【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー①
「五十嵐先生、私と付き合ってくれませんか」
生徒を“卒業”する日の告白に、なんの問題があるだろうか。五歳。それが私たちの間にある誤差みたいな年齢差だ。驚いて目を見開く先生は、小柄な背丈と丸みを帯びた顔の輪郭が相まって、きっと未だに年齢確認をされている。
そしてなにより、彼女いない歴五年、建設中の鳥の巣みたいな髪をかく先生が、まんざらでもなさそうに口元を緩めたのを見逃さなかった。
「あー。おまえ、アレだな。周りの男子が子供に見えて、大学生の彼氏とか欲しがるタイプだろ?」
事実、私は先生に指摘された通りだったのかもしれない。クラスの男子たちとは違い、躍起になって頭髪を整えようともせず、彼らが気にし始めた髭を無精に伸ばし、コソコソと入手する煙草を堂々とふかす。そんな姿に惹かれた。
そのどれもが褒められた大人の素行でないと気づけないくらいには、私も“子供”だったのだ。
「そうだなあ、ツグが教師になって戻ってきたら付き合ってやるぞ」
だから、にやけ顔で吐いた冗談を真に受けて、
「わかりました。じゃあ私、教師になるので」
高校の卒業式に、四年後の進路選択までしてしまった。
突然教師になると宣言した私に、親兄妹は揃ってなぜだと疑問を投げかけた。その問いの答えを誰に言えるはずもなく、けれど繰り返す季節に意志が薄れることもなく――。
***
「次、多加木くん。……あれ? ちょっと、多加木くん起きて! というか、教科書くらい開いてよ。……三沢さん、起こしてくれる?」
――七年。母校に帰ってきた私の、教員生活三年目の今年が終わろうとしている。
「ツグ、今夜暇か?」
「暇になるように見えるんですか?」
紙の上で小気味よい音を立てていたペンを止めると、どっと周囲の気配が流れ込んでくる。だるまストーブに置かれたやかんの囁き、廊下に響く生徒たちの喧騒、吹奏楽部の伸びやかな金管音。そして足元で渦巻く冷気。いつの間にか窓の外は澄んだ夕景色に覆われていた。
「先週、誕生日だっただろ? だから飯でもどうかと思ったんだけどな」
「まあいいですよ。どうせ今日中には終わらないので持ち帰りますし」
ずり落ちてきたバレッタを外し、肩を覆った髪を低位置でひとつに留め直す。抜けた一本の黒髪を床へ払って、先生に目を向けた。
「寒いから鍋にしません? 琢磨(たくま)先生も鍋が食べたいって、昨日言ってたじゃないですか」
「おお、そうだ。今日も鍋の気分なんだよ」
仕事も惰性になりだす時間。放課後の国語準備室には、そぐわない会話を繰り広げる私たちしかいなかった。
「集計なら俺も手伝うぞ」
顔をつき合わせ働くようになっても、先生にとって私は教え子のままらしい。自分の方がやることは多いのに、軽い調子でいつも私の机上から仕事をさらっていく。
「相変わらず設問を作り過ぎなんだよ。一点配点の問題を二十問も作ったら、解く方が可哀そうだろ?」
先生をいなしつつ採点を進める。空白ばかりを作る生徒には嘆息しつつも、仕事が捗る側面もあり複雑だ。
「どれも重要な気がして」
「だからって全部入れてどうする。だいたい高一の古典が大人になって役立つ日なんか来ねえから安心しろ」
「私たちがそれを言ったらおしまいじゃないですか」
二年と八ヶ月で思い知ったのは、教職にも向き不向きがあるということだろう。天職となるのは、すべてを情熱で突破するグレートティーチャーか、生徒も他人なのだと割り切れる人種か。今のところ前者に会ったことはなく、目の前の先生は後者の代表格だ。私はどちらでもないから、雑事に忙殺されながらもこんな思考を巡らせている。
「ツグが作る問題は、小難しくてわかりづらいんだよな。悪い意味で」
「すみませんね、性格が良くないもので」
「いやいや、そうじゃなくて。なんだろうなあ、重箱の隅を突きまくってぶっ壊そうとしている、みたいな問題ばかりというか。大局観が足りないんだよ、昔から。バスケでも仕事でもよー。ほら、少しはメグを見習えって」
「メグより私の方がタイプだって言ったのは先生じゃないですか」
「今はそういう話じゃないんだよ」
学生時代、先生が気さくに話していたのは、どちらかといえば私の妹であるメグミの方だった。男受けも彼女の方がよい。けれど、メグはないな、なんて台詞を先生は平然と口にしたりする。
私はどうやら『アリ』になれたらしい。
「それより、大丈夫なんですか。今日は」
バツ印が目立つ解答用紙から目を逸らした先に、肯定とも否定ともとれる声を出す先生の無骨な指が並ぶ。
「まあ、なんだー? 師も走る十二月だからな。重めの残業とでも言っておくよ」
「僧侶でもないでしょうに」
しかし実際、全力疾走でマラソンをするような季節だ。担任を持たない私すら頭に血が上り続けているのだから、いわんや琢磨先生をや、と思いきや、あくびをしながら通知表を開いた先生は、私の部屋でテレビを見ているときと大差なかった。
やる気と成果は比例するわけでもないらしい。
私よりも低い、背伸びでようやく平均に届く身長のくせに、手ばかりが不釣り合いにたくましい。長い指がくせ毛をかき上げると、きらりと白いものが光った。
「前髪に白髪ありますよ」
「え、嘘だろ」
三十歳には見えないが、出会った頃に漂っていた学生じみた雰囲気はさすがにない。七年の歳月は、あらゆるものを変えてしまうには十分だった。
照明の下で輝いたのは先生の髪ともうひとつ。左手の銀色が控えめに揺れた。その光はもう見慣れているのに、何度も針の鋭さで心を突いてくるようだ。
教育実習で再会した先生が、驚きの中にバツの悪い表情を浮かべた理由を、私は翌年、一年越しで知ることになる。元教師、元顧問から同僚になった先生の苗字は、五十嵐から佐久間に変わっていた。
「どうして、結婚しちゃったんですか」
「いやさあ。本当に教師として戻ってくるなんて思わないだろ、普通」
もっともらしいことを言われて終わり。それで諦めていた方が幸せだったのかもしれないと、今は思う。
「琢磨先生」
佐久間琢磨なんて、よく婿入りを決めたと驚く名前になってしまった先生だが、これがまた便利だったりする。
「鍋、寄せと水炊き、どっちがいいですか? 豆乳も結構おいしいですけど」
こうして呼んだ名前を誰かに聞かれたとしても、聞き間違いだったのでは、と言い逃れができる。
「あー、そうだなあ……」
間延びた声は、苛立ちを隠さず入ってきた斎藤先生によって遮られた。クリスマス、年末、新年。街が浮かれるほど、教員の顔は陰っていく。共通テストも近い。二年生を受け持つ琢磨先生も来年はこうなるのだろうか。
『鍋は寄せでよろしく』
震えたスマートフォンが写す文字からは、まったく想像ができなかった。
日常と非日常の出入りを楽しんでいるのかもしれない先生と、ただ一つ目の前にある今を日常にしたい私。
薄闇色になりだしたガラスは湿気で霞み、外の世界なんて何もないような幻覚を抱かせる。
終わってるな、どっちも。
室内に落ちたため息は、軽い筆記音と混じり合って消えた。
つづき:第2話↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?