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瞑想にハマったキッカケ

今回は「10秒もジッとしていられなかった自分が瞑想にハマったキッカケ」を書いていきたいと思います。

瞑想との出会い


私は以前からバックパッカーとして、リュック一つで海外を気の向くまま旅することが好きだった。訪れた国は10ヶ国程度でそこまで多くないのだが、その中でもインドには3回ほど取り憑かれた。

インドはとても刺激的な国でバックパッカー内でも「何度でも行きたい派 or 二度と行きたくない派」に分かれるのが有名だ。
これは恐らく日本という世界と真逆すぎることが原因だと思う。もちろん私は何度でも行きたい派です。

インドには「リシケシ(リシュケシュ)」というビートルズのメンバーが瞑想した場所があったり、ブッダが瞑想をしていた菩提樹がある「ブッダガヤ」という町もある。とにかくインドは信仰・宗教が複雑に織り混ざっている混沌とした国なのだ。

私も3度目のインド滞在の際にブッダガヤを訪れた。


ブッダガヤにはマハーボーディ寺院という大きな寺がある。
そこにはオレンジの布をまとったチベット系の僧侶だったり、長いドレッドをこしらえた欧米人だったり、様々な人種の人たちで混雑していたのを今でも覚えている。

「ものは試し!」ということでちょうど良さげな芝生があったので、無宗教で無神論者だった私も瞑想してみることにした。


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30秒ほど経ったであろうか、限界だった。

観光名所になっている場所なので周りはガヤガヤとし(ダジャレじゃない)手元の貴重品が気になり、瞑想というよりか「瞬き」に近い体験になってしまい私に瞑想は合わないんだと悟ってしまった。


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瞑想で軽く飛ぶ


何度目かのLSDトリップの最中に、泊まっていた一軒家の庭で日光浴をしていた。

一緒にいた相方と庭で一服をしながら話をしていて、飲み物を持ってくるか何かで相方は家の中に戻った。

綺麗に整備されていた和風の庭には歩くための石が地面に埋め込まれていた。
等間隔に5つぐらいが並んでいたであろうか、その真ん中の石をじっと見つめてみた。


顔を動かさず目玉も動かさず石を見てみると、石の模様が禍々しく揺れている。
模様は右から左に流れていたり、ぐるぐると回っている部分も何箇所かある。
その石の真ん中あたりにもの凄い勢いで回っている部分を見つけてしまった。

これは網膜が動いているのか?とても気になったので、その激しく回る部分の中心を奥へ奥へと深く目線を尖らせて見てみた。


規則正しく回る模様を眺めていると音に集中している自分がいることに気づいた。何というか「模様を見ている自分+音を聞いている自分」に分かれていたのだ。
言葉にするのが難しいが「模様を見ている自分」は確かに存在していて、それと同時に「音を聞いている自分」も存在している、そのため音に意識を向けることができたのだった。

静かな空間だったけど耳を澄ませると風の音・近くを走る車の音・子供の声・葉っぱのざわめきなど、私はたくさんの音に包まれていた。
今まで見たことない世界が目の前には広がっているのに、聞こえてくるのは今までも聞いたことのある音だったので、その不釣り合いが何とも不思議な空間を作り出していた。


その時ふと「目を瞑ったらどうなるのか?」という疑問が浮かんだ。


しかしその疑問と同時に「恐怖心」も芽生えていた。


私はあまり恐怖を感じるタイプではなくて、もちろん心霊スポットなどは怖いけど日常生活で恐怖を感じることはほとんどなかった。

しかしその時は日常の中にいたのにも関わらず、一度でも目を瞑ればこの世界に帰ってこれないかのような感覚や、どこか違う世界に行ってしまうような感覚もあり凄く怖かったのを今でも覚えている。


でもそんな経験が出来るのも今しかないと自分に言い聞かし腹を括った。


目を瞑るとそこは何もない世界だった。
何もないというよりか「何も見えない世界」といった方がシックリくる。

光が当たっていたので目の前は暗闇ではなく白く明るかった。
目を開いている時よりも音は鮮明に聞こえていた。
私たちがいかに視界に頼って生きているか、視界がないとこんなにも不安になるのかとその時に気づくことができた。

落ち着きよりも不安の気持ちが勝っていた私は「自分が呼吸していない」ことに気づいた。「瞑想中は呼吸が大事」と何かで見た気がしたので、鼻から空気を吸って口から吐き出す腹式呼吸に集中してみることにした。


何度か呼吸をしているうちに不安は徐々に消えていった。
自分が世界に溶けていく感覚、もちろん縁側に座り呼吸をして音を聞いている自分は確かに存在しているんだけど、自分と世界を隔てる境界線が消えていく感覚になった。

全ての音が心地よく私を包み、目の前には光が広がり、普段の日常では到底味わえないような全てが満たされている体験をした。


するとすぐ後ろの扉が開いて相方が現れた。

とにかく今あった不思議な出来事と体感としては40分ほどその状態にあったことを話してみた。しかし相方の一言に私は驚愕した。




なんと5分しか経っていなかったのだ。


この体験を通してLSDが「インスタント禅」と呼ばれる理由が分かったし、LSDを使わなくても瞑想で近い感覚を味わえることも分かったのだ。

LSDとは目を開けて体験できる瞑想なのである。


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