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「世界で最も美しい障子」を作る組子職人に聞く“仕立て”の美学

「組子」は、釘などの金具を一切使わず、細くひき割った木に加工を施し、1本1本手作業で緻密な紋様を描く──日本の繊細な木工技術の結晶だ。
しかし、組子制作の技術を習得するのに膨大な時間がかかるため、事業継承する若者が少なくなっているのが現実である。日本人の和室離れの傾向も相まって、この流れはなかなか止まらないようにみえる。
そんな組子の伝統を引き継ぎつつも現代風にアレンジし、全国から注文が殺到。遠方から多くの若者たちが弟子入りにやってくるという工房が、島根県浜田市三隅町にある。名前は「吉原木工所」。室谷地区という美しい棚田の景観に囲まれる場所に位置し、スタッフは自然溢れる環境の中で制作を行なっている。
なぜ吉原木工所の組子は人々を魅了するのか。現代、そして未来に伝統工芸を継承する難しさとは。島根県にUターンした後、「リビング障子」などの数多くの組子デザインを発案、現在は製品開発やマネジメントリーダーを務める吉原敬司(よしはら・けいじ)さんに話を聞いた。
(聞き手:西嶋一泰、文:宮武優太郎)
吉原敬司(よしはら・けいじ)
島根県・浜田市生まれ。高校を卒業後に北陸で修行し、伝統工芸「組子」を習得。20代中頃に地元へUターンし、有限会社吉原木工所で職人の方々とともに組子を制作する。

少年が組子職人を目指すまで

吉原木工所の歴史は吉原さんの父の代、昭和33年から始まった。

「父は江津市の工房で修行し、木工技術を学びました。当時は、家屋や木に関することはとにかく何でもやったと聞いています。ひとつ象徴的な話があって、タンスって、なぜ一棹(さお)、二棹って数えるか知っていますか? 昔はタンスを持ち運ぶために、棹を支えにして担ぐことができたからなんです。ウチでも実際に、自分で制作した婚礼箪笥を背負子(しょいこ)で担いで、近所の家に納品しに行っていたそうですよ」

そうした父の仕事姿は、幼い吉原さんの目にどのように映っていたのだろう。

「僕は親父の仕事を見るのが好きでした。物心ついたときには「自分専用の金槌が欲しい」と母におねだりしたのを憶えています。父のことを建具屋や家具屋だとは認識していなくて、大工なのだと思っていました。だから、自分は大きくなったら大工になって、吉原木工所で働きたい。自然とそう考えるようになりました」

その中で吉原さんの父が目をつけたのが、伝統産業・組子だった。

「この地域では当時から組子を使った製品の制作はしていましたが、複雑な紋様を描く技術を持った職人はいませんでした。そのことに気づいた父は、唯一無二の組子の技術と吉原木工所の既存のお客様との繋がりを組み合わせれば、仕事がたくさんきてお金持ちになれると考えたのです。もちろん、そう簡単にはいきませんでしたが(笑)」

暗闇のなかで組子にだけ向き合う日々

高校卒業後、吉原さんは組子の制作技術を身につけるため、他地域の工房へ修行に行くことになった。そこは、遠く離れた北陸・富山の工房だった。修行の日々のなか、唯一の楽しみは月に一度の家族との電話だったという。

「工房には生活するために必要最低限のものしかなかったので、ひたすら制作に没頭していました。実家から月に一度お米が送られてきていて、そのたびに公衆電話で「また送ってくださいね」と家族に電話をかけていました。この時間だけが自分の楽しみでしたから、いま思うと相当な状態ですよね(笑)。父からは「まだまだ見習いだから」と電話でいつも言われていて、そのおかげで乗り切ることができたのだと思います。制作の第一線から離れた現在からすると、この頃は人生のなかで自分の作りたかった組子を一番作っていた時期かもしれません」

そんな厳しい修行期間を6年ほど過ごし、吉原さんは家業を継ぐためにUターン。しかし、その後も状況は苦しいままだった。自分自身と対話し、組子の制作技術の研鑽に励む日々が続く。

「戻ってはきたものの、僕に実績があるわけでもなく、組子の仕事を受けることはほとんどありませんでした。業務時間外に組子を自分で作って、試行錯誤しながら学んでいきました。しかし、そんな自分の情熱とは裏腹に「今時そんな技術を学んでも需要はないよ」と周囲の人々からは言われていて。この時期は寂しかったですよ、決して順風満帆とは言えませんでした。それでも「人々に組子の美しさを伝えられていないからだ」と思って、どうすればいいか考えていました」

その方法を探すため、吉原さんは業種の垣根を越えて様々な人と会って、新しい機会はないかと動き出したという。

「職人の世界にいると、どうしても視野が狭くなってしまいます。友人はもちろん、お客様や他業種で働く方たちとの出会いを通じて組子の新しいデザインが浮かぶこともありますし、商品のニーズを汲み取る機会にもなります。そんな出会いのなかでも、フランス・パリで開かれた展示会、「メゾン・エ・オブジェ」に出展したことは今に至る大きなきっかけでしたね」

西洋絨毯から「世界で最も美しい障子」を見出す

メゾン・エ・オブジェはインテリアとデザインの国際展示会で、高い技術を持つと認められた職人だけがここに参加できる。吉原木工所は、2012年にそんな重要な展示会を経験した。

「フランスへの出展は、ご縁としか言いようがない奇跡的なものでした。会社は組子以外の受注仕事で忙しくしていましたから、出展するとなると9日間ほど工場を空けることになります。それでも、なんとしてもこの機会を活かして組子の仕事がほしい。必死の思いで展示会へ行きました」

しかし、受注してから納品まで期間を要するという点がネックとなり、なかなか組子の販売につながらなかったという。慣れない海外での営業のなかで途方に暮れた吉原さんは、近くで展開されていたとあるブースから気づきを得た。

「自分たちのブースの向かいで高級絨毯が販売されていました。その絨毯は大きな模様が印象的で、僕の目を惹きました。もしかすると、組子も模様を大きくポップなデザインにして「洋間でも使える組子」というコンセプトで売り出せば、若い人にも受け入れられるのではないかとひらめいたのです」

これまでの組子は細かく複雑な紋様が特徴的で、制作には熟練した職人の技術が必要だった。しかし吉原さんのアイデアは、デザインから制作工程に至るまで、これとは真逆のアプローチであった。

「このアイデアであれば、欄間に施される組子よりも柄が大きいため、手間も少なく、一部は機械化できるかもしれないと考えました。和室ではなくリビングにも施せる組子が製作できれば、洋室化が進む日本の建築業界のニーズに対しても応えることができます。和洋折衷というわけです。当時の自分は実績こそゼロでしたが「これならいける」という確信だけはありました。いまでは、僕は「世界で最も美しい障子」を作っているんだ、という自負があります」

なにもない田舎だからこそつくれる、「癒しの組子」

吉原さんが発案した「リビング障子」は、2013年グッドデザイン賞を受賞することになる。

「ありがたいことに、そのときから全国でたくさんの受注をいただくようになりました。「組子はこんなにも美しい」ということをみんなに伝えたい一心で、需要があれば地球の裏側へも行ってやるという気概で働いていました。組子は日々の生活を彩るものであって、必需品では決してありません。ですから、地域を限定していたら仕事がなくなってしまいます。父の代は近隣のお客様が多数を占めていましたが、現代ではインターネットを使えば全国に発信できますからね。これは非常に重要なので、営業については今も僕が自分でやっています」

コロナ禍以降、海外との往来が難しくなっている状況については、どのように向き合っているのだろうか。

「新型コロナウィルスの流行で、取引先の飲食店が営業を停止しているところもあります。そういう話を聞くと、正直今後が不安になることはあります。経営者は自分が感染するリスクよりも、経済が悪くなって仕事がなくなり、スタッフに給料を払えなくなるリスクのほうが恐ろしいものです。そういった状況のなかで、吉原木工所では今しかできないことをやろうということで、新しい組子のデザインを施した商品開発といった時間のかかる仕事に取り組みました。そういった仕事を進めるなかで、ポジティブな面も見えてきました。たとえば、田舎への移住を希望する若い方が増えてきていたり、今後はもしかするとリモートでの受注販売が一般化するかもしれないといった話を聞くようになったり」

コロナ以降の世界では、組子の与える「癒し」がますます必要な要素になってくるかもしれない。吉原さんは、そんなふうにも話してくれた。

「組子を購入してくれるお客様は都会の方が多いのです。その理由は、もしかすると組子が与える心の安らぎであったり、落ち着きや拠り所であったりするかもしれません。僕たちが組子をつくっている島根県は、一歩外に出ると、山も田んぼもあって景色は美しく、おまけに米も美味い。気持ちを切り替えられる瞬間がたくさんあります。僕自身はもともと「こんななにもない田舎なんて恥ずかしい」と思っていました。しかし、工房に足を運んでくれたお客様から「棚田がとても綺麗だ」とか「カエルが鳴いていて癒される」とか、地域の良い面をたくさん言っていただくなかで、自分たちの環境の良さが見えてきました。働く環境という意味でも、たしかに都会と比べれば施設は貧しいですが、時間はたくさんあります。静かな環境のなかで作業に集中できますから、ゼロからなにかを作り出すという意味でも、田舎のほうが優れている部分もあるはずです。川しかない、田んぼしかない、信号も自動販売機もない。それが一周回っていいかもしれない。そんなふうに思うようになりました。そんな環境で生み出される組子が、都会に暮らす方にとって癒やしになっていたら嬉しいなと思います」

小手先だけの器用は要らない、不器用な職人でも構わない

そんな吉原さんとともに仕事をする制作スタッフは、どんなメンバーなのだろうか。

「吉原木工所に入社してくれる子たちは、島根県内はもちろん、山口や鳥取などあちこちからやってきます。ルーツの異なるメンバーですから、みな個性的です。制作に没頭する子もいれば、木という素材そのものに惚れ込む子もいます。一般のお仕事ではなかなか行けない現場での仕事を受けられることに魅力を感じる子もいるのかなと思います。チームでものづくりをすることで、僕より上手な職人も出てきつつあります。自分だけが制作をしていても、組子の技術は広がりませんから、本当に誇らしく思っています」

しかしマネージャーとして、製品の出来栄えやスタッフの仕事への姿勢には、厳しい目も向けているという。

「僕は当社の製品を最高のクオリティでお客様に届けるられる様、品質管理も行っています。組子を必要としてくださるお客さんに、ベストの状態で届けるのは当然のことでしょう?組子制作はとても精巧な作業ですから、万が一お客様が気づかない様な不備があったとしても、僕はそれを許しません。これは全スタッフに伝えていることですが、やっぱり、大切に作る、という気持ちが抜けていたら叱りますね。しかし、同時にあなたと一緒にやりたいんだという僕の想い、愛を伝えるようにしています。そうでないと、職人たちもついてきませんからね」

顧客がいなかった時期を経験しているからこそわかる、仕事を頂いた有り難みと大切さ。何よりも、スタッフが仕事に取り組む姿勢に注目しているという。

「この仕事においては、マインドが第一です。小手先だけの器用は必要ありません、職人でも不器用でいいんです。正しい姿勢でやっていれば、技術は後からついてきますからね。僕も修行を始めた当時は、同期の誰よりも下手でしたよ(笑)」

「めっちゃ楽しいんです、作るのって」

孤独を味わったからこそ感じられる仲間がいる幸せ。吉原さんはそれを存分に噛み締めて、仕事に取り組んでいるそうだ。

「ここ数年、僕の精神状態は、とても幸せなんです。組子づくりは僕の意志で勝手にやっていて、今までお客様から必要とされていませんでした。こんな技術意味あるのかと、ネガティブな気持ちになる時もありましたが、今はたくさんのスタッフに囲まれている。何より自分が求めた夢とか目標に共感して集まってくれているんです。こんな日が来ると思ってなかったと、自分自身が一番驚いています。だからこそ彼らを離したくないし、一緒に仕事をして、「ああ、ここで働いてよかったな」と思える様な環境づくりをしたいんです。彼らには常々言ってるんですよ。「俺たちは最強チームになるんだって」」

最後にこう訊いてみた。なんでそこまで仕事に対して熱量を持てるのか。24時間仕事のことで頭が一杯じゃ無いのか。それに対する答えは、至極シンプルなものだった。

「だってめっちゃ楽しいんです。作るのって。今は制作業務の大半はスタッフに任せていますが、僕自身制作工程の楽しさは知ってるし、それにお客さんが喜ぶ顔が見れて、ついでにお金までもらえるなんて、こんなに楽しいことはありませんよ。その分失敗したら凹むことは大きいですが、幸せです。逆にそういうものに出会えなくて辛い思いをしてる迷ってる子たちも多いでしょうし、とりあえずどんどん挑戦してみて欲しいと思います。悩んでいるスタッフがいたら、「でも、作るのって楽しいだろ?」って聞いています。やっぱり「はい」って言ってくれるんですね。そして「まだ下手だけど、うまくなったらもっとおもろいで。どんどん楽しくなってくるで。」って伝えると、また仕事にのめり込んでくれるんですよね」

吉原さんはニカっと笑い、後輩の成長と、これからの組子産業の未来が楽しみで仕方ない様子だった。

伝統産業は廃れていく──そんなネガティブなイメージからは程遠く、組子を愛してやまないその姿。彼に憧れ門を叩く若者達が多い理由が一つわかった気がした。彼が仕立てていたのは組子だけでは無い。教え子たちが一人前になるまで、彼らが本当に愛するものに出会えるまで、厳しさと優しさで研磨させ、美しく仕立てていく。吉原木工所には、吉原さんの美学を以てしつらえられた、組子と、そして仲間たちがいた。

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手を動かすなかで、新しい生き方を探る。たしかな手触りをもった、自分らしい暮らしを作る。そんな島根のクラフツマンたちとつながる場「Craftsman’s Base Shimane」。