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さらば昭和のヒーロー

最後の闘魂

https://youtube.com/watch?v=S0hHUHHv1J0&feature=share
 アントニオ猪木氏と「昭和の巌流島」と呼ばれる名勝負を繰り広げたことで知られる元プロレスラーのマサ斎藤こと斎藤わ雅典さんが死去していたことが分かった。

「昭和の巌流島」死闘を繰り広げたもう一人、ストロング小林!

 近しい関係者によれば小林さんは昨年末に都内の病院で亡くなった。死因は不明だという。

 小林さんは1966年に国際プロレスに入門。翌67年に日本初の覆面レスラー「覆面太郎」としてデビューした。68年から素顔に戻り、国際プロレスのエースとして活躍した。

 74年2月には国際プロレスを退団し、一時的に東京スポーツ新聞社の所属レスラーとなった。同年3月に新日本プロレス蔵前国技館で猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦。ジャーマンスープレックスで敗れたが、当時としては異例の日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチは高い注目を集め「昭和の巌流島」と呼ばれた。

 その後は新日本プロレス、WWWFなどで活躍し84年に引退。引退後は「ストロング金剛」の芸名でタレントとしても活躍。芸能活動引退後は脊髄損傷の重傷を負い、数年前から寝たきりの生活を送っていることが明かされていた。

東京スポーツ

関門海峡に浮かぶ無人島・巌流島(がんりゅうじま)。慶長17年(1612)4月13日、宮本武蔵(みやもとむさし)はこの島で佐々木小次郎(ささきこじろう)と戦い、勝っています。そのことは有名ですが、では、何で武蔵は小次郎と決闘したかとなると、そのへんは謎に包まれているのです。
また、宮本武蔵にとって関門海峡は決闘の場所だっただけでなく、後に7年間暮らす生活の場でもありました。
というわけで、関門人物伝、第2回は宮本武蔵です。

実は関門海峡に浮かぶ、あの有名な無人島「巌流島」に行こう!


宮本武蔵を語る前に、まずは、巌流島へ行きましょう!
巌流島の本当の名前は船島といいます。この島に行くには、門司と下関から出ている連絡船に乗ります。門司側は門司港駅のすぐ近く、下関側は唐戸市場の横に船着き場がありますので、すぐわかります。いずれも40分おきに船が出ていますし、乗船時間は10分程度ですから、気軽に上陸することができます。

船を降りると、「ようこそ巌流島へ」というアーチが出迎えてくれます。まさに関門時間旅行の入口です。ワクワクしますね。島は遊歩道が整備された公園風になっています。まず、舟島神社にお参りし、村上元三『佐々木小次郎』の文学碑や佐々木小次郎の碑を見学します。少し歩くと、島の先端部分に武蔵と小次郎の決闘を描いた像が見えてきます。武蔵が木刀を振り上げ、小次郎は物干竿の異名をとる長刀を構えています。この空間だけは空気が引き締まっていますね。角度によれば対峙する二人の間に関門橋が見え、まさに海峡の決闘だと実感します。

島の面積は10万3000㎡で、東京ドーム2個分の大きさですが、そのほとんどは近代になって埋め立てられたもので、当時の島は1万7000㎡で、細長い、まさに舟の形をした島だったのです。
で、この船島、なんで巌流島と呼ばれているのでしょうか? 実は厳流とは佐々木小次郎のことなのです。小次郎の号であり、流派の名前でもあります。
普通に考えると、勝った方を讃えて、武蔵島になってもよさそうなのに、なんで負けた巌流の名前がついたのでしょうね。何か訳ありみたいですね。

陰謀が渦巻いていた江戸時代初期の小倉藩

剣豪・武蔵のイメージは吉川英治の『宮本武蔵』や井上雅彦の『バガボンド』が強いのですが、その実像は謎に包まれたままです。取り上げる史料によって大きく違ってきます。

宮本武蔵は、自身が書いたとされる『五輪書』によれば天正12年(1584)に播磨で生まれ、諸国を回って厳しい修行を積みました。60余度の他流試合をして一度も負けたことがないまま、小倉にやってきます。対決のときは28歳くらいです。
一方の佐々木小次郎は武蔵以上に史料はありません。吉川英治は岩国生まれで、対決時は18歳の美少年として描いています。
しかし、近年、佐々木小次郎は小倉藩が治める豊前の国で生まれたという説が有力になっています。『彦山・岩石城と佐々木小次郎』(梶谷敏明著)によると、佐々木小次郎は岩石城(がんじゃくじょう 福岡県田川郡添田町)を拠点とした土豪、佐々木氏の一族で、彦山の山伏から兵法を学び、岩石城から「岩流」(巌流)と名乗ったと考えられています。

いずれにしても、佐々木小次郎はその剣術を活かして、小倉藩の剣術指南になっていたようです。『二天記』によると小次郎もまた、一度も負けたことがないということです。まさに地元のヒーローです。
そこに、宮本武蔵がふらりとやってきたのです。無敗のチャンピオンが二人も小倉藩に存在することになります。本人たちはともかく、弟子などの取り巻きは冷静ではいられないでしょう。統一王座決定戦をやらせたいという気運が盛り上がったことでしょう。
小次郎としても、剣術師範としてのプライドがあり、武蔵を倒せば全国に名を轟かせることができます。

それだけなら、剣術家同士の純粋な決闘ということになるでしょうが、ここに当時の小倉藩(細川藩)が絡んできます。どうも、政治的陰謀の匂いがしますね。

戦国時代の佐々木氏は岩石城を拠点とした地方豪族土豪でしたが、豊臣秀吉の九州平定の際、降伏を余儀なくされます。そしてこの地を領した細川氏の支配下に入りました。つまり、細川氏からすれば警戒すべき勢力です。もし反乱を起こされれば大変なことになります。そこで、懐柔の意味もあって一族の佐々木小次郎を剣術師範として遇していたと考えられます。

ところが、この小次郎が力を付け、藩内のヒーローになっていったとすれば、藩の重鎮はいい気分はしませんよね。
そこに現れたのが宮本武蔵です。武蔵が偶然来たのか、藩が呼んだのかは定かではありませんが、決闘という形で佐々木小次郎を葬れるのであれば・・・と小倉藩の誰かが考えても不思議ではありません。

え? 宮本武蔵は遅れてないし、佐々木小次郎を殺してもいない!?


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