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小説「その傷に触れる夜」

 誰かの深い吐息で満たされたような、静かな夜だった。この神社を心臓とした町全体が、ゆっくりと眠っているようだった。

 年月と共に至るところが磨り減ったこの神社には、とうの昔から、明かりが灯されなくなったままだ。石造りの鳥居も、石畳の参道も、忘れられた手水舎も、暗く変色した賽銭箱も、林に囲まれた境内全体が、闇に飲まれていた。

 境内に一本だけ聳える太いムクノキも、いつの間にか咲いた花をそのままに、じっと息を潜めていた。

 今夜は春と呼ぶには少々暖か過ぎる、とそれは呟いた。いよいよ蛇も余計な衣を脱ぎ捨てる季節になったようだ。

 それはいつものように夜の境内をぼうっと眺めていた。すると、外の道との境目にぼんやりと佇む一の鳥居の足下に、何者かの影が、夜にかき消されそうなくらい小さな足音と共に近づいて、そしてのっそりと蹲(うずくま)ったのが見えた。

 よもや凍死はしないだろう、と暫し放っておいたが、その影はいつまで経っても動かなかった。たまに酔った人間が来て鼾(いびき)をかいて寝ていることはあるが、こんなに静かな状態が続くと死んでいる可能性もある。それは亀腹に寄り掛かって動かないままの黒い塊に近づき、そっと声をかけた。

「お前……、寝ているのか」

 影の主は気怠そうに顔を上げ、片目だけで辺りをぐるりと睨み付けたが、どこから声が聞こえたのか計りかねているようだった。それは構わず話し続けた。

「生きているのか。こんな所で何をしている」

チッという小さな舌打ちの音と共に暗がりの中から、影の主の

「誰だ」

という声が聞こえた。

「は、は。難しい質問だ。私は何者なんだろうな」

 それがそう言うと、影の主はぐっと喉に力を入れてから、小さく唸るように声を上げた。

「何だてめえ……。いいからさっさと出てこい」

「出て来るも何も。今、お前の目の前にいる」

「ハァ? ふざけてんのか。おい、誰もいねえじゃねえか」

「いるぞ」

影の主が目を凝らすと、闇の中で、ぼうっと光が滲んだ。

「お前、今、光の塊が見えているだろう。それが私だ。肉体は無い。人間には神様だの何だのと呼ばれている」

「かみさま……。ハァよく分からねえが、死ぬ前の幻覚なのかもしれねえな」

 成る程それもそうか、と言わんばかりの呟きを受けて、光の塊はそれを面白がるように言葉を返した。

「おや。お前、死ぬのか」

「そうだ」

そう事も無げに答えると、影の主は片目でゆっくりと瞬きをした。

それは少し驚いた様に、闇夜の中で瞬いた。

 影の主は、その瞬きをちらりと見遣った。そしてその光の向こう側を遠く透かし見るような表情で言葉を続けた。

「死に場所をな。探しに来た。恐らく明け方頃に俺は死ぬ。誰にも見つからない場所で死のうと思ってな。ここなら周りの林もあることだし、隠れる場所があるんじゃねえかと思ってな」

「成る程、そういうことか。ふむ」

それは少しの間考え込む様に黙ってから、言った。

「もし歩けるなら、本殿の裏の林の中はどうだ。手入れなんぞされていないし、草やら蔓やらが邪魔で、この神社の人間でも滅多に入らない」

「へえ。神社の主が言うんなら違いねえ。そうしよう」

そういうと、影の主は四肢の力を抜いて、暗がりの中で地面に寝ころんだ。それは緩やかな動きでその影の肩口に近寄って尋ねた。

「身体が痛むのか。それとも、病か何かか」

「いや、どこも痛くねえ。只、ここ最近急に身体が重くなって、もう、まともに飯も食えやしない。それに俺の仲間も、老け込んだ奴から次々死んでいるんでな」

 そう言って、影の主はふうと軽い溜息をついた。

「俺もここらが潮時かとピンと来たって訳さ」

「ははぁ。肉体を維持するのも苦労するものだな」

 その影は寝転んだまま、静かに呼吸し続けている。その様子をじっと見つめながら、それは再び質問を投げかけた。

「名前はあるのか。何でも、今の人間は大抵名前を持っているらしいな」

 暗がりの中から、呟くような、どこか寂し気な返事が聞こえた。

「……墨丸」

そして影の主は、少し焦った様に言葉を続けた。

「いや何、綽名の様なもんだがな」

「へえ。墨丸、か。如何にも人間がつけそうな洒落た名前だ」

「ハハ。この辺りで有名な、隻眼の墨丸とは俺のことよ」

墨丸は自慢気に、鼻からフッ、と鋭く大きな息を吐いた。

「成る程、それで、その左目の派手な傷はどうした。随分と顔に馴染んでいる様に見えるが」

「これか? これはなァ。まだ若い時にさ、もう、どうにかなっちまうくらい激しい恋をしたのさ。惚れた相手を振り向かせたくてな、手強い恋敵と一番派手にやり合った時に出来た傷だ。」

それは二度三度と大きく瞬いて言った。

「はっはあ。お前、中々やるじゃあないか。それで、上手くいったのか」

「ああ、勿論。恋敵は消えて、惚れた奴と一緒になって、子供も出来た。」

「へえ、それは目出度い。名誉の傷、というものだな」

 しかし墨丸は僅かに視線を落としながら、

「俺にとっては、な。」

 と、ぽつりと呟いた。

「だけど女房も子供達も、俺の傷を気にも留めてなかった。だから、と言ってはナンだが、この傷を理由に引き留めることも出来なかった。」

 それは光を揺らしこそすれ、言葉を発しなかったが、じっと彼の言葉を聞いている様だった。

 彼はぽつぽつと言葉を続けた。

「今じゃあ女房達が生きているのかも分からない。女房達と離れてからは、ずうっと一人で、生きてきた。そんでこの有様さ」

 そう言うと墨丸は寝転んだまま、ぐっと顎を引いてから鼻を少し鳴らした。

光の塊は、ふうん、と相槌を打った。

「いや何、立派なものじゃないか、お前」

「立派、か……」

 彼はじっと考え込んでいる様だった。そして彼は、自分の脳内を探っているかの様な、ゆっくりとした語り口で話し始めた。

「でもさァ、この傷が目立つお陰で色々あったよ。知らねえガキに石を投げられたり、汚いから寄るな、と言われて足やなんかを蹴飛ばされたり、さ」

それは小さく、

「おや」

とだけ言った。

「俺の顔を見て涙を流す奴も何人かいた。可哀想、と言って泣く奴、怖い、と言って泣く奴。ハア、随分勝手なもんだよ、人間てのは」

墨丸はそう呟きながら、ぼんやりと右目を伏せた。鼻だけで夜の柔らかい空気を吸い、ゆっくり吐いた。彼の穏やかな呼吸が続く。

その彼の様子に波長を合わせる様に、それは語り掛けた。

「はぁ。そうか、そうか。何かとあったようだな」

それを聞いて、墨丸は自嘲するように口角を上げながら、

「ハ、ハ。違いねえ」

と笑った。そして、

「ただな」

と言って、一瞬言葉を切った。

「得をしたことも多かった。死にそうな時に飯を貰えた、盗みを見逃してもらえた、道を譲られた、慈しまれた、格好いい、と褒められた……。しかも、何が良いのか知らねえが、俺が欠伸をしただけで嬉しそうに笑う奴すらいたのさ」

 ぐるりと首を回し一息ついてから、墨丸は言葉を続けた。

「もう俺には訳が分かんねえ。俺はずっと何も言わなかった、や、言えなかった。ハア、やっぱりさあ、随分勝手なもんだよなあ、人間てのは」

その言葉を聞くと、それの光は一際大きく、ぐうんと揺らいだ。

「あは、は。実(げ)に実(げ)に。私にも思い当たる節はある。面白いことに、人間というのは、皆、自分に都合の良い『物語』を信じて生きているのだ。私だって人間ではないが、きっとそうだ。無論、お前も。」

少し間が開いて、墨丸は戸惑ったように答えた。

「アンタが言う事は、俺にはちょいと難しいな。人間が信じてるのが神様だろ。神様であるアンタが更に何かを信じてんのか」

「いや、何。正確には、私は神様その者ではない。人々が勝手に作り上げ、代々伝えてきた記憶の生き残り、と言えるのかもしれない。周りの人間は『神様』という単語に紐付いている物語を信じているのさ」

「ハア……。頭が追い付かねえや」

 墨丸はごろんと重たそうに寝返りを打って、その光の塊に頭の後ろを向けた。その様子を気にすることなく、それは光の揺らぎをじんわりと強めた。

「人間が言うにはな、私は何とかという海の神様だそうだ」

「海の……」

「ああ。近所の海が荒れて困る、と言って人間が大昔にこの神社の元になる物を建てたのさ。その時からこの辺りは高台だったからなあ。海が荒れる度に、入れ替わり立ち替わり人が来て、私に対して祈ったり機嫌を取ったりしてきた」

 纏わりつくような空気を後押しするかのような、緩やかな風が吹いた。別段と動きはしないものの、じっと墨丸は黙って聞いているようだった。

「ある人間は私のことを、突然怒り出すヒステリックな男だろうと思っていた。また別の人間は、話の通じない暴力女だろうと思っていた。一方で、私が実は慈悲深い存在で、海を荒らすことで人間に対して何か警告しているのだと触れ回る人間もいた」

 墨丸の右目がちらりと動き、語り続ける光の塊の方を見遣った。光の塊は相変わらず淡々と、しかし畳みかけるように言葉を発した。

「何にせよ、思い思いの形の神様に対して供物だの生け贄だのを海に投げ込んだり、ここに置いて行ったりしては頼み事をしていた。もっと荒れ狂ってくれ、あいつを巻き込んで殺してくれ、いやどうか治まってくれ、あいつだけは助けてくれ、などと口々に言うのだ」

 それは一言一言を思い出すように話し続ける。

「そしてその結果、都合が良くなれば喜び感謝し、都合が悪くなれば悲しみ怒っていたのだ」

「ハハ。その間、アンタは何もしてないんだろ」

「そうだ。私は只、ここに居ただけだ。時代が進むにつれ、文字や絵などを介して、人間達の思う『神様』の像が段々似通ってきた。そして」

 息継ぎをするように、光の塊はついと言葉を切ってから続けた。

「私がしばしば不意に暴れ出す理由が大昔にあったに違いない、と言い出した。あらゆる時代のあらゆる人間が、あらゆる方法でそれを広めて、今に至る訳だ」

 墨丸はそれを聞いて、合点がいったように片目でゆっくりと瞬きをした。

「フウン、やっぱり勝手だな、人間て奴はよ」

 それの放つ光が一瞬揺らいだ。

 しかし、墨丸の言葉には返答をせずに話し続けた。

「それに、何だか面白いことにな、人間が勝手にご機嫌を窺うのは海だけではないらしい」

墨丸が少し顔を傾けて、微かに目を見開いた。

「まだ被害者がいんのか」

「何でも、石やら山やら、果ては自分達で作った雨傘やら椅子やらを見て、居住まいを正したり、恐れたり、涙を流したりするんだそうだ。色々と考えることがあるのだろうな。物が増えると共に、無機物の顔色さえも窺いだしたのさ。」

 墨丸は、少し眉を顰めて、それから小さく肩を竦めた。

それは語り続ける。

「ふん、興味深いことよ。目の前の物が何であれ、それが何を考えているのか、どんな感情を持っているのか、何故壊れたのか、どんな経緯で今の状態に至ったのか、などの辻褄の合う理由をつけて、納得したがっていたようだ」

「難儀なモンだ、人間も、……アンタも」

「人間は勝手に海の表情を読み、海辺の石の顔色を窺い、それを共有することで『神様』を作り上げてきたのさ。私がそれだ。」

 墨丸の右の瞳がきょろりと動いて、光の塊の様子を窺う様に、じっと見つめた。

「私も色々な期待をされた。夥しい数の願い事や要求、祈りを聞いてきた。これからもきっとそうだ。この神社の『神様』について語る人間がいる限り、私は存在し続ける」

どこからか、海の方角だろうか、微かな風が流れてきた。生温い闇の中では、ふと吹き出す春風でさえも息絶えてしまいそうだった。

「だが同時に永遠に『無』なのだ。本当の私の姿など無いのだから」

 墨丸は細く長く溜め息を吐きながら、右目で何度か瞬きをした。今のような長い夜の合間にはお似合いの仕草だった。そして、闇の中に溶けて消えてしまいそうな声で呟いた。

「アンタ、それで、その……嫌気は、差さないのか。うんざりしたりは、しないのか」

それの光が微かに揺れてから、仄かに和らいだ。

「ふふ。お前は優しいな。しかし心配は無用だ。私はな、ずっと、人間は面白い、と思っている。人間達が考える『物語』とは、即ち、因果関係なのだ。何と何に因果関係を見出すか、というのが個人の生き方を形作る思想であり、美学とも言えるだろう。色々な物、どんな小さな事象にも『物語』を見出す力を、人間は持っているのさ。」

 墨丸はその光を見つめたまま、わずかに首を傾げた。

 それは揺らめきながら、墨丸の右目の視界に入る位置まで移動して、語り続けた。

「お前のその左目の古傷に何らかの物語を幻視する者、残った右目の方を見て、色の理由や何かに物語を感じる者、色々といるだろう。」

 墨丸は一度瞬きをしてから、右目をそっと閉じた。

微かな風がゆっくりと、一の鳥居を通り過ぎて境内の方へ流れて来た。神社の内側へ、と夜の空気が動いていく。

「最近は、やれ法律だの遺伝子だのと新たな視点とやらには事欠かないようであるしな。お前も、存在するだけで、様々な物語の、担い手なのだ。」

 そこまで語ってから、それははっとしたように口をつぐんだ。そして墨丸の方へ少し近づいて、問いかけた。

「やあ、お前、身体は大事ないか」

 墨丸は目を閉じたまま、小さな声で、しかしはっきりと答えた。

「ヘッヘ。今はまだ結構平気だぜ。おい、なあ、もうちょっと、話していてくれねえか。何だか無性に、誰かの声が聞きたくてさァ」

暫し、真夜中の沈黙が全てを飲み込んだ。それは優しい日の光のように円やかな動きで、薄墨色の敷石の参道の真ん中に着地した。

「良いぞ。ふむ、何の話をしようか」

 独り言のように話しながら、その光の塊は石畳の上で何度か瞬いた。

「そうだな、折角だからお前の話をしようじゃあないか」

 墨丸は少し驚いた様に右目を微かに開けて、その光の方に目を遣った。

「俺の話?さっき結構話しただろ?」

「いやいや、あれは初対面の時の名乗りの一種だろう」

 僅かに呆れたようにそれは言った。

「そういう名刺代わりの情報ではなくてな。お前の、何か」

 そう言って、それは少し考え込む様に言葉を切った。そしてのんびりと話を続けた。

「そうだなあ、例えば、死ぬ前の心残りとかは無いか?お前の心の内の、誰にも明かさなかった何かを、聞かせて貰えないだろうか」

 墨丸が怪訝な顔をして自分を見つめているのを、その光の塊は気にも留めていないようだった。

「なあに、私は決して口外(こうがい)すまいよ。いや、出来ないという方が正しいか。あは、は」

墨丸は此処に来て初めて、逡巡するように黙り込んだ。まるで身体が溶けてしまいそうな夜の生温さの中で、墨丸はごろりと寝返りを打った。そして、頭上に架かる古い石の鳥居を見つめながら、ぼそぼそと呟いた。

「そんなこと言ったってェ。言ったところで何の意味もないじゃねえか」

 墨丸はそれから目を逸らしたまま、言葉を続けた。

「こういっちゃあナンだが、さっき話してたみてえに、アンタは何も出来ないんだろ?」

 突然その役割を思い出したかの様に、真夜中の沈黙がその場を支配した。

 墨丸が、ほんの数秒の沈黙に耐えかねたように、顎を微かに引いて足の方を向いた時、光の塊が先程と同じ様なのんびりとした口調で話し始めた。

「まあ、私が何も出来ない、というのは、その通りだ」

墨丸がぱっとそちらの方に目を向けた。

「そう言った意味では、私は何の力も持たない。だが、しかし、お前の何かを受け止めることは出来るぞ」

 それは墨丸の視線を受け止め、優しく揺らぎながら話し続ける。

「誰かの独り言を聞くのは一番得意なのだよ。それこそ先程話した様に、な」

 少しの間があってから、墨丸が不思議そうに口を開いた。

「するってェと、話を聞くだけなら出来るってことか?」

「そうだ。あは、は」

 フン、と墨丸は鼻から息を吐いた。そして、調子を取り戻したように顔を上げて言った。

「まあ、冥途への土産じゃなくて、この世への置き土産、というのも良いかもしれないな。どうせアンタしか受け取れないんだから」

「そうさ、そうさ」

 どこか嬉し気にそれは光の波を揺らめかせた。

「それにお前は、話す意味など無い、と言ったが、話をするのは別に何かを解き明かすためだけではない。自分の中に巣食う何かを、空に放るだけでも結構満足するものさ。ここに来る人間でもそういう者が偶にいる」

「へえ」

 そう静かに相槌を打った墨丸は、寝転がったまま、鳥居の立つ固い地面をざらざらと撫でた。長い時間を生きてきた、強固な土地だ。

 光の塊はその様子を咎めることなく、語り続ける。

「その人間達は、何かに飢えた様な顔つきでなあ、必死に息を継ぎながらここまで辿り着くんだ。そして自分の願いをなあ、思いつくままにずうっと頭の中で呟いている。それはもう、必死で、あれが欲しい、これが足りない、あれがしたい、これが出来ない、とな。そして、どうなると思う?」

 楽し気な様子で尋ねられ、墨丸は微かに眉を顰めて答えた。

「どうなるんだ?」

 それは、もったいぶった様に自身の光を揺らがせてから言った。

「そうか、自分はこんな人間だったんだ、と妙に納得してから、何だか意外な知り合いに出会った時の様な、ぼんやりとした表情で帰って行くのさ」

 へえ、と墨丸は少し間の抜けた声を出してから返事をした。

「妙な奴もいるもんだ。難しい事を考えすぎて、頭ン中がぐちゃぐちゃになってたんだろうなァ」

 それを聞いた光の塊は、軽やかに瞬いた。そして、楽し気に言葉を返す。

「ふ、ふ。まあ大抵の人間は難しい事なんか考えてはいない。何でもないことに勝手に意味づけをして、難しい様子に仕立てているんだ。そうだろう」

墨丸は何も答えなかった。ただ、それがふわふわと参道の上でゆっくり跳ねている様子をしっかり見ていた。

「この世に存在していることに意味などない。生命が誕生する意味も、少しの間生きて死ぬことも、意味なんてものはない。理由は何かとあるがなあ」

それの調子に合わせる様に、墨丸は言葉を挟んだ。

「また難しい話をするなァ、アンタは。じゃあそいつらは一体何をここで考えていたんだ?」

「ふん、そうだな」

 それは少しの間、思案を巡らせる様に黙り込んだ。そして昔の記憶を徐々に手繰り寄せるような、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「少し前にな、本当にあの人と結婚して良いんだろうか、教えてください、神様、なんて言っていた人間がいた」

 墨丸は急かそうともせず、黙って聞いている。

「結婚する前にあれもやりたい、これもやりたい、と考えている内にな、今の婚約者と結婚したら、自分のやりたいことは一生叶わない、と気付いたようだ」

へえ、と小さな声で墨丸が相槌を打った。

「結局、顔も知らない誰かの視線が気になっていただけで、別に婚約者の事を大事に好いている訳ではない、と合点して、少し良い値段の賽銭を投げ入れて帰って行った。ふ、ふ」

 そう独り言のように含み笑いをすると、それは石畳の参道の上でゆらゆらと光の端を揺らした。

 しかしすぐにその揺らぎは小さくなり、やがて風の無い場所に灯る蝋燭の火のように、しんと動きを止めた。その光の周囲だけ、時間が止まっている様だった。

「しかし人間の悩みの根源になっている、この、何者かの視線、集団心理というのか、それが少し厄介だなあ」

 そう呟いて、それはふわりふわりと、何か空を掻くように浮いたり沈んだりを繰り返した。

その様子を横目に見ながら、墨丸は顎を何度か掻いた。

「へえ。そんなつまらない事も周りに影響されちまうなんてなァ。生憎、俺はそういうのに疎いからなあ。まあ、何だ。社会ってえのはつくづく面倒だと思うぜ」

「そうさ。だから、お前が付けた意味なんてすぐにひっくり返る」

 それは参道に敷き詰められた石と石の境目で、ふらふらと踊るように揺れながら言葉を続けた。

「だからお前は、今から、意味のまだ分からない話をするのさ。そういうことだ。それに先程、何か言おうとしていただろう。全く、お前は嘘をつけない奴だなあ、あは、は」

 そう笑うと光の塊は、真っ暗な空中を軽やかに浮遊しながら、大げさなくらいに何度も瞬いた。

「うるせえな、アンタ他人事だと思って」

 墨丸は決まり悪そうに微かに眉を動かし、小さな声で文句を言った。

「俺はな、そういうの慣れてねえんだ」

 墨丸は小さな吐息とともに、顎をぐっと引いた。そしてその右目の視線は、地面に向かって緩やかに泳いだ。

「そういうの、さ」

 二人の間で、夜の空気の流れが止まったかのようだった。

 少しの沈黙の後、どこか遠くで犬が、ワン、と一声鳴いた。

 その微かな鳴き声が聞こえた瞬間、墨丸は地面に視線を落としたまま、スンと小さく鼻を鳴らした。

 するとそれは夜の沈黙を動かすように、少しだけ墨丸に近づいて

「なあに」

と穏やかに彼に語り掛けた。

「慣れている必要など無いさ」

 墨丸の右目が素早く動いて、その光を視界に捕らえた。

「今、しっかり己の感情と向き合っていればな、それが全てなのだよ」

 そう言うとその光の塊は、墨丸の視界に自分を入れるかのように、また僅かに彼に近づいた。

じっとその様子を見ていた墨丸は、何かを言おうと口を微かに開いて、すぐ閉じた。そして再びゆらゆらと視線を外して、小さな声で問いかけた。

「何から、話せば良い」

「何からでも話せば良いさ」

「意味のないことでも?」

 まだ墨丸は頼り無さげに視線をさ迷わせている。

それは、墨丸の戸惑いを突然壊さないように、ゆっくりと、しかし確かな口調で墨丸に語り掛けた。

「特にこれといった意味なんて無い、そういう話を、お前自身の話を、私は聞かせてほしい」

そしてそれは、今日の昼間の日射しを思い出させるような、春には暖か過ぎるくらいの光を墨丸に送った。

墨丸は、その確かな光を受けて、頷くようにゆっくりと右目を伏せた。

「意味か……。するってえとさァ、変なことを言うようだけどもさあ。俺の、名前ってえのもさ……何か、意味があったのかなあ……って思ってよォ。」

「名前、か。どうかしたのか。」

 そう光の塊が問いかけると、墨丸はじっと逡巡してから、ようやく口を開いた。

「俺の、この、墨丸ってェあだ名はさ、近所の婆さんが最初に呼び始めたのさ。変な呼び方しやがる、と無視している内に、近所の知らねえガキまでそう呼ぶようになっちまった。このデカい傷のせいで覚えやすかったのかもしれねえ」

 ぽつぽつと話している墨丸の傍でそれは、うん、と独り言の様な相槌を打った。

「そんでその婆さんはな、俺を見ると、いつも何かしら食いモンをくれたんだ」

「へえ」

「縁側に俺と婆さんと二人で座ってなあ。いつだったかな、ある時な、俺がいつもみてえに婆さんから貰ったモンを黙って食ってる時さ、婆さんが「墨丸、美味しいかい」って言いながら、俺の耳の辺りと左目の傷の端っこを、そのしわしわの手でしっかりと撫でたんだ」

 墨丸はその感触を思い出しているかの様に左のこめかみをそっと撫で上げ、くすぐったそうに首を少し傾げた。

「思わず婆さんの顔を見たらさ、すごい、顔中が幸せそうな笑顔だった。俺は、そんな風に笑われるのは初めてだった。だから俺は、この変な名前を受け入れることにしたんだ」

ふう、とゆっくり息を吐いて小休止した墨丸は、ちらりと傍らの光の塊に目を向けた。

それは小さく燃ゆる焚き火のように、緩やかに揺らぎながら、じっとそこに居た。

 墨丸の視線に気付いたそれが

「どうした」

と不思議そうに墨丸に問いかけた。

「いいや」

と呟くように答えてから、墨丸は安心したように首の力を抜いて話し続けた。

「婆さんは、色んな奴と話が出来る人だった。近所の別の婆さんと話し込むことなんてしょっちゅうだった。近所の犬猫とか、庭の植木とかにまで話し掛けてた。そんで、料理やら植木の手入れやら、何やかんやと動き回るのが好きな様だった」

「へえ。働き者な人間じゃないか」

 それを聞いた墨丸は、少し黙って深く鼻から息を吐いて言った。

「でもな、段々、何か考え込んでいることが増えた。怪訝な顔で探し物をしていることが増えた。婆さんの家の中は、片づけ終わる前に物が買い足されるようになった」

「おや」

「それに、たまに会うと『お腹減ってないかい。今、何か持って来てあげようね』とか言って家の奥に入ったっきり、長い時間戻って来ないことが増えた。『本当に、私ったら、おっちょこちょいなのよ、最近』なんて俺によく言うようになった」

それは、一人で納得したように、

「ははあ、成る程な。人間は年を取ると色々と難儀になると聞く」

と言った。

墨丸は微かに頷いて、話を続けた。

「もっと最近はな、婆さんの家に色んな奴等が出入りするようになったんだ」

 墨丸は話している内に、思い出すことが増えたのか、どんどんと饒舌になっていく。

「ケーサツとか、婆さんの娘とか息子とか、ギョーセイの奴とかさ。婆さんはそういう奴等に何やかんや言われててさ、よくぼんやりと不安な顔をしてた。可哀想だったよ。」

そうか、とそれが悲し気な声で打った相槌を聞いてから、墨丸は話を続けた。

「そうして段々、婆さんの家の中にゴミ袋が増えた。その頃には会うたんびに、婆さんの身体から、何と言うかなァ、人間の脂とか汗とかの、何だか妙な臭いがしてた。」

「おや」

墨丸は、苦しげな様子で固く目を閉じて、一度だけ深呼吸をした。そして、再び話し始めた。

「そんな時な、ある時、俺が婆さんのとこを訪ねたら、先客がいたのさ」

「先客?」

「ああ。薄汚れた野良猫だった。話し掛けようか、どうしようか迷ってたらな、婆さん、そいつの頭に触りながら笑って、「墨丸、美味しいかい」って。何で、何でそんなのをさ……。もう俺は何が何だか分からなくなって、咄嗟にそこから逃げた。それっきりさ」

ふう、と息をついた墨丸は、視線だけ地面に向けた。

「それが、もう……今生の別れに、なっちまったみたいだ」

 言葉が途切れた。夜の闇の中で、細かい花を抱えるムクノキの、葉の一枚すら、無言だった。それは黙ったまま、すうと音も無く移動して、墨丸の胸の辺りに寄り添った。墨丸は、頭上の鳥居からじっと目を離さないまま、細い声で語り続けた。

「俺……俺はさ、何かさァ、名前なんて、別に何でも良かったんだ。別に、さ……。俺だけ、見て、笑ってくれたんだよ……あのしわしわの笑顔が、好き、だったんだ」

 暗闇の中で、ぐっと何かを飲み込む音がした。

「別れた女房も子供も……あんな風には笑ってくれなかった。あの時、俺がこの名前を、認めた時、他の誰でも無い、俺だから……俺だからあんな風に、笑って、撫でてくれたんだと、思ったんだ。……でも、そいつは、そんな小汚い猫なんて……全然、俺じゃねえのにさァ」

墨丸は不自然な程に、何度も鼻で息を吸ったり吐いたりを繰り返した。そして暫く黙り込んでから、震える声で呟いた。

「俺は……あの婆さんに、もう……忘れられ、ちまったのかなァ。今はそれだけがなァ……」

 春の闇は相変わらずゆっくりと流れ続けている。墨丸の肩と胸が、必死に上下しているのを感じながらも、それは墨丸の胸の近くにずっと留まっていた。墨丸の、大げさな深呼吸だけが、二人の間にひっそりと聞こえていた。

柔らかな間が少し空いてから、それは、墨丸の丸い背中を包むようにそっと声をかけた。

「その女性は、ずっと覚えていたんだな。自分でつけた墨丸という名前を。そして、その墨丸との物語を」

墨丸の不自然なほどの呼吸が、段々と落ち着いてきた。その後墨丸は、何かを咀嚼するかのように、右目を何度か瞬かせた。

「な、んで」

「ふ、ふ。お前との物語は、ずっと、その女性の中にあるよ。『墨丸』との物語を、随分と愛しく思っているんだろう。お前の名前をちっとも忘れていないのが、その証拠だ。お前が『墨丸』である限り、誰を何と呼ぼうと、お前とその人の物語であることに変わりはない、と私は思う」

「そう、か?」

墨丸はその残った右目で、揺らぐ光をじっと見つめた。微かな風が墨丸の全身をそっと撫ぜた。

「恐らくその女性も、近い内に死ぬだろう。『墨丸』との物語を愛したまま、な」

 それは穏やかに、墨丸に語り掛けた。

「お前がその名を捨てようが拾おうがどちらでも構わないが、その人の中の物語を作ったのは、紛れも無い、お前自身だ。届いた住所が違っただけで、お前宛ての愛情であることは、疑いようがない。確かに、『墨丸』に宛てた笑顔だったのだろう。」

「そう……かなァ」

 今一つ、それの言葉を信じきれない様な、胸から何かを絞り出す様な声で、墨丸は少しだけ唸った。

「お前が見てそう確信したのだから、間違いない」

 それは穏やかに、しかし確かな口調で言い切った。

 そして、徐(おもむろ)に墨丸の目の前でくるりと回って見せ、彼の鼻先まで近づいて言った。

「まあ、でも」

 僅かにからかう様な声で、墨丸に問いかけた。

「少しは心当たりがあるだろう?」

その言葉を聞くと墨丸は、どこか、居心地の悪そうな表情で、ぐっと喉を鳴らして俯いた。

「ふ、ふ、大丈夫だ。もっと信じるといい、お前とその人で……二人でずっと作り上げてきた、その優しい物語を、な」

墨丸の全身からふっと力が抜けた。墨丸は、しっとりとした石の柱に、漸く、柔らかに全身を預けた。

緩やかな闇の息吹が、神社の境内中を一瞬で満たした。そしてまた、何事も無かったように通り過ぎた。

その空気の流れに乗るように、それは薄墨色の磨り減った参道の真ん中にふうっと躍り出て言った。

「お前はやはり、優しい」

墨丸は、頷くとも頷かぬとも言えない動作で首を傾げ、少しだけ唸った。

 暗闇は一層深さを増し、町全体の静かな寝息が、この年季の入った神社にも流れ込んでくる。暖かく緩やかで、深い夜だ。

「ところで」

と、それが何かに気付いた様に、無い口を開いた。

「どうしてその女性は、墨丸、という名前をつけたのだろうな。いや、何、良い名だと思ってな」

 墨丸は数秒ほど黙り込んでから、少しずつ記憶を手繰るように話し始めた。

「婆さんが言ってたのは、墨丸というのは、何かの小説のな、登場人物の綽名か何かだったらしい」

「おや」

「何でも、その綽名の音の感じを気に入っていたんだが、今時、息子や娘につけるような名前でもないってんで、ずっとその事を黙っていたんだと。そんな時に俺がふらっと出入りするようになって、しかも名前を言わないもんだから、これ幸いと綽名につけたって訳らしい」

「は、は。光栄じゃないか。は、は」

 それが声を立てて笑った。墨丸は微かに驚いた目でそちらを見た。しかしすぐに、楽し気な様子につられたように口角を上げて話し続けた。

「あとな、『あなたの頭の毛なんか、墨で真っ黒く染めたみたいで綺麗よね。彼女は赤毛だったみたいだけど。でも何だかあなたにぴったりだと思うわ』とか何とか言ってた。まあ俺はその時も相変わらず何か食ってたが」

「は、は。確かに、先程声をかけた時、お前の姿は夜の中に溶け込んでいたからなあ。頭など闇に同化していて全く見えなかったよ」

「そうか? ふうん」

 墨丸は不思議そうに自分の頭を一度だけ撫でた。

「俺は学が無えから、その小説とやらもよく分からない。本というのをまともに読んだことが無いからなあ。だが、まあ、婆さんが結構、楽しそうだったからな。良いんだ、それで」

 ふっ、と吐息だけで笑った墨丸は、微笑みながら満足そうにゆっくりと瞬きをした。

 その様子を見たそれは、ふわりと墨丸の目の高さまで浮かび上がった。そして墨丸と視線を合わせるようにして止まった。

「楽しそうだな、お前も。結構なことだ、は、は」

「俺? ああ、まあ……そうかもしれねえなあ」

墨丸は闇の中で、酷く懐かし気に右目を細めた。

「婆さんも、もうすぐ死ぬかもしれねえんだろ、……そしたら、またもうすぐ会えるかなァ。今生では、もう会いに行くことは出来ねえけどよ」

その言葉を聞いて、それは安心したように、鳥居の下の参道を漂い始めた。

暖かい夜の、少し湿った様な風が微かに吹いた。

「人間は夏にな、家の前で焚き火をするのだそうだ。お前も見た事があるだろう。死んだご先祖様の魂が、その焚き火を目印にして家に帰って来るのだという」

 闇の中をゆっくりと流れる光の塊を目で追いながら、墨丸も返事をした。

「知ってる、婆さんもやってた」

 それは参道の上で緩やかに踵を返し、墨丸の方へ少しだけ近づいて言った。

「だから、その女性が夏に火を焚いたら、様子を見に行くのはどうだ。もし、小火(ぼや)騒ぎになっても、お前が誰かに知らせてやれるだろうし、な」

 一瞬の沈黙の後、墨丸はフッと可笑しそうに鼻から息を吐いた。

「ハハ、良い案だ。そうしよう。」

墨丸は、二度三度と寝返りを打った。その口元に心なしか笑みが浮かんでいる様子であるのを見て、それも鳥居の上の方に向かってゆらりゆらりと上昇し、神額の傍らに留まった。

「なあ、墨丸よ。あすこに大きな木があるのが見えるか」

「ああ?どこだ」

「あの本殿の横の、」

「ちょっと待て」

そう言って、墨丸はのっそりと起き上がり、神社の中に向かって、少しだけふらつきながら、歩を進めた。温い風がじんわりと吹き、ほんの少しだけ彼の足取りを助けた。そしてまた、二の鳥居の足元で立ち止まり、その亀腹に寄り掛かって、本殿の方に目をやった。   

それは墨丸の足取りを辿る様に二の鳥居まで漂って来て、笠木の上に音も無く着地した。

ぐるりと顔を上に向けて、墨丸はそれにぶっきらぼうに問いかけた。

「どこだ」

「あすこの手水舎の向こうだ」

 木製の小さな屋根が、参道の脇の暗闇にひっそりと立っている。

墨丸はそちらをじっと見つめて言った。

「うん? 何か屋根の後ろにあるようだが、よく分からん」

「遠巻きに見ているだけでは良く分からないだろう……何事もな。狛犬の所まで進んで来い。そうすれば良く見える。あの縄で囲われた、哀れな大木だ」

ふう、と溜息をついてから、墨丸はのろのろと立ち上がった。また背後から微かな風が吹いたので、それに乗せられるようにしてゆっくりと吽形の狛犬を戴く石の土台に近づいた。

ひたすらに口を引き結んだまま風雨に曝されている狛犬を見上げてから、その視線を少し下げると、その先に古い落ち葉だらけの手水舎の水盤が見えた。そしてその奥には、土で汚れたままの細い縄と紙垂に四方を塞がれた、この境内では一番大きな常緑樹がひっそりと佇んでいた。

「あの縄で四角く囲んだでっかい木か」

「そうだ」

「あれがどうした」

 墨丸はそう言いながら、吽形の足元に座り込んだ。そしてそれが、綿毛の様に光を弾ませながらこちらへ漂い、阿形の方の狛犬の頭にそっと着地する様子をじっと見上げていた。

「あれはなあ、ムクノキというらしい。今、丁度、花が咲いている。小さくて目立たないがな」

「木の名前も、俺は分からねえ。全部一緒に見えるからな」

「それなのだ」

「はあ?」

墨丸は、思わずそれの方を見上げた。その様子をちらりと見降ろしたそれは、怪訝な顔を隠さない彼に構わず、話を続けた。

「あれは昔から、何とも見分けがつきづらい木らしくてなぁ。人間の喧嘩の火種に、度々なっていたのさ。」

「喧嘩?神社の木で?」

「そうさ、今はあまり無いがな。……あれはな、今でこそムクノキだと言っているが、その昔は、あれはケヤキだの、いいやエノキだのと言い張る人間が絶えなかった。」

 ふうん、と墨丸は軽い相槌を打った。

「そいつらは、そんなに似ているのか」

「ああ」

と、光の塊は狛犬の頭の上で答えた。

「よく木を知らない人間ほど、とんと見分けがつかないらしい。なんでも、葉脈……葉の筋の通り方や、葉の縁の微妙な形の違いで見分けるとか」

「へえ、そんな細かいの、いちいち見ないだろう。少なくとも俺は見ないぜ」

 墨丸は呆れたように、ふっと鼻から息を吐いた。

「ふ、ふ。だろうな。かなり昔だが、その意見の違いで殴り合いの喧嘩をした人間達が何組も、いたな。」

 それがそう言うと、墨丸は少しだけ眉を動かした。

「腹の足しにもならないのに、ご苦労なことだ」

 それは微かに揺らぎながら、狛犬の上でじっとしている。そして、ゆっくりとした語り口で墨丸に問うた。

「その軋轢を、どうやって解決していたと思う?」

 少しの間があってから、墨丸が答える。

「殴り合って立ち上がれなくなった方が負け、とか?」

「いや、もっと面白い。ある意味では、な」

何かを含めたような物言いに、墨丸は少し不満気な声で返す。

「何だよ」

「偉い人間がそうだと言った方が勝ち、だ」

それを聞いて墨丸はうんざりとした顔でふうと息を吐いた。

「どこぞの名のある学者、等と言う不愛想な老人を連れて来てなぁ。町の皆を集めて、たっぷりと聴衆の気を引いてから、その学者が言ったのさ」

そこまで言ってから、わざとらしく咳ばらいをして、それは楽し気に老いた男性の声音を真似た。

「『えー、これはですねぇ、特徴からして、えー、恐らくムクノキですなぁ』とな」

 墨丸は微かに口を横に開いて、へえ、と気の抜けた声を出した。

 それは話し続ける。

「観客の半分程が、わっと沸いて、そこから口々に観客が喋り出した。『ムクだって』『あの人がそう言ってる』『ケヤキ派とエノキ派は今どんな面してるんだ』などとな。は、は。その後の詳しい説明なんて、誰も聞いちゃあいなかった」

 呆れた様な顔で、墨丸は長く息を吐いた。そして、無言で佇むムクノキの方に目を遣って言った。

「良くあることだ」

「大半の人間にとっては、裏付けという名の『偉い誰かからのお墨付き』が大事なのだったのだろうな。興味深いことだ」

ムクノキはたった一本でこの地に立っていて、房飾りの様に細かい花をたっぷりと咲かせている。一方で、その足元の地面には、汚れた紙垂が一片、死んだように落ちていた。

 その様子を見て墨丸は、鼻から小さくため息をついた。

すると、それが座り込んでいる墨丸の目線までうろうろと降りてきて言った。

「なあ、墨丸。同じ様な話ばかりで飽きただろう。済まないなあ」

 これまでの饒舌さとは打って変わって、それは静かに、そう呟いた。

 墨丸はハッとしたように傍らで光る塊を見遣った。そして、その所在なさげな様子が面白かったのか、じっとそれを見つめながら、微かな笑い声を立てて言った。

「ハ、ハ。飽きやしないさ。それに、さっき話した婆さんの方が、まるきり同じ話しかしなかったからな。壊れたレコードの様に、というのは言い得て妙、だな」

「そうか」

そう不思議そうに呟いたそれに向かって、墨丸は小さく顎を引いて肯定の意を示した。すると、やや遅れて納得したような声で、それは

「そうか」

ともう一度、噛み締める様に言った。 

「いや、年季の入った年寄りのうわ言と思ってくれ」

 そう、言い訳めいたことを言うそれは、微かに早い鼓動のように、小刻みに揺らいでいる。

 墨丸はその光に言い含めるように、ゆっくりと言葉を返す。

「アンタら年寄りは誰かに何かを話していたい、俺は誰かの何かを聞いていたい。まあ俺も、そんなに若い訳ではないが……丁度良いじゃあねえか」

 それは小さい声で、丁度良い、と墨丸の言葉を反芻した。そして、妙にしみじみとした声音で言った。

「お前、存外に気の良いやつだなあ、何、その女性がお前を気に入ったのも頷ける」

 その言葉を聞くと墨丸は、少し気恥ずかしそうに、

「それを言ったら」

とすぐに話題の矛先を変えた。

「アンタも意外にお喋りだよなァ。長い間、話し相手も居なかったのかい」

 そう墨丸が問うと、

「ああ、そうだな」

と落ち着いた肯定が返ってきた。

「そもそも普通の人間は、死ぬ直前にこんな所に来ない」

「違いねえ」

 そう笑って言った墨丸につられるように、それも小さく笑って言った。

「まあ、お前のような、あの世とこの世の境目をうろうろしている奴となら、たまに会話が出来る、そのくらいがせいぜいだ」

「そうなのか」

「だから、こんなに誰かと話すのも、久し振りだ」

 そう言ってその光の塊はまた、ふふ、と笑った。

「私の声など、宮司でさえ聞き取れない者が多い。だから、私は一生懸命に語り掛けることを止めてしまった。どうせ聞こえやしないのさ」

それを聞いた墨丸は、

「ふうん」

と、微かに首を傾げて軽い相槌を打った。

「じゃあ、俺が聞いてやるよ。」

それの揺らぎが、ぴたりと止まった。

墨丸は同じ調子で言葉を続ける。

「冥途への土産にしてやる。アンタの語る何かを、な」

 夜の温い風が、神社の周りの木々を微かに靡(なび)かせた。ムクノキの枝も重なり合う様にして、暗闇の中でざわめいた。

 墨丸が、ふと黙り込んだそれに目を向けると、参道の縁でじっと呼吸を止めているかのように微動だにしない光の塊が、そこに居た。

 林の湿った匂いが、そっと彼らの間を通り抜けた。

「ありがとうなぁ」

それはやっと絞り出すように礼を言った。そして遠慮がちにまた揺らめき出して、言葉を続けた。

「私は、私の話をして良いのだろうか」

「俺が良いって言ってるだろ」

 それは何かを確認するかの様に、墨丸に問うていく。

「何を話すんだ。普段考えていることか?」

「それでも良いぜ」

「誰にも伝わらなかったことでも?」

「そうだ。何でも良い。アンタも言ってただろう、特にこれといった意味なんて無い、そういう自分自身の話を聞かせてほしい、ってな。そういうことだ」

 そう墨丸が返すと、それは一瞬、言葉を失ったように黙り込んでから、

「あは、は。これは一本取られたなあ」

と呟いた。 

すると墨丸は事も無げに返した。

「取った覚えは無いぜ」

「はは、そうか」

 光の塊は音も無く空中に浮かび上がった。そしてまるで脳内で考えを整理しているかのように、阿形の周りを緩やかに一周した。

「いや、初めてだ。私にそんなことを言う奴は」

「ふうん、そうかよ」

 墨丸は少しだけ背中を丸めて、肩を竦めた。そしてそれが落ち着くのを待った。

それは、ずうっと空中をうろうろしていたが、ようやく墨丸と向き合う様に、再び参道の端に降り立った。

木々の遠いざわめきが止んだ。

「私はこんな風に、誰かに胸の内を話すのは、初めてだ。自分でも、自分が何を話すのか、見当がつかない」

墨丸は、深い夜と共に、じっとそれの声に耳を傾けていた。

「私はいつか誰かに話を聞いて欲しいとずっと思っていた。しかし、いざとなると、何だか何も思いつかない。私がずっと抱えていた言葉は何だったんだ?」

風も無いのに、林が揺れた気がして、墨丸はぎゅうと右目を瞑り、開き、それから何度か軽く瞬きをした。そして手水舎とムクノキの方に目をやった。

ムクノキは、四方を縄で囲われ、紙垂を足元に落とした紙垂をそのままに、微動だにしていなかった。

墨丸は静かに声をかけた。

「アンタ慣れてねえんだろう。頭に浮かんだ言葉を、取り敢えず口に出してみるといい。俺もさっき、そうしていた」

その言葉を受けて、躊躇いがちにそれは、無い口を開いた。

「また昔話をしても?」

「ああ」

と墨丸はゆっくりと頷いた。

「思いつくことなら、何でも」

「そうか」

微かな風が、林の向こう側から墨丸達の元へ届いた。墨丸がスンと鼻を鳴らすと、温かな緑の葉の匂いがした。

「アンタはさっき俺に、話を聞く事しか出来ない、と言っていたが、俺だってそうだ。アンタの良いようにしてくれ。兎に角、俺はまだ、ここに居る」

そう言うと墨丸は、吽形の土台に背を預けるように、その場に座り直した。

 暗闇の中で、林の木々の微かな吐息が聞こえる様だった。

 それの光の輪郭が、少しだけぼやけ始める様子を見て、墨丸は長くゆっくりとした息を、鼻から吐き出した。

それはぼやけたまま、何かを懸命に思い出すように、話し始めた。

「ふう、そうだなぁ……。では今しがた私が思い出した話を聞いてくれ」

それは、まるで人間が考え事をする時にその場で歩き回るかの如く、阿形と吽形の間を行ったり来たりしながら、語り始めた。

「先程、人間は目の前の現象に物語を幻視したがる、と言っただろう。少し前までは、この神社にも、毎日の様に参拝する人間がそれなりにいたのだ」

 ゆっくりと、それは遠い日を懐かしむように、静かに話す。

「ある日、大きな野分……今は台風というのか、それが去った後、人間一人分程の大きな枝が、この参道を塞いでいたことがあった」

 墨丸はその様子をじっと目で追いながら、右手の爪で少し地面を引っ掻いた。

「ある人間はその光景を見て、『神様が、今日は無理せず帰れ、と言っているんだ』と呟いて、生傷を負った足を引き摺りながら帰った。別の人間は、『神様が私を拒絶しているんだ』とうなだれて泣きながら帰った」

 それは、ぼうっと陽だまりのような輪郭の無さで、そこに居た。

「もう一人は、『今までの道を変えて生きろ、という神様からの激励の印だ』と感動した様子で枝だけ拝んで帰った。更には、『こんなに綺麗な光景は初めて見た。台風のお陰だ』と言って写真、というのか、何かの機械越しにその枝をじっくりと見てから帰った人間もいた」

 かり、かり、と墨丸は遠い昔に固く均されたままの地面に爪を立て続けている。小さな石が、土の表面に転がり出てきた。

「最後に、当時の宮司が来て、『台風のせいで仕事が増えた。何だか最近ついてないなあ』と言って、溜息をつきながらあっという間に片づけた。そして皆、それきり姿を見せなかった」

墨丸は黙り込んで、土に汚れた爪の先で小石を突いている。しかし同時に、目の前のそれに時折目を遣り、じっと耳を傾けているようだった。

「勝手に何かを期待して寄ってきて、勝手にその光景を見て、勝手に何かの理由をつけて、勝手なことを言いながら離れて行った。もう二度と来なかったのは、その理由を信じたせいかもしれないし、そうではないかもしれない。死んだからかもしれないし、ただ来る理由が無くなったからかもしれない」

それは、一息つくように言葉を切った。

「まあ、わざわざ私が考える必要も無い」

 それは段々と息を吹き返すかのように確かな語り口になり、反比例するようにそれ以外の風景は闇の中に沈んでいった。

「そして兎にも角にも、この世の中の事象は、意味など最初から無いのさ。人間が勝手に分析だの、芸術だの、納得だのをするために後から意味をつけ始めたに過ぎない」

そして、今、それだけが、神社の中で必死に呼吸をしている様だった。 

微かな風が、静けさの中から流れて来た。

「今まで見てきたこと、これから見ること、そして今この時に何の意味を、見出すのか。過去や未来の、何との因果関係を見つめるのか。それが、人間……いや、我々の生き様であり、唯一無二の物語なのだろうな」

それがゆっくりと、手水舎の方に流れて行くのを、墨丸は右目で追った。

手水舎の枯れた水盤の中に重なって溜まった葉は、今はべっとりと暗い緑色のまま、時が止まっているようだった。もう今更、何を清めるという事も無い。

しかしこの薄墨色の石の器がずっと昔から受け止めてきた、鮮やかな緑の残り香のようなものが、ふと、鼻を掠めた気がして、匂いだけのそれを逃がさない様に、墨丸は大きく鼻で呼吸をした。それは水盤のふちに蛍の様に留まって、揺らぎ続けていた。

そして、それは不意に話しかけた。

「なあ、墨丸。冬にこの神社に来たことはあるか」

 墨丸は少し考える様に、その光の塊から視線を外して答える。

「いや、無いな。もっと暖かい時期に一度来た気がするだけだ」

 そうか、と自分だけで納得したように、返事をしてから、それは話し続けた。

「最近の冬の、特に冷え込む時期にはな、ぼんやりした表情で親に連れられた子供が幾人も来る。毎年違う親子なのは確かなのだがな、来る子供来る子供、皆同じ様な顔をしている」

「毎年毎年寒いのになァ。大変だな」

 それは墨丸の挟んだ言葉に頷くように、一度だけゆっくりと瞬いた。

「親は皆、何度も深く礼をして、特に大きな音で柏手を打ち、そして判を押したように同じことを願う。ダイイチシボウに合格しますように、ダイニシボウでも構いません、兎に角この子の将来が掛かっているんです、とな」

「ふうん」

「面白いことにな、隣に佇む子供の方は皆、瞬きをするだけの柔らかい人形のようだ。親の動きを観察しながら忠実に真似てはいるが、にこりともせずに全てを済ませている」

 墨丸は微かに眉を顰めながら、それの話を聞いている。

「これが本物の人形なら、瞬きをして自力で歩くだけで、周りの人間が、やんややんや、と大騒ぎするだろう。やあ自ら柏手を打つとは、等と言って、な。それなのに、人の子は、それだけでは何も言葉を貰えない」

 その光が少しだけ弱くなった。

「もっと、もっと、と親が他人の顔色を気にしながら、我が子の腕を引っ張り通しなのさ、ここに来る時、正にそうであった様にな」

 遠いところからの夜風が、神社に届いた。それはその風を受け取るように暫し黙った。堰を切った様に語り続けているその光の塊を、墨丸はじっと見ていた。

「人形よりも死んだ目をした人の子は、その小さい身体と柔らかい心に圧し掛かる虚無感に必死に耐えているのに、そもそも、その事実を伝える術を持たない様だ。だから、人の子一人を簡単に潰せる程の天井の重さを、そこから逃げられない苦しみを、ずっと無視され続けている。すぐ隣にいる親にさえ、な」

 そこまで一気に語ると、それは何かを思い出したように押し黙った。

 墨丸は、ハア、と浅い溜息をついて言った。

「気の毒なことだ。死にそうな子供の前で、親が何回威勢よく手を叩いた所で、なァ」

「は、は。まあ、その通りだがな」

 それは落ち着きを取り戻したのか、心なしかゆったりとした口調になった。

「その親もまた、誰かに腕を引っ張られ続けているようだ。恐らくそちらの痛みも相当のものだろう」

 一息ついてから、それは言葉を続ける。

「だが自分の痛みに負けて愛しいこの子を放り出す訳にはいかない、と、我が子の手を、必死に、ずっと、痛い位に握り続けているのさ」

「何だかなァ」

と墨丸は、独り言の様に呟いた。

「難儀なことだとしか言えねえや……」

 暫しの間、深い沈黙が流れた。まるで、この神社の中だけ、生命の呼吸が止まった様だった。

 墨丸は僅かに顔を歪めたまま、穏やかな呼吸を繰り返している。

 すると、手水舎の水盤にいるそれが、腹の中から呻くような声でゆっくりと呟いた。

「私もそうだ……今も昔も」

それは水盤の縁で揺ら揺らと頼り無い光を放ちながら、自分のバランスを取るかの様に動き始めた。

林もムクノキも、じっと微動だにしないまま、夜の神社の構成物として、各々の定位置に立っている。

木々は沈黙している。そこに、吹くはずの無い大きな風が、徐々に神社に吹き込み始めた。

「生贄の子供が、何人も……生きたまま、海に投げ込まれた。私は勿論何も出来なかった。海で……死んだことは確かだが……態々(わざわざ)……海まで連れて来て、投げ入れたのは……紛れも無く只の、群れただけの人間達だった」

 音の無い風は、墨丸の身体に空気を押し付ける様にして通り過ぎていく。

 それは風には構いもせず、苦し気に語り続けている。

「愚かで美しい人間の、死に際を決める権利を持つのはなあ……私ではないのだ……。皆が幻視している何かが……時に私の名前を名乗りながら、人間を駆り立て、追い詰め……殺してしまう……」

闇の中で不安定に揺らぐ、その朧気な光を、墨丸は吽形の足元から、じっと見つめていた。心なしか、墨丸の耳に入ってくるそれの声は、ゆっくりとした唸りを上げている様だった。

風は段々と強くなる。真正面からの風圧を受け、墨丸は咄嗟に目を閉じた。

「他の人間達の目に、何か、特別な『物語』を……見せなければ、と……。そうした方が『皆の為』、『誰かの為』だと、いう……妙な呪文を、唱えながら……我が子を殺す親は……ずっと昔から……、居る、のさ……。生まれたときから健気に、親に振り回されている、子供も、なあ」

 それは、絶えず海から届く波の様な不規則な揺らぎを強めた。そして、時折強く発光するようになった。

 墨丸は細く開けた右目を何度も瞬かせながら、その不安定な光の塊を見据えた。

「親も子も……そういう人間達は、なあ、は、は。こんな所すぐに来なくなる」

 重たい風圧が、神社全体に雪崩れ込む。

吹き荒ぶ風が、墨丸の身体を飲み込む。墨丸はそれに耐えるように、ぐっと肩に力を入れた。

「他人の目に心を殺されたか……他人の目に何かを幻視した親に心を殺されたか……。若しくは、抑々(そもそも)身体の方が耐えられずに死んだか……。そうさ、私には知る由もない、相も変わらず、な……あは、は。」

 墨丸はずっと風に耐えながら、それの光が蠢く様子を見つめていた。いや、目を離すことを忘れてしまったかのようだった。

 それは、全てを無かったことに出来るほどの深い夜の闇に、懸命に抗うかのように、より一層不安定な光を強め、激しく揺らぎ出した。不規則に強まる発光の間隔が短くなってきた。

そして、それは巨大な風にまみれながら呟き続ける。

「或いは……人間社会にはなあ……最終的な、生殺与奪の権が……周りの人間、では、なく、自分にあることを、確かめる為に……自分の身体を殺してしまう、人間も……昔から、一定数いる、からなあ。どうして……気が付かない」

 吹きつける暴風と共に、荒々しい春の闇が墨丸の全身を飲み込んだ。

 墨丸は、巨大な闇と風の中で、その力に抗う様にぐっと眉を顰めた。

そしてその吹き荒れる圧力の中で、それは強く鋭く、燃え盛る様に瞬いている。

「お前達……。そんな『物語』を信じて……ただの幻影を……そんな曇った眼で、必死に見つめたまま……苦しみながら……」

 その苦し気な声が、光の瞬きと共に、より一層強くなった。

 風は勢いを増し、墨丸に容赦ない風圧が襲い掛かった。墨丸はぐっと地面に爪を立て、背中を強張らせた。

「愛しい我が子を、自分を……もう、これ以上、殺すな……死ぬな……なあ、人の子よ――!」

神社を押しつぶさんばかりに吹き荒れる分厚い風が、有無を言わさずに圧し掛かって来る。墨丸は全身を強張らせて微動だに出来ないまま、目線だけを僅かに落とすのがやっとだった。

生身の彼が飲まれたのは、余りにも巨大で制御不能な、唸りを上げて蜷局(とぐろ)を巻く海の様なそれの感情だった。その空間は、正に、この世の何者にも御されることなく、永遠に続く地球の胎動と共に、計り知れない程の質量の水をぶつけて大地を圧倒し続けてきた、不気味な程に底の見えない大海原の様だった。

この神社全体が、途方もない年月を経てどろどろに膨れ上がったそれの身体であり、心臓であり、ひゅうひゅうと苦し気な呼吸を繰り返す巨大な喉笛そのものであることを、墨丸の生き物としての本能が、直ぐ様理解していた。

 重たい風が吹き荒ぶ。それはさながら光る弾丸の如く、鋭く輝きを増している。ぐうわん、ぐうわん、と境内が歪むような感覚を覚え、墨丸は、ぐんっと息を飲んだ。その暴力的とも言える空間の中で、墨丸は必死に耐えた。暗闇の中で、荒れた海に嬲られているかの様な感覚に、全身で耐えた。

「なあ、墨丸よ……。お前も思うだろう? そんな、あやふやな理由で、人の子は簡単に命を投げる……! 私は……見ているだけだ。……ずっと……見ている……だけだ……」

風が、微かだが勢いを落とした。はっとして墨丸は、それのいる手水舎の方を真っ直ぐに見つめた。荒放題の息を、身体全体で整えるかのように、それは大きく瞬いていた。

長いこと乾いたままの水盤へ空気を送るだけになった竹の管から、ぽたり、と透き通った水滴が一つ、零れ落ちたのが見えた。

大風は未だ吹き続けている。

そしてどれほどの時間が経ったのだろうか。

墨丸は、風に耐えながら、今一度ぐんっと唾を飲み込み、それに声をかけた。

「アンタ……怒っているのか」

それは無言のまま、尚も光を強めたり弱めたりを繰り返している。肺も喉も無いのに、荒い呼吸を繰り返す獣のようだった。

「神様だとか神様じゃないとか知らねえが、別に、怒っても良いと俺は思うぜ。人間じゃなくたって、怒りたい時くらいあるだろう」

 真夜中の台風の如き空気の騒乱は、少し治まったとはいえ未だに続いている。墨丸は身体全体にぶつかり続ける重たい風圧に耐えながら、それに声を掛ける。

「婆さんが言ってたけどな、人間は、悲しい時とか、寂しい時に、怒るんだと。いつも怒っているような人間は、心の奥底では、いつも悲しかったり寂しかったり、するんだって」

風が相変わらず吹き荒ぶ一方で、ふと、それの光の瞬きが弱くなった。

墨丸は、目も無いそれが、こちらを見つめ返してくるのを感じた。彼はそれに向かって小さな声で、しかしはっきりと、話し続けた。

「アンタはさ、ずっと落ち着いて何でも分かってる風に見えたけどさ、何か、あんまりそうでもないのかもしれねえなって、思うよ。何か、もっとこう、柔らかくて、頼りない感情を、自分でも気づかないまんま、ずっと長い間、独りで持っていたんじゃねえのかなァ」

 それはじっと、墨丸の様子を窺う様に何も喋らない。

「俺のことを優しいとか何とか言っていたが、俺からしたら、アンタの方がよっぽど優しくってよお……。だから、ずっとそれを抱えてきたんだなア」

 話す間に、身体に打ちつける様な空気の歪みが止んでいることに、墨丸は気付いた。

暗闇から殴り付けてくる大風が、少しだけその勢いを落とした時、それがようやく小さな声を発した。

「お前は、……私の何を、……知っている」

 墨丸は、少しの間黙ってからゆっくり答えた。

「大層なことは何も」

 すると光の塊は、一度だけ大きく歪み、

「は、は」

とだけ笑った

墨丸が気づいた時には既に、神社に吹き荒れていた風は緩やかになり、それは水盤の縁でまだ呼吸を整えているかのように、不規則な強弱で光っていた。

「なあ」

と、墨丸は小声でそっと、それに声を掛けた。

「アンタ、一体、何者なんだ」

 それは一瞬だけ、ふと光を弱めた。

 そしてまた整わない呼吸のような揺らぎを再開させた。

「難しい質問だ」

そう噛み締めるように答えると、その光の塊は、静かな溜息をついた。

「私は、何者なんだろうなあ」

 真夜中の生温い風が、通奏低音のように吹き続けている。

 墨丸はその呟きを受け止めるかのように、一度、右目で瞬きをしてから、再び問いかけた。

「アンタは、アンタ自身の何を知っている」

 それは手負いの蛍のような瞬きを繰り返しながら、小さな声で一言だけ、答えた。

「大層なことは、何も」

「ハ、ハ。そりゃ結構なことだ」

ゆっくりと流れて来る夜風に当たりながら、墨丸は笑ってそう返した。

しかし、あれだけの大嵐が過ぎ去った後とは思えないほど、神社内の光景全てが、初めに見たままであることにふいに気づき、墨丸は全身にぞわっと鳥肌を立てた。

「墨丸、そちらに行っても?」

「……ああ」

 それはふらふらと水盤から飛び立ち、墨丸がじっと見守る中、参道の石畳の脇の、久しく誰も踏んでいないぼそぼそとした土の上に、吸い寄せられるように着地した。墨丸から少し離れたその地面で、弱弱しく呼吸するそれを見て、墨丸は細く長く、鼻で深呼吸をしてから、口を開いた。

「アンタ、大丈夫か」

それもぽつぽつと返事をする。

「ああ」

「そっか」

「お前こそ……大事無いか」

「うん?」

「お前の身は今夜限りだと、いうのに」

「そりゃあ……」

「世話を……かけたなぁ」

 小さく背を丸めているような佇まいのそれは、遠慮がちに仄かに、明滅していた。

「ハ、ハハ。アンタの方が今にも死にそうじゃあないか」

「は、はあ。笑えない冗談だ……」

 墨丸はのっそり立ち上がると、その頼りない光の塊がいる方へ、じゃり、じゃり、と近づいた。生暖かい風が止んでいる。

 それはゆっくり近づいてくる墨丸に、一滴ずつ落ちる水滴のように、訥々(とつとつ)と語り掛けた。

「なあ、墨丸。私はこんなことをしたのは初めてだ。情けないような、でも何か悪いものから抜け出したような気分だ」

 少し黙り込んでから、それは意を決したように墨丸に問いかけた

「どうだ。今の私は可哀想か。滑稽か。醜いか。今、私はどんな風なんだ」

 墨丸は、弱々しく光るそれに寄り添うように、荒れた土ぼこの上で座り込んだ。

「おいおい、あんまり自分のことを悪く言うもんじゃないぜ。まあ、強いて言うなら、アンタは到底、『無』なんかじゃない。肉体こそ無いみたいだがな」

 それは黙って墨丸の言葉を聞いている。

 その様子をちらりと見遣ってから、

「だけどさ」

と墨丸は言葉を続けた。

「アンタの絶叫が聞けて良かったよ。死に際に良いモンを見た。これでアンタは、またこれからも生きていけるだろうよ」

 その言葉を聞くとそれは、ふん、と少しだけ笑ってから言った。

「よく言う。……だが、お前のおかげで絶望が薄まった気がする。何だか澱が流れた気分だ」

「アンタ、さっき言ってたろ? 空に放るだけでもすっきりするもんだって。アンタの、今のはきっと、魂の怒りさ」

 フウと鼻から息を吐いて、墨丸は続けた。

「ずっと寂しかったんだろう? そんな重たいモン放れたんだ、少しは楽になったんじゃねえか」

 何でもないような口調で言う墨丸に、それは驚いた様に一瞬だけその揺らぎを強めた。

「お前、学が無いなどと言うのは本当か?」

「ハ、ハ、本当さ。勉強とやらは出来ないが、生きていりゃあ色々あんだよ。アンタと同じ様にさァ」

「そうか……そうだったな」

 穏やかな夜の沈黙が、外からの空気の流れと共に漂ってきた。そしてムクノキの花は、何事も無かったかのように、微かに揺れた。

その空気に乗って、暗い林の湿った香りが、墨丸とそれの間に届いた。

暫くしてから、

「……なあ」

と墨丸が、光の塊に向かって声をかけた。

「本殿の裏の林ってえのは近くか?」

荒れた土の上でそれは一瞬だけ光が弱くなったが、すぐに息を吹き返したかのように瞬き始めた。

「もう行くのか」

「ああ」

「そうか……。それでは、ゆっくりで良い。私について来い」

そう言うと、それは参道から外れたまま、神社の最奥の小さな本殿の方へ、流れていった。

 墨丸は先程よりも時間をかけてゆっくりと立ち上がり、光の塊の流れた軌跡を辿るように、一歩ずつ歩み始めた。

 手水舎からの前から離れ、ひっそりと立ち続けるムクノキの前を通り過ぎ、誰も通らない参道の脇の土を踏みしめながら,墨丸は歩いた。古びた賽銭箱と鈴が、しんと静まり返った夜に縫い止められたかのように、拝殿の前に佇んでいた。

 その様子には目もくれず、それは拝殿の脇を通り過ぎ、さらに奥の本殿へとゆっくり流れていく。墨丸は、その光だけを見つめながら、時間をかけて一歩ずつ土を踏みしめるようにして歩いた。

 少しすると、それがぴたりと動きを止めたので、墨丸が顔を上げると、目の前には木製の太い柱が聳え立っていた。

「ここは?」

「本殿さ。いつも私が居るとされている所だ」

墨丸は、そうか、と小さい吐息と共に呟いた。

「林はまだか?」

「……このすぐ後ろだ」

「そうか」

と、墨丸はもう一度呟き、生温い空気を振りほどくように僅かに首を振った。

その墨丸の顔を微かな風が撫でて通り過ぎた。

それはその間、じっと黙っていたが、不意に墨丸へ言葉を投げた。

「なあ墨丸」

「うん」

少しの間逡巡してから、それは遠慮がちに無い口を開いた。

「少し私のわがままを聞いて欲しいのだが」

 墨丸がそれに目を遣ると、小さい蝋燭の様に仄かに揺らぐ光の塊が、そこに居た。

「何だよ」

 それは躊躇いがちに言い澱んでから、

「この柱に、少し傷をつけてくれないか」

と小さな声で言った。

「傷? ここは大事な場所なんだろ? 何だってそんな」

墨丸の問いには答えず、それは話を続ける。

「丁度、爪が伸びているだろう。引っ掻き傷の一本でもくれれば、それで良い」

「なあ、アンタ、どういうことだ? そりゃあ、そんくらい簡単だけどよぉ」

「お前、もうすぐ役目を終えるだろう。妻子も行方知れずというのだから、何か残して行ったらどうかと、思ってなあ。私は墓や何かを建てることも出来ない上に、死んだお前に線香の一本も上げてやれない……」

 拝殿よりも古びた本殿の、木製の太い柱の根元で、それはぎこちない瞬きを繰り返した。

 墨丸は少し驚いた様に、暫し無言でいたが、それの瞬きが弱弱しくなっていく様子に気付くと、すぐに口を開いた。

「アンタ、俺なんかを弔うつもりなのか」

その言葉に首肯するかのように、光の塊が一度だけ大きく揺らいだ。

「私は色々な命を見送ってきたが、お前は特別だ。だからお前をこれから弔う。お前が行ってしまった後……夜が明けたらな」

墨丸は、ふうん、と小さく鼻息を吐いて言った。

「何というか、変な奴だな、アンタは」

「変、というと?」

「アンタ、ずっと変わらない奴かと思ってたよ。ずうっと神様みたいなことしててさァ、諦めてたんだろ、独りで。だけどアンタ、今夜あんなに怒ってさあ、ハ、ハ。何だか人間みたいになったな、と思ってよオ」

 それは、ふん、と言って二度三度と瞬いた。

「……笑っても良いぞ」

「いや、褒めてんだよ。俺が言うのも何だが、アンタはこれからきっと、ずっと穏やかに生きていける。俺があの世までアンタの思いを持って行くからよ」

「そうか」

それは、ふうと息をつくように、一瞬だけ光の範囲を広げ、また落ち着いてから呟いた。

「お前の何かを残してほしいのさ。お前の肉体は、もう終わりが近いのだろう。お前たちはすぐ死ぬからなあ。……お前を思い出すために、私はお前の何かが欲しい」

一瞬、言葉に詰まってから、墨丸は

「光栄なこった」

と視線を地面に落として、呟いた。

「じゃあこの辺りを引っ掻けば良いか?」

「ああ」

「汚(きたね)え爪で悪いなァ」

 そう言いながら、墨丸は暗闇の中で右腕を伸ばし、少し黴の生えた木の柱に、一本、二本と斜めに傷をつけた。

「……『断簡零墨』という言葉がある。書いた物の切れ端とか、墨の跡が残った書物の一部のことを、そう言うらしい」

「へえ、墨の跡」

「お前の墨はきっと私の物語の一部分に残り続ける。墨丸、その老齢の女性とは意味合いが違うかもしれないが、私はお前の物語と共にある。この傷を見る度に、お前との物語を思い出そう」

その言葉を聞くと墨丸は、右目を少し見開いてそれを見つめた。そして、その右目を夜の闇の中でそっと伏せて言った。

「かたじけねえ。俺みたいな奴のことを、覚えていてくれるなんてな。俺はその言葉だけで安らかに死んでいける……」

「私だって、誰かが、いや、お前が、死ぬなんて考えたくもない。いつの時代になっても、死は悲しい。お前の死なら尚更だ」

それは二本の傷に寄り添うように、ふわりと浮かんで柱に近づいた。柔らかい光の掌が、傷をそっと撫でているような、温かい動きだった。

「だが、常に一定、変わらないというのは、歪みの一種だ。時が経てば、何かが動く。そして同時に、何かは留まる。その瞬間、何かと何かが引き合い、何かと何かが遠ざかる。変化が無ければ、日夜、変わっていく何某(なにがし)かの圧力に対して一定ではいられないのだ」

 それの言葉に、墨丸は、僅かに首を傾げた。

「どういうことだ」

「何、私は、嫌々ながらでも、お前の死を受け入れる、ということだ。そして私も、変化しながら存在し続ける、ということだ」

そうか、と独り言の様に呟いてから、墨丸は、スン、と一度だけ鼻を鳴らした。

「ありがとうよ。良い冥途の土産になったぜ」

それは、柱から離れ、空気中を漂うように滑らかに移動し、墨丸の鼻先まで近づいて止まった。

「……この建物の裏一帯が、林になっている。誰も立ち入らないし、誰も気づかない」

それは、ふっ、と笑ってから、諭すように言った。

「さあ、もう行くと良い。夜が明けないうちに、死に場所を探すんだろう」

 墨丸はゆっくりと右目で瞬きをしてから、深く長い呼吸を何度か繰り返した。そしてふいに首を振ってから、本殿の裏へと、よろよろと歩き出した。

それはその微かな足音を聞いていた。

「達者でな」

 そう、それが呟くと、荒れた土や雑草を踏みながら遠ざかる音が一瞬だけ止まり、

にゃあ

という鳴き声が聞こえた。そして再び歩き出したその足音は、真っ暗な春の闇に溶けて消えていった。

神社には、微かに風が吹き続けている。そして町はまだ、深く穏やかに眠っている。

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