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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー⑥

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第5話(前回)↓

 石炭をばはや積み果てつ――。

 軽やかなタイトルに暗然たる冒頭文をあてた小説を半分読んだところで本を閉じた。
 少しのぼせて、足掛けに座り湯から半身を出す。アーチ状になった展望窓のむこうには、坂に沿った古い町並みと、雪で山肌が強調された南アルプスが広がっていた。朝もやがそのまま溶けたような白群の空が、稜線をいっそう眩しくさせている。

 年末は時計もせわしなく走るのか。気づけばもう大晦日だ。
 やることも一緒に過ごす人もいない現実には目を瞑り、私は町の温泉なんかを年の湯にしていた。

 湿気で波打った文庫本は、秋に三年生が履修した範囲だった。小説も評論も短歌も、教材は必ず持ち歩くようにしている。授業を終えたあとも鞄から出し忘れていた一冊を、気まぐれに温泉へ持ち込んだ。

 大雑把なくせにブックカバーを付けるメグミは「信じられない」と眉をひそめるが、「本は文字を追えりゃあいいんだよ」なんていう琢磨先生は、風呂場にも本を持ち込むらしい。
 なんなら昼休みには重石代わりに弁当箱を乗せて、おかずをこぼしたりしている。それは読解に支障が出るのではないかと思いつつ、私もそちら側の人間だ。

 けれど世間では私の行為は珍しいのか、正面に座る同世代らしき女性が私の手元をちらちらと覗いている。気を抜くと目が合ってしまうので、本を開いて顔を隠した。

 雅文調も相まって、今年も去年もおととしも、生徒たちはみな、宇宙の年表でも聞かされているような顔で授業を受けていた。

 立身出世か恋人か。
 一言でまとめると陳腐めいてしまうけれど、いつだって何かの間で揺れているのが人間だ。決断なきままの行動。不完全な人の弱さ。幸せの定義。移り変わるときの中にも通ずる普遍性に気づいたのは、大人になってからだった。
 
「なに、あんたもどっか旅行に行くの?」
「んー、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ帰ってくればいいじゃない」

 スマートフォンを耳と肩で挟みながら、緩めのデニムパンツに脚を通していく。電話越しの母は、今銭湯だからという私の言葉は都合よく無視して、ひとつひとつ近況をまくし立てたあと、今夜の予定を訊いてきた。
 脱衣所には誰もいない。諦めて籐編みの椅子へ腰を下ろした。

 市内に住んでいる母は、年末に私が実家へ帰らないことが不満なようだった。メグミは漁師料理みたいな名前の彼氏と京都へ行くらしい。そうなると、口が鉄でできているような父と兄だけになり、おしゃべりな母は退屈なのだろう。

「だって、お兄そっちにいるでしょ」

 実家に帰らないのは兄と顔を合わせたくないからだ。

「いるいる。いるんだかいないんだかわからないけど。自分で連絡すればいいのに、『ツグは帰ってくるか』って朝から三回も訊いてくるのよ」

 そういうところお父さんにそっくり、と母はお決まりの文句を口にした。

「じゃあやっぱ帰らない」
「いい年して喧嘩でもしてるの?」

 出入口と浴室から同時に人の気配がしたので、短く断りを入れて電話を切った。続けざまに二人が血色の良い顔で出てくる。広くない脱衣所は鏡越しにすべてを見渡せた。

 パンツ姿で走り回る小さな男の子と、その背中を追う母親。私と同い年くらいの女性、お腹の目立ち始めた妊婦さん。薄い髪をドライヤーの風で撫でている七十がらみの老婆は、なぜか全裸のままだった。
 大晦日の昼間にわざわざ温泉へ来る人も少ないようだ。

 脱衣所にしては広過ぎる窓から差し込む光が、もうわずかに黄色味を帯びて柔らかかった。
 
「あの」

 出口の赤い暖簾をくぐったところで、ためらいがちに肩を叩かれた。

「百円……ロッカーのお金、忘れてますよ?」
「ああ! すみません。ありがとうございます」

 湯船で正面に座っていた女性だった。艶のあるナチュラルブラウンの髪を左サイドで抑えながら、もう片方の手を私へと差し出す。

 何度か目を合わせているものの、瞼を閉じるとすぐに記憶から抜け落ちていく。そんな特徴のない顔立ちの人だ。奥二重の瞳も、少し丸い卵型の輪郭も、薄い唇も、百人の女性を混ぜ合わせて平均化したら作れるような、凹凸のない石みたいにつるりと引っかかる点がない。
 それでも美人と言い難いのは、右半分の顔が少し下がっているせいか。それだけが唯一の特徴だった。

 私より頭一つ小さい、華奢な彼女と似た薄い手のひらから落ちる硬貨を見つめた。

 ロッカーは鍵をかけるのに百円が必要で、使用後には返却されるシステムだ。鍵の盗難防止のためだろうが、返すのであれば無料で使わせてほしい。

「よく忘れちゃうんですよ」
「ロッカーのお金って策略ですよね。このお金でついつい飲み物を買っちゃいますもん」

 策略などと大げさな単語を大真面目に口にして、女性は隣の自動販売機に目を向けた。

「わかります。コーヒー牛乳とか飲んじゃいますよね」

 けれど今は物価上昇の波が押し寄せ、一本の牛乳すらワンコインでは買えない。それでも習慣とは恐ろしく、女性は小銭入れから三枚の銅貨を取り出した。

「そういえば、お風呂で本を読んでいましたよね」
「ああ。妹には信じられないって怒られるんですけど、読めればいいかなって。意外と破れたりしないんですよ。文字も滲みませんし」
「うちの人も同じことを言うんですよ。新しい本を買ってきても次の日にはもうヨレヨレになってて、おかしくなっちゃう」

 彼女が口にする「うちの人」という言葉には、牛乳を手にしたあどけなさとは対照的に不思議な上品さがあった。うちの人。聞こえないようにそっと口の中で繰り返してみる。ありふれた、けれど特別な情愛も感じられる表現だ。

「それで、いつまでもお風呂に入ってるんですよ」
「へえ。結構いるんですかね、そういう人」

 緩慢にコーヒー牛乳を運ぶ自動販売機を目で追いながら、耳だけを傾ける。

 あ、と声を漏らすと、彼女はマキシ丈のフレアスカートを翻して歩きだした。屋台のクレープ生地を思わせる裾が、動きに合わせてゆったりと揺れる。

「ごめんね。待たせちゃった?」

 背を向けて椅子にもたれている男の人が、彼女の旦那なのだろう。

「おお。ちょっと長くなかったか? のぼせて――」

 フルーツ牛乳を飲みながら振り向いた彼の声は絶たれ、同時にひどく咳こみ始めた。
 一口目のコーヒー牛乳が鼻に回りかけた私も、そっくりの形相をしているに違いない。

「ちょっと、たっくん大丈夫?」

 服の袖で口元を拭っている男を、私はよく知っている。交わってしまった視線を反射的に逸らして、牛乳瓶を強く握りしめた。

「あれ? もしかして二人共、知り合い?」

 今の状況を示すわかりやすい単語があったはずだ。使い古された表現さえ出す余裕のない脳は、まだ浴室にいるのだと勘違いしているのかもしれない。代わりに変な汗を溢れさせてきた。心臓が野次馬みたいに騒ぎ出し、つられて体中の血管が絡まったように脈は早まっていく。

 うなじに流れた粟粒の汗にタオルを当てながら、私は演技くさい穏やかな微笑を浮かべた。

「よ、よう」
「偶然ですね……佐久間先生」

 今年はまだ、終わってくれそうにないらしい。

【続き↓:第7話】

【第一話】

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