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儒学と僕6(つづき)

これは前回のつづきです。前回は、『論語』学而編の第2章、「君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か」について取り上げました。そして、朱子学の解釈、伊藤仁斎の解釈についてそれぞれ述べました。
そこで今回は、僕自身の考えを述べていこうと思います。

前回の記事もそうでしたが、「孝弟」がここではかなり重視されていますね。
ただ、現在は、昔に比べると大家族が少なくなり、核家族化が進んでいますし、親と同居することも当たり前ではなくなっています。
また、孝を絶対的なものと考え、子と親の上下関係が厳しいのが本来の儒学の姿なのですが、現在こうした考えをする人は少ないはずです。
ただ、今回取り上げた章の趣旨は、「身近な人間関係から大事にしていく必要がある」ということなのだろうと僕は考えています。だから、別に親に「仕える」とか、親族に「従順になる」とかそこまでしなくとも、こうした人間関係を大事にする姿勢があればいいと思います。そもそも、儒学が生まれた時代と違って、現代は社会の移り変わりが激しく、親の言うことに従っていれば人生は安泰だ、などということは無いでしょう。親や親族の意見と食い違っても、自分の頭で自分の人生を考える必要があります。なので、僕は親や親族に「仕える」「従順になる」という考えには疑問があります。

加えて、皆が家族・親戚と仲がよいわけではありません。僕が思うに、この「孝」とか「弟」は子や年下の者が一方的に行うものと考えられていないでしょうか。それでは、いわゆる「目上」の立場にある人はその地位に甘んじて自分以外の立場の者を自分の所有物のように勝手気ままに扱ってよいのでしょうか。そんな道理はないはずです。これは、家庭から国家に至るまですべてに共通することでしょう。
僕はまだ「親」という立場になったことはありません。しかし、僕のまわりで、親から所有物のように扱われたり、親の期待に応えようとするあまり苦しんでいる人を複数見てきました。こういう人の心の内を想像するとどんなに辛いことかとこちらまで胸が痛くなります。
なので、僕は本来親子間は双方向的に尊敬しあう仲が理想だと思います。もし、今家族との仲が良好なのであれば、その関係を大事にし、家族に感謝の気持ちを伝えたり、家族が喜ぶようなことをしてあげることが大切です。

しかし、もし家族・親戚との関係で息苦しさを感じているのなら、そこは無理に我慢しなくていいと思います。我慢していると、心が壊れてしまいます。僕は今回、「身近な人間関係を大事に」と述べました。それが家族という人が多いのではないかとは思うのですが、別に血縁の有無が絶対ではありません。家族との関係がうまくいきそうにないなら、そうした悩みを相談できるくらい信頼関係がある友達との関係を大事にしたほうがいいと思います。誰が自分にとっての「身近な人」か、言い換えば「失いたくない人」かは自由に決めていいはずです。

そして、家族であろうが、友人であろうが、その「身近な人間関係」において相手に思いやりを尽くしていく。そうすれば、自然とそれ以外の人と接する場合も相手のことを思って行動できるようになる。これは、『論語』の「本立ちて道生ず」の教えの通りだと思います。
マザー・テレサの有名な言葉に、「世界平和を願うならばまずは家族を愛しなさい」、「この世界では食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓のほうが大きい」というものがあります。自分にとって一番身近な人間関係を大切にすることを土台とし、少しずつ広い範囲に思いやりを届けていきましょう。平和に貢献するのに、別に地位や財産はいらないのです。


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