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介護の目的って実際なんなんだ?

介護に関わる家族は一般人。だけどこの「一般人が介護する」って情報で有益だと思ったものがあまり見当たらない。

話題になりがちなのは、老老介護に多いんだけど「介護を楽しんじゃえ」みたいなもの。これは全く共感出来ないでしょ。暇人ならそれでも良いけど仕事抱えてるのよ。40代。自分の生活に他人の都合を介入させたくない。それが例え親であっても。

悩みは原因となる問題をクリアにすることが大切。介護の原因となる問題は不自由となったまま生き続ける人の存在。更に、介護って終わりが見えない上に、終わり=死なので、それを望む事は倫理的に良くは無い上に、それが一瞬でも脳裏をよぎった瞬間に、考えたことを後悔したりして鬱になる。最悪の問題。世の中の生産性を一番下げていると思う。

日本から介護の必要な年寄りを減らしたら、一気に生産性上がるんじゃないだろうか。

しかも介護が報われないのは、介護をやり遂げた先に明るい未来が見えないこと。介護を続けることで、体力的・精神的が回復しまた元気良く普段の生活をおくる。なんてことが無い。ゆっくりと死に近づくだけ。

これに気づくと地獄。死ぬまで続く現実。しかも親というだけで、子どもの大切な時間を奪う。親が死んだ後に何が残るというのか。

介護で残酷なことは、身近な家族が少しずつ出来ることが減っていくのを間近で見なければいけないこと。それが家族の介護なんだよね。その衰えは治療やリハビリで進行を遅らせたりも出来るかもしれない。けれど一歩一歩死に近づいているのは事実。時間を巻き戻す事ができない限り、その地獄を抱えるのです。

介護が必要だった人が一時的に体力を取り戻し「一人暮しをする」なんて言い出したら不安で仕方ない。ウチはこれで運転までしようとしたケース。
結果的に家族の負担は増えた。

そして、この状態が数年間続くことを考えなければならない。

母が長期入院のトリガーとなった入院が今から3年前。
この時僕はセカンドカーを手放した。理由は色々と生活に変化が出そうだったので自由な現金を用意したかったのと、何かと慌てたりで収入が減ったこと。一時的に僕の生活は揺らいだけれど、この現金は活躍してくれた。

母は3年っていう長い歳月をかけて、徐々に状態を悪くして行った。リハビリなどで軽い運動を行う。自分で食事をする。という状態から...、
今は、栄養を直接胃へ流し込まれ、会話は出来ず、僕の顔を見ても誰だかわらない。
入院の時、何もしなければ死んでいたと思う。それが3年を掛けて超スローに進行しつづけている。あとは老衰を待つばかり。

24時間空調が効き、必要な栄養は得られ健康状態は異常なし。時間だけが過ぎていく。胃瘻手術は父の判断。たぶんここまでの事を把握出来ていないままに選択したと思う。子ども2人には一切相談が無かった。

そして父が入院となる。

父は息切れや呼吸の苦しさを訴えて診察、そのまま入院となったのが去年の9月。それから何度か「明日死ぬかも状態」を経て、一人暮らしへ復帰するという流れを迎える。もちろんトイレへと歩くだけで息切れするし、歩ける距離も減る。起きている時間も減って、横になっている時間が増えていく。そうして「出来ることが減っていく」のを見せつけられている。

余命半年と初診で言われてから半年が過ぎ、いつまで続くのかと思いながら、明日死んだら後悔するかもと思って優しい言葉をかける。言葉の選び方もそうだし、ちょっとしたわがままに腹たっても、優しく対応する。全ては自分が後悔しないように。という日々が続いている。

もちろん、その裏側で日常である僕の表側が動いている。仕事もしなければ僕の生活はない。気疲れしてぶっ倒れることもしばしば。無駄な事に時間も体力も精神力も奪われていると感じている。生産性が一切ない。

医療が発達したと言うけれど、今は中途半端なのかもしれない。

ある病気に対しての特効薬が見つかったとしても、その治療中に安静が必要だったとしたら、病気が治っても歩けないという状態に陥る。

母の場合、家で転び骨を折ってから運動が減ってボケた様に思う。骨折は治り、その後のリハビリで体力も少し復活したものの、再度骨折を恐れてリハビリ以外の運動をせず、ボケも結果的に進行した。今は宙を眺めるばかり。

人が死を迎えようとしている状態に対して抗うことで、不完全なまま生き延びるという状態が「介護状態」なのだと僕は思う。

で、誰得?って言えば、誰も得してない。介護職でのトラブルもよく聞くし、あまり恵まれた環境じゃないよね。国の政策は経営者の儲かる手段としての仕組みを生み出してしまった。施設や介護者、介護職の方々は負担が大きい。金で動かそうとした罪。資本主義の欠点とも言えるかも。
もっと介護職の方々は優遇されていい。家族でさえしたくない仕事をしてくれている。社会は知っている様で知らない。親のオムツを見た時に初めて知る世界。もっと多くの人がそんな地獄を迎える前に知るべき。

単純に介護者本人が生きることを望んでいるのか?と問えば、母はしきりに「死にたい」と言っていたことがある。今なら「じゃ、死ねよ」と言う。
でもその時は「病気はしたけれど生きているのには意味があるのかもしれない。それが何かわからないけれど、生きている限りは生きることに前向きになる方がいい」と声を掛けた。今は全く思わない。発達した医療によって、無理やり生かされているだけだ。

ウチの両親はそろって医療費は1割負担。例えば介護用品で数千円の請求を見ると、その9倍のお金は元気に働く人達から税金として奪ってるのだと気づく時がある。それを使いながら「死にたい」と漏らす老人なんて最悪だ。

母の病院費用は月20万前後。お金が病院へ入り、その職員の方々の収入になるのであれば、それはそれでありなのだろうか。結論は僕には言えぬ。
現実は家賃を含めた僕の生活費より高額ということだけだ。

はじめは両親の死を意識した時、「もっと親孝行したい」って思ったよ。

ただ、それが3年とか続くと疲労と負担しかない。本人ボケてるし介護って誰得なんだ?

親が突然死んでしまい「もっと一緒に思い出作りたかったよ」と葬儀で涙するのが幸せと思う。急死したなんて聞くと羨ましいと思うのが本音だ。

今、両親が死を迎えた時。悲しみより先に「やっと終わった」と安堵感が生まれるだろう。子どもがそんな気持ちを持ってしまうことが両親にとって幸せとも思えない。

介護は残酷だ。医療はポイントを絞れば完璧に近づいているけれど、それは結果的に中途半端だ。

頂いたお金は両親の病院へ通う交通費などに活用させて頂いております。感謝いたします。