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今日も「け!」で終わろう。

駅に降りた。前を歩く女性が肩から下げているかばんに目がいく。白地のトートバッグに青色で「M」の文字が刺繍されている。こうしたかばん自体はよくあるものだが、A~Zまでの26文字のラインナップからなぜMを選んだのかが気になってきた。残念ながら本人に直接聞けるような性分ではないため、想像してみる。

一番シンプルな理由は名前のイニシャルがMのパターンだろう。まりさん、みかさん、むさしさん。もしくは苗字のほうかもしれない。松本さん、三日月さん、ムルジエンムさん。最近、私は結婚して苗字がMから始まるようになったからーそれまでは苗字も名前も両方Sだったため、ホグワーツの創始者の一人、サラザール・スリザリンのようで気に入っていた—もしかすると同じ苗字かもしれない。途端に後ろ姿に親近感が湧いてきた。

いやいや、そんな単純にアルファベットを決めてよいものだろうか。氏名に関わるMだとしたら個人情報に関わる。公共の場では誰が見ているか分かったもんではない。もう少し脇を締めなくては。そこからパスワードを想像されるおそれだってあるのだから(それは言い過ぎであるかもしれないことを早めに訂正しておく)。

そうこう想像を膨らましているうちに角を曲がり、彼女を見失ってしまった。そこで自分だったらどの文字にするだろうかと考える。上述の通り、SとMは除外するだろう。夫はお茶のことを「おティー」と言う上品な人だ。風呂上がり、「おティー入れといたよ」と言って差し出してくれる優しい人なのだ。決まった、私は思いやりあふれる「T」を選ぶことにしよう。

アルファベットでは少々悩んだが、50音だったら最初から決まっている。それは「け」だ。厳密には「け!」であるけれども。仕事帰り、友達と遊んだ帰り道、私たち夫婦はLINEで「け!」と送り合う。もともとは「帰る」が「けえる」に訛り、そこから「けりまる水産」や「けけ!」などを経て、今の「け!」に落ち着いた。「け!」と連絡が来ると、待っている側はもうすぐ帰ってくるんだと心が浮き立つし、送った側は「今から帰るよ。待っててね!」という気持ちをこの一文字に込めている。一日のLINEが「け!」で終わっているということは二人ともが今日も無事に家に帰ってきたということだ。私たちの日常を守っている、愛すべき「け!」に敬意を込めて、私はかばんに「け!」を刻みたい。


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