足ることを知る
中国前漢の時代、劉向(りゅうきょう、前77~前6)という大学者が著した書に、『説苑(ぜいえん)』という書物があります。その中に、
「富は足ることを知るに在り」
という言葉があります。これは文字通りの意味で、「真の富は財宝のたぐいを得ることではない。満足するところを知ることである」というものです。
僕はこの言葉を読んだとき、すぐに京都龍安寺にある「知足の蹲(つくばい)」を思い出しました。これは、上の写真にもありますが、「吾れ唯だ足ることを知る」という言葉にふくまれる「吾・唯・足・知」の4文字について、どの漢字にも「口」の部分が入っていることに注目してつくられたものです。
僕が小学生のころでしょうか、Eテレで朝6時55分から放送している「0655」という番組で、この龍安寺を取り上げた歌があり、そこにこの知足の蹲が出てきます。メロディーも、背景に映る龍安寺の情景も美しいもので、いまだに忘れていません。
なので、そのころからいつか龍安寺に行きたいと思っていましたが、昨年の3月についにその念願がかないました。枯山水も美しいですが、その裏手の庭に静かにたたずむ蹲をみれたときはやはり感動しましたね。写真は、そのときのものです。
さて、本題に戻ります。この『説苑』が書かれたころ、中国にはまだ仏教は伝わっていなかったと思われます。なので、劉向は禅の教えを学んでこの書物を記したのではありません。一方、龍安寺は臨済宗のお寺ですから、知足の蹲はまさに禅の教えを記したものといえます。
ところが、両者の教えるところは同じです。つまり、「足ることを知る=真の幸福」という考え方ですね。仏教を知っている知らないにかかわらず同じことを説いているということは、この考え方がまさに「真理」だからではないでしょうか。
今よりもよい状態を望み、それに向かって努力することは大切です。そうした、自分の内面を鍛えたりするのはよいのですが、お金や他人の評価等、自分の外部にあるものに依存すると苦しくなります。もっと科学的にいうならば、「ドーパミン」による快楽に依存することと言えるでしょう。その快楽は一時的には自分を満たすことになるでしょうが、決して長続きしません。必ず、「もっともっと」という欲に心が蹂躙されます。
そうならないために、自分を依存に導きそうなもの、精神を刺激するようなものにはルールを設定するようにしましょう。ルールを守るのは面倒と思う人もいるかもしれませんが、こうした快楽に依存してしまった結果家庭が崩壊してしまったという話も聞くので、そうなるくらいならあらかじめルールで自分を規制したほうがいいに決まってます。
自分の心が苦しいとき、こうした自分の外部のもの、自分がコントロールできないものにとらわれていないか見つめ、そうしたものへの依存を少しずつ減らしていきましょう。その時、「足ることを知るのが富」という言葉が背中を押してくれるはずです。
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