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第2回 心理学の闇🤷 【数字は客観的というギモン】  ー客観の源は「主観」そして「空気感」へ

みなさん、「数字は客観的」あるいは「数字は言葉より客観的」なんていう方、よく見かけないだろうか。📕  知識人・要職にある方にも往々にして見られる言説ではなかろうか。

「客観的」なんて言葉をいわれると、なんだか正しい「気」もしてくるし、説得力を帯びている「気」がしてくる。しかしながら、果たしてホントだろうか。😕

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実は、「数字は客観的」あるいは「数字は言葉より客観的」なんていう方、その「客観的」という言い方、「絶対」という趣旨で圧をかけてくる (主張を通すためのゴリオシの) 客観性になっていないだろうか。 🧐

「絶対」とは、その「数字」や「言葉」は何があっても同じ意味でしょ、色々な事情やその変化は配慮しないの、といささか凶暴な内容なのである。

これを「絶対的客観性」と呼ぶ。現在でも数字 (数値) は客観的」なんていう面倒な人は、頭の中がこの絶対的客観性でデキあがってる。 😷

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そういえば、むかし、むかし・・・、モノゴトが単純かつ無変動に捉えられ、コミュニケーションも一方的 (注) 、占領・服従されるか/するかで、異文化を尊重した交流なんてなかった時代、人間にとって「絶対価値」や「絶対法則」なんてものがある と思われていた。

(注) むかしは「相手に発信したら完了~♪」であった。現在では双方向の「理解」があってコミュニケーションと呼ぶことが多い。

「毎日、ほぼ同じ。変化なし。強い人・エライ人の言うとおり。それが当たり前。」というような世界観である。🙈 つまり「一定」が「絶対」を見せかける世界である。このとき、「これは『見せかけではないだろうか?』などというギモンを不問にできる力」を権威という。

この絶対的客観性の世界観にたてば、「数字 (数値)」だけではなく、「言葉 (言語)」にも絶対的な法則性を感じておられる強い人・エライ人が昔から (今でも 😦 特にコンサル系は酷いね。) おられる。「言葉が社会文化のすべてを司っている。」という類いの言説である。

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今回は、この絶対的客観性が与える心理的な闇についてみていこう。 🧐

その前に各分野でどのように言われているか概観しておこう。_________________________________________________________________________________


(1) 経済・投資・・・「数式と計算結果は客観法則」なんていう方、結構いますよね? 「計算は客観法則だ。計算結果は根拠だ。」というような説である。

そのような絶対的客観系の教授センセに「その算式の前提に客観的な根拠、ありますか?」と聞いてご覧なさい。「オマエは私の言うとおりに計算してればいいんだ!」なんてキレだすでしょう。😦 

これは「完璧な俺がその数式を決めたから完璧」と神がかっているか、トートロジー (同語を繰り返しているだけ) だけですね。

つまり、数字や数式って主観的な主張を基に作られ/ 使われたのであって、そこに客観的な根拠なんてないんですよ。それを絶対法則というようないいかたで隠蔽している。

良心的な経済学者・数学者は、「単なる仮定・想定ですよ。」とか「主観的な主張ですよ。」て言ってくれる。


(2) ・・・この分野では「法典の言葉を見れば、現実の問題はすべて解決できる。」なんていう。これ、概念法学なんて呼ばれてる。

そのような絶対的客観系の教授センセに「ルール化された文字面だけで、ホントに現実の問題が解決できますやろか?」と聞いてみてください。焦って「私 (エライ教授センセや判事) が決めた文字面は絶対だ!解決できない場合は、それを分からないヤツが悪い!」なんてキレだすでしょう。😦

これは「完璧な俺がその言葉を決めたから完璧」と神がかっているか、トートロジー (同語を繰り返しているだけ) だけですね。

その不満と反動として、現実的な目線を入れたのが裁判員裁判ですね (ただ、これは本来ならば市民生活にとって迷惑。)。


(3) 社会・政治・・・バラバラな個人の心理をまとめるのに「〇〇という共通価値やイデオロギーじゃないと絶対にダメなんだ。」なんてこと聞いたことありませんか。絶対王政とか帝国主義的な国家にはありがち。😦 

ただし、社会学・政治学には、既存の価値規範や既得権益を相対化してバラバラにして再構築するという強烈なテクを備えている。最近では、多様という言葉で、そもそも「まとめること (社会統合)」自体に疑問が投げかけられていますよね。


(4)  商業・経営・・・絶対王政とか帝国主義国家では国家が商業的価値や労働体系に介入してくる。重商主義なんていうのもあったな。😦 

一方、資本主義国家でも商売には望ましい価値がある (望ましい儲け方がある) と言いいながらも、ノーベル賞学者でも「この価値とは何なのか?」についての明言は避けてきた。

で、結局、オーナーや王様が好き勝手やってるよね。ノルマなんて正にそう、オーナーがおっ始めた商売環境をスタッフに押しつけ、スタッフ個々の事情は無視して主観的で絶対的な客観性を強制している。ずいぶん前から株主重視経営なんて呼ばれてる。😦 


(5) 会計・・・むかしは「絶対価値」つまり値段・価額はずっと一定なんて思われてる時代があった。😦 これ、絶対的真実ていうのよ。

けれど、いまは、状況や文脈によってその値段・価額って変わるんだってことを認めている。いや、むしろそれを認めすぎて、数値の正当性 (適正性) が怪しくなってる時価会計なんていうのがあるよね。

ただし、あまりに状況や文脈によって変わりすぎると無法地帯になるので (粉飾天国になるので)、一定幅を持たせた選択ルールが設けられているね。これ、相対的真実の報告なんていう。


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いかがであろうか。「数字や文字が客観的」なんていう絶対的客観性ってアヤシイ根拠・前提によって偽装されているです。

そしてその根拠・前提を権威者に問い詰めれば、その偽装されたバケノ皮が剥がれ落ち、キレながら横暴な権力者に変貌する。

そこんところ、商業・経営なんかは開き直って、それを前面に出そうとしちゃってるんですよ。ただし、社会や会計など一部の分野では相対性による修正がかかっている。

これらを踏まえて、「数字は客観的」といった言説の心理的な問題について、下記に要約しておこう。

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1.数字は単なる表現方法であって、その中身は文脈によって変わる。😦

数字自体は抽象的であって、ただちに客観的に何かを指している訳ではない数字は言葉と同じように表現方法のひとつである。「1」とは「それ」と同じである。たとえば、1袋にリンゴ5個が入ってた場合、「5」でなく「1」かもしれない。

数字は、その数字を採用するための根拠・前提を明らかにしなければ、その数字の意味がわからない。

そして、その数字の意味は、そして、それらが状況・文脈によって変化することに配慮しなければならない。

くわえて、それが良いことになるのか/ 悪いことになるのか、個々の主体によって異なる

言葉であれば、上記のようなファクターで意味の言い換えができることは簡単に理解できよう (意味論)。

先ほどの例でいくと「1袋にリンゴ5個」の5個は、多すぎて場所がないのか、そのストックが余裕を生むのか、果たして腐らせてしまうのか、来客に振る舞えばすぐに無くなってしまうのか・・・などである。

これを一般的な心理学ではリーフレームだとかリーアプレイザルなんて呼ばれる手法で、絶対的と思われた苦境を解体してゆく。数字も同じである。


2.数字はその前提の根拠を不問にすることで客観性が成り立つ。😦

数字はある意味を表現にする手段にすぎないのであるから (文字と同じく表現の方法であるから)、それ自体に客観性はない。数字が客観的に見えるためには、その数字を前提とする根拠が必要になる。しかし、その根拠は常に相対的でアヤシイ状態にあるのである。

その数字の根拠がアヤシイ状態にあることを不問にするためには、権力で封じ込めるか、群衆を扇動するか、などがある。ノルマなんてのはこの例である。この意味で、冒頭で述べたとおり、数字が客観的であるなどという言説は、主張を通すためのゴリオシなのである。

この偽装を正統化するの手法としては制度が使われる。つまり、制度化するということ、それは数字の意味が安定して受容されていることと同意である。数字は制度であると言い切る学者もいる。

経済学・金融工学・法学なんで呼ばれるものは、「数式や説明を難しくして一般の人に分からなくすれば、根拠がアヤシイ状態にあることを不問にでき、客観的であると錯覚させることができる。」というカラクリを使っている。このような偽装を社会学では解毒化と呼ぶ (笑)。

複数人の主観を<根拠のアヤシさ>から逸らすことができれば、<客観化>しやすい。このような超越自我的な客観性を間主観という。いわば、その複数人どうしが「そうである」ことに疑似合意した形である。そして、これが空気感、集団圧力、群衆心理の源になる。


3.数字は個性・個人心理と矛盾することがある。 😦

以上に鑑みると、①絶対的客観性は、間主観あるいは疑似合意によって創られた客観性であり、絶対性や法則性 (「それで当たり前だろ」という圧力) をおびる。②その絶対性ないしは法則性は、(本来は相対的なものごとに対して)、ある政策的な意図を持って提示されるものである。③そして、間主観あるいは疑似合意によって創られた客観性は、その政策的な意図の絶対的な無根拠さを隠すことで成立するのである。

このように、この絶対的客観性 (数字の客観性) というやつは、個性や個人心理、それだけではない、その主体が直面している状況とは全く異なる次元で提示されるものである。

まれに、心理学の分野でも、「5因子論 (BIG5) のような類型論 (数値) のほうが特性論 (言葉) よりも客観的で的確にパーソナリティを表現する。」みたいな話を聞くが、正直、それってどうでもいいわ、と思ってしまう。

たしかに、RPGドラクエのHPみたいに数値をグラフ表示すれば面白いし・見やすい、という利点はあると思う。ところがどっこいよ、数字をもって表現しただけで、その数字自体が客観的であるということににはならないだろうよ。理由は、すでに上記したとおりである。それは、因子をどのように設定するかの主観的な問題であったり、前提の根拠のなさをどのように覆い隠すか、などの問題である。

所詮、人間理解の幅を狭めて、あたかも客観的なように見せかけているだけで、数字も言葉もやってることに大差はない。翻って、人間理解の幅を広げまくって、意味不明なことを無秩序に言うのも止めてよね、と思う。

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これらを踏まえて、自然科学について考えてみよう。 😦 ニュートン力学的な算式からすれば、あたかも絶対的法則が観測されているように見える。しかし、量子力学なんてものになれば、観察者バイアスなどによって観る度に違う結果になる。そこで、「社会では、とりあえず自然科学を正確に観察することはできなくても、とりあえず役に立つレベル (長くなるのでここでは誰に役立つかは問いませんが) で表現しておこうか?」ということにしているにすぎないのである。

その点から言えば、自然科学の発達が必ずしも幸福に繋がるとは限らない。また自然科学が必ずしも問題を解決するとは限らない。自然科学の発達がコントロール不能なリスクを再生産しているという指摘もある。

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最後に、簡単な例を挙げて今回は終わろう。😆

「徒歩で東京から大阪に行ってた時代とくらべると、新幹線ができて便利になったね。」というのは昔と比べての相対的な客観性であって、絶対的な客観性ではない。ところが、同時に、今は新幹線を使うことが当たり前なんだから、「新幹線を使うべき。なんで歩いて大阪にいくんだよ?」となり、絶対的な客観性を帯びてくる。

そうすると、もはや「便利なもの」ではなくて「そうすべき義務」になる。これが心理的障害をもたらすのである。


*1)📘 拙著「神経マニピュレーション -クソ社会を生きるための技法-」2022年。https://www.amazon.co.jp/dp/B09YH77XB2/


以上。

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