見出し画像

締め切り#015 関西人が阿寒で考えたこと 第3回 / 檀上 遼

第1回第2回はこちら)

今回わたしは初めて北海道に行くにあたり一冊の本を読んでいた。
茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』という本である。
数日前から読みはじめ、昨日、関空から釧路空港へと向かう飛行機のなかで読み終えたこの本について少しばかりふれてみたい。

もともとは1984年に刊行され、昨年文庫化されたばかりのこの本の裏表紙にはこんなことが書いてあった。

「トキさん」は1906年、十勝の入植者の子どもとして生まれ、口減らしのため、生後すぐにアイヌの家族へ養女として引き取られた。和人として生まれたが、アイヌの娘として育った彼女が、大切に覚えてきたアイヌの言葉、暮らし。明治末から大正・昭和の戦前戦後を、鋭い感覚と強い自立心でアイヌの人々と共に生き抜いてきた女性の人生を描く優れた聞き書き。

ここでは本書の内容には深く立ち入らないけれど、作中では、紛れもないアイヌとしての人生を送りながらも、見た目は完全なシャモ(※アイヌ語で「日本人」の意)であるトキさんによって、彼女のその揺れ動く心情や葛藤とともにアイヌの激動の歴史が語られている。

ただ、わたしがここで注目したいのは、トキさんへの聞き書きを行った著者の茅辺かのうという女性の存在である。

茅辺かのう(1924〜2007)さんはちょうど今のわたしと同じ38歳のとき、社会運動や編集者業などのあらゆることを「すべてやめ」、単身北海道に移住。網走や帯広などで季節労働者をしながら、1965年から約3年間、阿寒湖畔のアイヌの観光土産物屋で働いていたという。

わたしはこの本を、今回の旅にあわせて購入したわけではなかった。

半年ほど前に、友人の付き添いでたまたま立ち寄った雑貨屋の書棚にぽつんと置いてあったこの本を、なんとなく面白そうだと思って購入し、そのまま積読状態にしていたのだ。
だからわたしは、北海道へと向かう直前に、ふとこの本のことを思い出し、軽い気持ちで読み始めたわけだが、なんとその本の作者が今のわたしと同じ年齢のときに北海道へと移住し、しかもこの広い北海道の中で、よりにもよって、これから訪れようとしている阿寒湖で働いていたという事実を知ったときには、ふしぎな縁を感じずにはいられなかった。
もちろん茅辺かのうと比べれば、わたしはただの一観光客に過ぎなかったのだけれど、本に呼ばれるとはこういうことなのかもしれないと思ったのだ。

北海道では「不安定な収入と引き換えに、時間に縛られない身軽な生活をすることにしていた」という茅辺かのう。
自分の境遇と比較するのもおこがましいが、しがない労働者をしながら細々と執筆を続けている身としては、50年以上も前にこんな気合の入った女性がいたという事実にとても勇気づけられたのだった。
『アイヌの世界に生きる』の妙味は、トキさんのその数奇な出自と強烈なキャラクターによる魅力もさることながら、アイヌ民族への差別が根深く存在し、まだ誰もアイヌ文化など一顧だにしなかった時代に、東京で働いていた一人の女性がすべてを捨てて北海道へと移住し、その地で自ら生活を切り開きながら、アイヌの人びとと知り合っていくところにある。

この日わたしは、折に触れてこの本に思いをめぐらせることになった。

ところで話を大きく戻すと、わたしは極寒の阿寒湖モーニングカフェツアーから戻ってきたあと、露天風呂でひとっ風呂浴びて、ちょうど食事を済ませたところなのであった。

身体も温まったことだし、そろそろ出かけよう。
だが、その前にわたしは宿の土産物屋に立ち寄ってみることにした。
かつて茅部かのうは阿寒湖畔の観光土産物屋で働いていたということもあったし、なにより昨日チェックインしたときにタダでもらった阿寒限定の商品券(コロナによる恩恵である)を早速使ってみようと思ったのだ。

観光地の土産物屋で売っている商品のラインナップなんて本来どこに行っても基本的にはそうたいして変わらない。ただ、当然ながらそこにご当地品が入ってくることで、その地方の特色が浮き彫りになってくる。それが阿寒湖の場合なんなのかというと、やはりマリモグッズということになる。

わたしはそこで見覚えのある顔を見つけた。

まりもっこり。

なんともいえないイヤラシイ表情を浮かべた、あの「まりもっこり」である。
「生きとったんかワレ!」とはまさにこのことで、ここ十数年、わたしはこの瞬間に至るまで、まりもっこりのことを思い返したことなど一秒たりともなかったが、その姿をひと目見るやいなや、当時彼(?)が世に登場したときの衝撃ががまるで昨日のことのように蘇った。
まりもっこりは2005年に誕生。あまりに強烈なその名前と下品な見た目で話題になった。
当初はキワモノ扱いされていたような気もするが、歌手の安室ちゃんや当時大人気だったフィギュアスケート選手のミキティ(安藤美姫)らが好きだと公言したこともあり、ちょっとしたブームに。

まりもっこり――。

そうわたしは心の中でつぶやいてから「もっこり」だなんて言葉、ずいぶん久しぶりに口にしたなぁ、と思った。

当時わたしは大学生だった。

17年を経た今も、まりもっこりは当時と変わることなくもっこりしつづけていた(これが俗にいう生涯現役というやつか?)。
今だったら完全にアウトというか、たとえ息を吐くようにセクハラをするようなどうしようもないおっさんだったとしても、企画の時点で「さ、さすがにこれはやめておくか・・・」と自主規制の気持ちが働くのではないか。
だが、かつてはこれがオッケーだった時代があったのだ。

実をいうと当時わたしはまりもっこりに対してわりと冷ややかな視線を送っていた。
なんというか「いやいや狙いすぎでしょ」といった感じで、あまりノれなかったのである。
けれども、ひょっとしたらあれはあれで良い時代だったのかもしれない。
昨今のなにかとコンプライアンスに厳しくなってしまった風潮に思いを馳せながら、わたしはしみじみと時の流れを感じていた。

ただ、ここまで書いておいてなんだけれども、わたしが探していたのは別にまりもっこりではなかった。
というより17年前と同じく、まりもっこりなんか別に全然欲しくなかった。
わたしが欲しかったのは正真正銘のマリモである。
今、目の前には本物の生きたマリモが大量に並べられている。
もっこりしているキャラクターが当たり前のように売られている状況もじゅうぶんおかしいとは思うけれど、食べられるわけでもない、いってみればただの「藻」が目玉商品として大量に売られているのも考えてみればなかなか奇妙な光景だろう。
気づけばわたしは瓶に入ったマリモを一つ一つ手に取りながら思わず見入ってしまっていた。

「マリモにご興味がおありですか?」

そんなわたしの心にスッと入り込むかのように、得意げな顔をした中年の男がいつの間にかそこには立っていた。
男は聞いてもいないのにマリモの説明を始めた。どうやらフロントの男のようだった。昨日チェックインした時には見なかった顔だ。
「まんぼう」中で宿泊客がいなすぎて暇なのか、あるいはわたしからなにかを感じ取ったのかはわからない。ともかく男はマリモに一家言あるといった感じで、それをわたしに説明したくてしょうがないというのがその表情からも見て取れた。

「わたしの家のマリモはこのくらいあります」

おもむろに両腕を伸ばし、まるでドラゴンボールの天津飯が「気功砲」を打つときのようなポーズをとったかと思うと、男は突然そういったのだった。
男の両掌の中にはソフトボール大の空間があった。わたしは一瞬そこにマリモが見えたような気がした。

わたしがマリモにこだわるのには理由がある。
実はわたしはかつてマリモを飼っていた。
いや、あれは「飼っていた」というのだろうか?
「育てていた」といったほうが適切かもしれない。
とにかくそれは家にあったのだ。

あれは小学校の低学年のころだろうか。家族の誰も北海道へ行ったことがないというのに、どういうわけか我が家にはマリモがあった。誰かにお土産としてもらったのかもしれない。それはちょうど今、目の前で売られているのと同じような小さな球体状の瓶に入ったものだった。
わたしにはときどきそれを揺らしたり、光にかざしたりしながら眺めていた幼いころの記憶がある。
ただ、そのマリモが最後どうなったのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。
わたしは熱帯魚や昆虫などが好きなタイプの子供だったから、いつ見ても代わり映えのしないマリモにしだいに飽きてしまったのかもしれない。あるいは瓶の水が腐ったかなんかして親に捨てられてしまったのかもしれない。

実は17年前まりもっこりがブームになったとき、なによりもまずわたしの頭に浮かんだのは「そういえばあのマリモはどうなったのか?」ということだった。まりもっこりにはこれっぽっちも興味はもてなかったというのに。
だが彼の出現以降、わたしは心のどこかで「機会があればまたマリモを育ててみたい」とうっすらと思うようになっていた・・・。

男はこの土産物コーナーで販売しているまりもの水を、すべて自分ひとりで水換えしているといった。週に一度のその行為を他の者にはまかせたくないという。その口調にはなにかしらの環境を司っている者だけが醸し出せる自負のようなものが感じられた。
男は梅干しくらいの大きさのマリモが入った瓶をひとつ手に取り、まるでワインをくゆらせるかのようにゆらゆらと揺らしながら、自分が今、家で育てているマリモも最初はこのくらいの大きさだったといった。
男は10年近くかけてマリモをソフトボールくらいの大きさにまで育て上げたのだという。もちろん今では瓶に収まるはずもなく、現在はエアレーション付きの水槽で管理しているらしい。

この男は決して自慢をしているわけではない。かといってセールストークといった感じでもない。一飼育者として、マリモを育てることのロマンを伝えようとしている――わたしはそう受け取った。
こういった土産物屋で大量に売られているマリモが、実は阿寒湖産ではなく、別の湖で養殖された人工のものであることくらい、もちろんわたしも知っていた。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

「マリモを買うならこの男から買うしかないだろう」

わたしがそう決断するのに時間はかからなかった(続)。

男から購入したマリモ(容器は替えた)。


檀上 遼

だんじょう りょう。兵庫県神戸市生まれ。文筆と写真を中心に活動中。著書『馬馬虎虎 vol.1 気づけば台湾』台湾旅行記『声はどこから』『馬馬虎虎 vol.2 タイ・ラオス紀行』など。
https://linktr.ee/ryodanjyo

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?