僕の日常に親がいなくなった話

父親の死後、淡々と業務的な手続きが進んでいく。急かされるままに葬儀や49日、年金の手続きやケータイの解約。さまざまに生きていた証みたいなものをひとつひとつ「死」というインクで塗りつぶしていく感覚。あまり心地よいものでもないけれど、特に忌み嫌う感じでもない。

自分の日常生活の中で「あ、父は死んだのだ」と思う瞬間は少なく、父を思い浮かべたとしても「死」が共存している感じもない。実家を離れて生活していく中で、いつのまにか父は「遠くに存在しているもの」として認識していて、それは亡くなったいまも変わらない。

たぶん父の生死は認識していなくて「いつも目の前に居ない」という存在は、父が生きていても死んでしまっても変わらないのだと感じた。
僕の生活と完全に切り離されているからこそ、それぞれが独立出来ていたのだと思うけれど、それが完全に認識の中で感情的なものにリンクしていないことに驚いたりもしている。

「親が亡くなる」それはドラマでも映画でも悲劇だと思っていたのだけれども、今僕が感じているのは悲劇ではない。亡くなったことを否定する感情でもないし、居ても居なくても僕と父との関係は変わらないということなのかもしれない。

僕の日常の中に父が居ないのは父が死んだ時に起きたことではなく、僕が自分の生活を送ることで居なくなったのだ。

母が入院することで経済的な負担が父にあることが分かれば、僕の生活に支障がない程度に援助してきたつもり。実際には無理した部分もあるけれど、父が入院してからは時間も使って寄り添える部分は努力してきた。

ただやっぱりその期間に不満はあったしストレスも大きくて、この感情こそ今思えば僕の生活の中に父が入り込んできたことによるものだったのかもしれない。自分の生活が自分の思い通りにならない時間が生まれてしまったこと、それは自由な暮らしを送りたいとフリーランスで働く自分の中に生まれた唯一のストレスだった。

父が亡くなることでこのストレスからの開放があって、結果的に父の闘病生活前の親子の関係に戻れたのだと思う。だから、今がまた正常な親子の関係に戻れたと勘違いしているのかもしれない。

父のことを嫌いな訳ではなく、むしろもっと色々知りたいと思っていた。ただ父もどこかで自分の生活を誰かに侵されることは望んでいなかった様に今は思える。二人の共通した感覚が二人のプライベートスペースを守り、それがそれぞれの関係を生み出した。

だとしたら父もまたひとりの時間を過ごせるのであれば…、とは思わない。人は死を迎えることによって思考は消滅すると思う。父が生きるのは生前に交流を持った人たちの思い出の中だけ。そこに父の意識はない。父はなくならないけれど、そこに父は無いのだ。

僕の中の父は思い出として誰も消すことはできない。だから父が居ないことが僕にとってなんの問題もない。これから思い出は増えることはないけれども、父との思い出が減ることはないから。

だからたぶん、そんなに悲しくはなくて、このままずっと同じ距離感で関係が続くのだと思っている。

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