見ても広島・長崎、沖縄戦をこえる規模だ。
特に悲惨だったのは、なんといっても「東京大空襲」である。
1945年3月10日の大空襲のように、たった2時間余りで10万人以上を殺すような空爆は、世界中で後にも先にもない。

米軍は、春風の強く吹く3月という時期に、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾を開発。空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域を、とり囲むように爆弾を投下している。
火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人々に機銃掃射までやっている。

それにしても米軍は狡猾だった。
25万人もの市民を殺戮しながら、「意図的に」攻撃対象から外したものがある。
代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。

皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢は、船中でさえ無傷だった。
赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だった。
東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街は、戦火を免れた。
三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルは被災しなかった。
マスコミも同様に、朝日新聞、毎日新聞、NHKは残った。
永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などは、空爆被害に遭わなかった。
上野公園に隣接する、三菱財閥統帥の岩崎弥邸も攻撃を受けていない。
広島、長崎、下関空襲でも、三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。
東京でも、軍施設はほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も、周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。
代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。
工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。
全滅した深川区に隣接する、豊洲の石川島造船所、佃島や月島など東京湾に面した工業施設、京浜工業地帯の蒲田・川崎でも、中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。

ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。
つまり、「無差別爆撃ではなかった」のである。
絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すという、極めて明確に選別していたのだ。
原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むためにした、大量殺戮だったというアメリカ側の事情が見える。

駐留米軍により、国民抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加え、首都圏の人々は、とにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。

食料を意図的に統制したので、戦後の方が、食料難がひどかった。
当時の調達係の人が証言していたが、米軍が「国内の食料倉庫」を統制して食料危機に追い込んだ。
米軍は、関門海峡などの機雷封鎖も「スタベーション(飢餓作戦)」と名付けていた。
国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。
都市部はとにかく食べるものがない。
配給でもらった大豆を水で膨らませて食べ、空腹をしのいでいた。
餓死者が出るような飢餓状態に追い込んでおきながら、米軍は、家畜の餌になる食料を「ララ物資」として日本に持ち込んだ。

空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないので、みんな市外に出て行った。
戦時中の疎開よりも、状態はひどかった。
これにより、戦後の国民で、進駐軍に刃向おうという者は出なかった。
まったくアメリカの掌で転がされていたのである。

戦後50年経過した今、城所はアメリカに対して、敵意を持つものではない。
しかし、食べ物の恨みは、忘れられない。
だからこそ、今でも好きなものを腹いっぱい食べたい。

かつ「社会科の教師」だったことから、社会問題・時事問題への関心は人一倍高い。
ドイツとの比較を、最近改めて考えることが多い。
同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は、戦後みんな追放された。新聞社も、みな解散させられた。
ドイツは、連合国による全面講和を結び、一国に縛られなかったから、西と東で分断こそされたものの、独立の自由性があった。
ドイツは自国で、平和教育を徹底した。日本が受けた「ウォー・ギルト・プログラム」のような、お仕着せの教育ではない。
それこそが、アメリカが単独占領した日本との違いだ。
1990年代の、米ソ・二極構造が終わったときも、ドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くことになる。

PKOで、日本の自衛隊が派兵されるという議題が進んでいる昨今、日米の軍事関連については調べるようになっていたし、自身の戦時中・戦後の体験からも、問題意識を持っていた。
暇だから調べる時間がある、という一言では言い尽くせなかった。
しかし周囲は、そんな城所の考えることなど、ついぞ知る由はなかった。

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