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才能があるやつは全員くたばれと思っている

才なき自分でこの世界を生きていくのが辛い。

私は昔、漫画家を目指していた。絵を描き始めたのは三歳の頃。

美大出身の父とデザイナー志望だった母、漫画家の叔父、やがてイラストレーターになる兄を持つ家だから、絵を好きになるのは必然だったのかもしれない。

幼稚園の頃には絵本作りを、小学校に上がってからは漫画を描こうと、多くの時間を絵に費やしてきた。

いつか自分の本を書店に並べたい。それが私の何よりの夢で、目標になった。

幼い子どもはいい。何より伸びしろがあるし、わずかに秀でたところは褒めてもらえる。「上手だね」と言われるとうれしく、もっとうまくなろうと努力できた。

けれど小学校も高学年になり分別がつくと、特段自分に絵の才能があるわけではないことに気付く。段々と周りには自分と同じレベル、いやそれ以上のものを描ける人たちが増えてきた。

たとえば『YAWARA!』や『20世紀少年』の作者である、浦沢直樹先生の幼少の作品を知っているだろうか? 子供の頃から何かを持っていた、別格な人だ。

漫画家として生きている叔父にも同じことがいえた。小学生の頃、母の実家で学生時代に叔父が描いたスケッチブックを見つけたことがある。

ああ、やはりこういう人間が「自分はただ描き続けていただけだよ」などとさらりと言いながら、当たり前のようにプロになるのだろう。そう思うと、自分などたまたま早くに絵を描いていただけに過ぎず、圧倒的な壁を感じた。

費やした時間を考えると、明らかに私は絵が下手だったのだ。その証拠に、十年毎日絵を描き続けながら、私は人物の全体像が描けない。

一作の漫画すら完成に至らず、小学校を卒業した。

非才な己を自覚してなお中学で美術部を選んだのは、心のどこかに期待があったからなのだと思う。私は私を諦めきれなかった。そしてまた三年間、毎日絵を描き続けた。

一度だけ、大した出来でもない絵が県の小さなコンクールに入賞したことがある。それだけだ。ほとんど上達のないまま、三年が過ぎた。

中学生になり入ったインターネットの世界が、さらに私の凡庸さと世界の広さを教えてくれた。

自分と同い年でありながら、プロとして通用しそうな絵を描く人間がごまんといる。
そんな人たちと肩を並べられるだろうか?

それがまだ、幼い頃から途方もない年月を費やしての結果なら納得できる。けれど違う。始めてわずか数ヶ月で、恐ろしい成長速度をもってして追い抜いていく人が少なくない。

眩暈がした。

『ウサギとカメ』のウサギが手を抜かなければ、カメには永久に勝機など訪れはしないのだ。

ときを同じくして、私は漫画に付随するストーリー作りに興味を持ち始める。シナリオと小説。その両方の色を併せ持つ、物語作成を始めた。それが純粋な好奇心からだったのか、絵から目を逸らすきっかけが欲しかったからなのかは、もう思い出せない。

とにかくも中学校の後半からは、ほとんど文学に傾倒していく。

高校入学を機に絵はやめた。
あれは逃げだったのだと、今では認めている。

作家を目指し始めたのは中学二年生の秋頃だった。三者面談で「将来は小説家になります」と豪語し、担任を苦笑させた。

絵から文の道へと転向した私は、二つだけ自分にルールを課した。

ひとつは、一行でもいいから毎日文字を綴ること。
もうひとつは、絶対に、諦めないこと。

とりあえず今日まで、この誓いは破らずに生きている。

とはいえ三十も間近になり何一つ成せていない点からわかる通り、私には文の才覚もありはしなかった。十年以上駄文を積み重ね、やはりただの一度も物語を完結まで漕ぎつけられなかったのだから。

十年。四万字そこそこの物語を完成させるまでにかかった時間だ。いくつもの作品がとっ散らかされ、途中で放置された。

初めて一作の長編を書き上げたのは二十五歳の春だった。ようやくスタート地点に立てた気がする。まだ一歩も踏み出せていない。

その後書いた作品を新人賞に送るも一次選考で落選。翌年も新たに挑戦するが、同様の結果に終わる。

小説の体裁さえ整えれば誰でも一次は通過する、などとほざいたやつは全員名乗り出ろ。腸を抉って軍艦巻きにしてバーナーで炙ってやる。


私は図書館と本屋が好きだ。しかしここ数年は、どちらも訪れるたびに新しい本に出会える高揚感とともに、これほどの本が溢れていながら、なぜ自分の本がないのかとやり切れない怒りがこみあげてくる。

日本中の書店と図書館に火炎瓶でも投げつけたくなる。信長もこんな気持ちで比叡山を焼き払ったのだろうかと想像するが、絶対に違う。

日本だけでも数えきれない作家がいる。今の時代、才能などなくとも本を出すことは可能だが、そうはいっても自費出版でもない限り、誰かに認められて出版に漕ぎつけている。

私は誰にも認められない。

本を読む前に奥付や作者の経歴に目を通すが、「高校在学中にデビュー」だの「初めて書いた作品を送ってみたら出版につながった」だの「会社員をやりながら小説を書き始めて1年で○○賞受賞」といった文面が出るわ出るわ。

喉仏も拾えないほどロケットランチャーでこっぱみじんにしてやろうか。業火に焼かれて燃え尽きろ。

ついでにいえば、芥川賞や直木賞をはじめ数々の賞を受賞した、いやしていない世の著名人全員を、畏敬の念を抱きながら脳天をぶち抜いていきたい。

そうして天才たちが消えたなら、私は世間に出ていけるだろうか?

無理だろう。地上にいる「アリ」は全体の3%に過ぎないらしい。たとえばそのすべてを駆逐しても、やがて残りの97%から新たな3%が輩出されるわけだが、そのなかにきっと私は入れない。

意外に思われるかもしれないが、私はこだわりが少ないほうの人間だ。

住む場所も着る服も食べるものも本当はなんでもよく、というかどうでもよくて、死にさえしないのならホームレスになったって構わない。

職がないことも金がないことも、このままではロクな人生にならないことさえ、正直頓着していない。

それなのにこと文才うんぬんに関しては、いつまでもグダグダと言い続けている。来年死んでも構わないくせに、作家になれないまま死ぬことだけは耐え難いのだ。

今はもう、文章を書くことには喜びと楽しみ、そしてこのうえない苦痛が表裏一体となって付き纏っている。

私はおそらく物書きなどという志はさっさと捨てて、空をぼんやり眺めるような生活をすれば健全な人生を送れるだろう。結婚でもして、日々忙しく生きることに専念したほうが幸せになれるのだ。

それが不可能なら貯金など早く食い潰して餓死すればいい。いらんことに拘泥するから、負わなくていい傷を負う。

今日もまた、才能のある人間は全員くたばってピーマンにでも転生しろ、チンジャオロースにして食ってやる、と呪いながら起きる朝がやってきた。やがて糞になり食物連鎖の一端を担うがいい。


話は少し逸れるが、高校の頃から絵を描き始めた兄は、東京の専門学校で周囲との差に打ちのめされ田舎へと戻ってきた。それから15年。決して有名でも食べていけるほどの稼ぎを得ているわけでもないが、絵を描き続けている。

私もこうであれば良かったのかもしれない。才能のなさを自覚しながら、それでも続ける覚悟を持てば良かったのだ。だからこそ今、これからそれをしていきたいとも思っている。

己の非才を認め、凡人は凡人らしく、あと十年でも二十年でも人生を費やし続ければいい。もはや死ぬまでのどこかで自分の本が書店に並べばそれでいい。

ああ、神よ。なんの才も授けてくれないのなら、どうして受精卵のときに便器にでも落としてくれなかったのですか。平等に産み落とせないのなら、ネグレクトをしないで作った生命の責任くらいとってほしい。

才能があるやつはいいな。あいつらは「努力をなんでも才能と言われるのは心外だ」とかなんとか宣うわけだが、知らねえよそんなの。報われるだけ十分だろうが贅沢言うなくたばれ。

まあ、けれど今の自分には報われるだけの努力も知識も戦略も何もかもが足りない。だからとりあえず、あと十年は頑張ってみよう。

……ああ、才なき自分でこの世界を生きていくのは辛いなあ。

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