カラダヨロコブやさしいごはん
壁に掛けてあるボタニカル柄のエプロン。
柔らかい綿素材で膝丈。
ぱんっとしわを伸ばすように振り広げ
わっかになった肩紐を首にかけ、左右の腰紐を背中側に一度回してから前に持ってきてお腹の前できゅっと結ぶリボン。
すっと背筋が伸びて毎回新しい気持ちでキッチンに向かう。
小さな頃から料理が好きだった。
いつも仕事でいない両親の代わりに近所のおばちゃんが色んな料理を作ってくれていて、その作っている姿を隣で手伝いながら眺めるのが楽しみで、
学校から帰るとキッチンから聞こえてくるトントントンと耳に優しい包丁の音にコトコト揺れる火にかけたお鍋、部屋中に広がるお出汁の香りに胸が躍った。
地元で採れる食材や新鮮な旬の野菜の数々を使った田舎料理。
大きく切った野菜の煮物、すり鉢とすりこぎですり胡麻を作るところから始める和え物、細かく切られた様々な具材が入った混ぜご飯、からりと揚がった薄衣の天ぷら、昆布と鰹節のきらきらした黄金色のお出汁で作る汁物。
すべての料理が綺麗で美味しくて良い香りがした。
温かい気持ちになれる優しい記憶。
10代の頃は将来何をしたいとか何になりたいとかハッキリした目標や夢がなくて、とりあえず周りの皆が一目置くような職業につけたらかっこいいな、なんてぼんやり思っていた。
料理はたまに作るくらいで、誰かのために何かをなんて考えたこともなかった。
人生観ががらっと変わったのは20歳で病気になったとき。
毎日の生活や治療はもちろん辛かったけれど一番苦しく感じのは食事だった。
摂食障害と呼ばれる症状は、食べたくないのに詰め込んだり、せっかく食べられたとしても吐いてしまう。これを食べたらどうなるのかと日々の食事に恐怖すら感じ出す。
何も味を感じない食事、指に出来た吐きだこ、抜ける髪の毛に、ボロボロになっていく肌と歯、喉の痛み。
空腹を感じる体に心底苛立ち、毎日泣きながら食べて泣きながら吐いた。
そんな私の体は過活動も起こし低体重になっていた。
そんな体で都会の一人暮らしすることは難しく、私は治療に専念するために自然豊かな地元に戻りゆったりと暮らすことになった。
実家に帰ってはじめの食事。
憂鬱な気持ちで椅子に座っていた私の前に出てきたのは
母が作った昆布と鰹節でだしをとって作ったお味噌汁だった。
具は玉ねぎとかぼちゃと卵とねぎ。
しばらくふんわりと立ち上る湯気をぼんやりと眺めて、一口だけでも食べようと決心してお椀を持ち上げコクンと飲んだ。
するととても良い香りがしてお味噌の味が口いっぱいに広がり、身体中ぽかぽかと温まった。
おいしい。
病気になって8年、初めておいしさを感じた出来事だった。
とろとろになった玉ねぎ、ほくほくのかぼちゃに、半熟のたまご、ぴりっと爽やかなねぎ。
ひとつひとつどれもがじんわりと味を感じることができ、私は食事を完食することが出来た。
きっと手間暇かけて作ってくれた料理。
何なら口に出来るだろうか、きちんと出汁をとろう、具は何を入れようか、お味噌が濃くならないようにしよう。
と、きっと色んなことを考えながら作ってくれた料理。
そう思うと自然と感謝の気持ちが芽生えたと同時に、もう食べても大丈夫なんだと安心感を感じた。
その出来事をきっかけに少しずつ自分で料理を作るようになり、食べ物を口に出来る量も増え、吐く回数も減っていった。
ある日幼い頃の記憶を頼りに思い出の料理を作ってみた。
どんな食材でどんな作り方でどんな味付けだったか、頭をひねりながら思い出の引き出しをこれでもないあれでもないと次々開いて探し回った。
曖昧なところもいくつかあったけれど完成したころには
一つの料理にどれだけ時間や手間がかかり、食べるひとのことを思いながら作っていたのか分かった気がした。
あれから7年、今ではご飯も野菜もお肉もお魚も、さらにはデザートも食べられるようになった。
当たり前に食べられるありがたみを強く感じながら考えることは
美味しい記憶は一生。
その美味しい一瞬の為に素晴らしい料理の数々があって、ひとりひとりに寄り添う物語がある。
一流シェフのような洗練されたで美しい料理は作れないけれど、
昔食べたような、こころが安心する優しい料理を作れたらいいなということ。
食に関する仕事ができるようになった今、
食べてくれる人ひとりひとりに
その気持ちを忘れないように一品一品丁寧に、
美味しい笑顔を想像しながら今日もキッチンに向かう。
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